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 あれはいつのことだっただろう。いまとなってははっきりと思い出すことはできない。遠い昔だったような気もするし、つい最近のことのような気もする。時間の作用が入り乱れ、前後の間隔が歪んでいる。それによる実際的な不自由は特に思い当たらないから、そんな事態が僕の身に起こったとしても別に構わないけれど、改めてこうして口にしてみると、どことなく不都合なような気もする。理由を求められた際にはっきりとした説明ができないから。ただ、別にそんなものは求めてはいないし、僕もしようとは思わない。思うがままに、頭に浮かんでくるがままに述べていこう。幸いなことに浮かんでくるものが尽きることはない。次から次へと生み出され、どこかへ運ばれ、適切な処理がなされる。なんてシステマチックなものでは決してないけれど、有機的な活動の中にそうした無機的なものが幾分含まれていることは否定できない。

 何か適切なメタファー、例えば絶えることのない雲の流れ、のようなものを埋め込んだとしても、あくまでメタファーはメタファーであって、本質ではない。本質を理解しやすいようにした便宜的なものに過ぎない。だからそんなものは用いず、あるがままの実体、そんなものがあればの話だけど、それを晒していきたい。

 あのときの僕は退屈していた。特定のなにかによってではなく、ただ漠然とした退屈に覆われていた。それは空気のように僕を包みこんで離さなかった。どこに行ってもついてきて、何をしていても僕の隣にいたような気もする。あなたにもそんな感覚に陥った経験はないだろうか。ふとした瞬間、例えばトイレの栓を捻ったときとか、電車の電光掲示板をぼんやりと眺めているときなんか。ない?それは申し訳ない、僕の例えが適切でなかったのかもしれない。でも実際に僕はそうしたふとした瞬間に、茫漠とした退屈あるいは閉塞感に襲われていた。さっきもいった通り、理由はよくわからない。僕のような年齢の人に特有のものなのか、ないしは僕個人の問題だったのか。どちらかというと前者のような気がする。街を歩いてみると、みんな同じような表情をしていたのだから。もちろん僕のその一人に含まれている。

 だからといって何か解決策があったわけではない。原因がよくわからないように、解決策も見事なまでに秘匿されていた。もしかすると、そんなものはそもそも存在しなかったのかもしれない、なんていまにして思ったりもする。始めから存在しないものを、手にいれることができれば幸せになれるもの、なんて煽られて必死に模索していたのかもしれない。出口のない迷路で彷徨っているようだ。迷路に入った覚えはないし、もちろん入りたいなんて思った試しもない。どうすればいいのだろう。

だけど四六時中そんなことばかり考えていたわけでもない。現実を生きるために仕事をしていたし、何もしなくても時間は一定の方向に向かって進んでいた。日常というものをこなしていた。どちらかというと僕は早々に模索することを諦めて、別のベクトルで打開しようと試みていた。どこに向かうかわからないものの、何かしらの答えがあることを期待して。いまもまだその道程の途中なのかもしれない。何度か方向転換は求められたが、いまのところ挫折することなく続いている。

その道程の詳細を書いてみようとも思うけれど、おそらくそれは不可能に近い。俯瞰的に見ると一本の道になっていても、細部は複雑に入り組んで、様々な要素が現れては消えている。それを言語化しようにも、残念ながら僕の中の語彙では冗長なものになってしまうだろう。面白おかしく脚色することもできないし、流れるような文体を生みだすこともできない。非常に残念に思う。もしこれが一流の音楽家ならそこから素晴らしい戯曲を生みだすのだろうが、僕にはそんな才能もない。せいぜい猫踏んじゃったで限界だ。耳汚しにもならないだろう。ならばどうすればいいか。幸いにして僕たちには言葉というものがある。共通の意思伝達の手段としての言葉が。こちらならば、例えばだけどメヌエットぐらいは奏でることができるかもしれない。まあどちらも小学生の演奏曲には変わりないのだけれど。でも言葉にするとはいったものの何から始めればいいのか。当時の僕は退屈していたと言ったけれど、退屈をいくら美麗な文体で飾ったところでそれは退屈に過ぎない。読んでいて面白くない。どんなに美麗な修辞を以てしても。

まずはあの夜のことを話していこうか。みなさんにも理由はよくわからないけれど、夜のとんでもない時間に目が醒めて、どんなに眠ろうとしても眠れにつけない、という経験はないだろうか。疲れているはずだし、明日もまた早いから寝なければならないのに、瞼は固着されたかのように開いてしまい、一度醒めた眠りから再び眠ることができない。寝なければいけない、と思えば思うほど頑なに何かしらの思案が浮かんでは消え、時間だけが過ぎていく。こうしている間にも安らかな眠りについている人は大勢いるはずなのに。

みなさんだったらこうした意図しない状況に陥ったときどうするだろうか。賢い人だったら少しだけ灯りをつけて本を読んだり、レコード棚から聞いていると眠くなるような退屈なLPを引っ張り出して聴くのかもしれない。あるいは愚かしい人、大半の人は残念ながらこちらだと思うが、スマホを手元に寄せて再び眠くなるまでひたすらに広大なネット上の海を彷徨うかもしれない。だけどあの晩の僕はそのどちらでもなかった。溜まっていた洗濯物をビニールバックに詰め込んで、深夜のコインランドリーに向かったのだ。

なぜあんな時間に目が醒めたからといって、コインランドリーに行こうかと思ったのか、それは未だによくわかっていない。明確な理由を求めたとしても、そこには曖昧とした靄が広がっているだけだろう。ずいぶんと使い古した洗濯機が壊れてから二週間ほどが経過して、新調するお金もなかったから、どこか匂いが染み付いたもう二度と動くことのない洗濯槽の中に溜め込んだ洗濯物が限界を迎えていたから、というのが最もな理由だろう。だとしてもあんな時間に出掛けることはなかっただろう。二十四時間営業とはいえ、他に利用する人はいないだろう。でもあのときの僕にはコインダンドリーに行くことが、眠れないこの夜を乗り切る最善策のように感じられたし、むしろ行かなければ眠ることはない、とさえ思えた。

洗濯槽の中からまだましな衣服、要するに匂いが耐えられるもの、を引っ張り出してシワを伸ばす。着古して襟の部分が黒ずんだ白いワイシャツに、何をしても落ちることのないシミがついたジーパン、どうの昔に耐用の限界を超えたビーチサンダルという出で立ちの男が完成した。鏡に写ったそんな自分を見ても、特に思うことはない。それにはち切れんばかりに膨らんだビニールバックが加わることになる。洗濯機の蓋を閉めるとキイときしんだ音が響き、漂った静寂を仮初に破った。

部屋の電気を消して、鍵を回してドアを開けると、十月の夜の冷ややかな空気が流れ込んできた。日中はまだ暖かいが、夜になると忘れていたものを思い出すかのように冷たい空気が訪れてくる。何か上に羽織るものを持ってこようかとも思ったが、どうせすぐ着くからと思い直してそのまま外に出て、ドアを閉めて鍵をしめる。音が周囲に響かないように、ご飯を盗もうとする子猫のような動作だった。誰も起きてはいないと思うけれど。

 外に出て空を見上げても、都会の空には何も浮かんでいない。晴れているのかも曇っているのかもよくわからない。低い空の中に、大通りを止めどなく通るトラックの通奏低音が響く。この時間にもどこかには未だに活動をしている人がいて、それを待っている人もいる。なんてちょっとした哲学的な思考に耽けるのも、眠れない夜特有のものなのかもしれない。通りに出ても歩いている人が誰もいない。点々と灯された街灯の下をコインランドリーに向かって進む。

思い出したかのようにイヤホンを耳にはめ、スマホを開いて再生リストを探す。ざっと目についたものを眺めるがいまひとつピンとこない。オアシスでもthe1975でもダフト・パンクの気分でもない。一通りスクロールしてみるけれど、それはあまり目ぼしい料理がない中華料理屋のメニューのようだった。思えば僕は果たして適切なタイミングで適切な音楽を聴けていたのか疑問に思う。別に流行の曲ばかり追いかけていたわけではなく、自分なりのスタイルのようなものを確立できていた自負はあったものの、それはまったくの自己満足に過ぎないものと言われても何も言い返せない。ドライブに行くときも通勤のときも似たような曲ばかり聴いていた。世の中には有象無象の音楽もあれば、心を正面から捉えて震わせる音楽もある。なのに自らそれらの音楽に出逢う機会を意図的に避けていたのではないか。だから夜中に目を醒ましてコインランドリーに行くときに最適な音楽というものを、いまも思い浮かべないでいる。もし様々な音楽に触れていれば、いかなる状況に直面してもそのたびに適切な音楽を選べたのかもしれない。ラジオで穏やかな低い声で語りかけるパーソナリティーみたいに。まあ、そもそも適切な音楽というものが存在するのかは定かではないが。

 赤信号で止まって横断歩道の前でしばらくの間、信号が変わるのを待つ。別に誰も通る者も見ている者もいないのだから、無視して渡っても構わないはずだが、なんとなく律儀に信号が変わるまで待つ。どこかで誰かが、もしかすると人ですらない者、たとえば嘴が長く鋭い啼き声を出す鳥なんかが、木の枝に止まってじっと見ているかもしれない。彼らはじっとりと人々を眺め、独自のシステムを介して情報をやり取りしている。陳腐な空想かもしれないが、どことなく避けがたい予感があった。

遠くから点のようなヘッドライトが見え、徐々にそれが近づき眩い光を放ったトラックが姿を見せる。轟音とともに通り過ぎ、微かな排気ガスの匂いと余韻だけを残して、再び静寂が訪れる。聞こえるものは何もない。聴くべき音楽も未だ定まっていない。もちろん眠気もまだやってきてはいない。

 やがて信号が変わって僕は車道に入る。何事もなく横断歩道を通過して、反対側にたどり着く。それをじっと待っていたかのようなタイミングで歩行者用の信号が点滅し、少しの間をおいて信号が赤に変わる。この一連の信号の動きは誰もいなくとも、怠りなく夜を通して進行するのだろう。何か重要な儀式を執り行うかのように。

 左に曲がってしばらく道路に沿って進む。もちろんこちら側に渡ったからといって、特段変化があったわけではない。誰も歩いている人はいないし、街灯も等間隔で設置されている。ただ車の進行方向が逆になっただけだ。後ろから浴びていたライトが、正面から迫るようになった。それらは住宅街の淡い闇を引き裂いて、すぐに縫合している。そこに何か意味深いものを感じる人もいるかもしれないが、その判断は全く個人に委ねられ、少なくとも僕は特に何も感じない領域に属していた。

背の高いトラックが多い中で、時折思い出したかのように乗用車が混じっている。こんな時間にどんな用途で用いているのだろう。見かけが乗用車というだけで、運んでいる者、人は深夜に活動する部類のものなのかもしれないし、完全なるプライベートの用で用いているのかもしれない。一瞬で通り過ぎるなかで、二つを見極めることはできない。外見上はそれらの違いはない。だからそうした乗用車を運転している人はすべからく、僕と同じように深い夜に目が醒めて、どうしようもなくなったから車を運転している人たちと思うことにした。とんでもない時間にはっきりと覚醒してしまったものの、アルコールを含むような気分でもないから、宛もなく車を出してどこかへ向かっている。目的地はない。ただ再びの眠りに就くことができることが目的だ。ある程度運転してそれなりの眠気が訪れたなら、すぐに引き返してそのままベッドに入る。そのときがくるまではどこへ向かうということもなく、深夜の道路をただ走らせる。そんなドライブがあってもいいじゃないか。

そう考えることによって僕はどことなく感じていた孤独感、あるいは寂寥感が薄れた気がした。僕だけではない。眠れなくなって深夜この街を彷徨っているのは。

そのとき、僕の頭のなかには何故かデヴィッド・ボウイの『スペース・オディティ』が流れてきた。何もない空間だけど、ひたすらにその空間だけが広がっている、という宇宙のイメージと、深い夜の光景のどこかがマッチしたのかもしれない。スマホで検索してタップすると若干の余韻の後にイントロが流れ始める。僕はうろ覚えの歌詞を口ずさみながらコインランドリーへ向かう。

語りかけるような歌声で始まるその歌を聴いていると、どこかで誰かが僕のことを呼んでいる気がした。どこから呼びかけられているのかも、誰が呼んでいるのかもわからないが、それは確実に僕だけに向けられたメッセージである確信があった。肝心のメッセージの内容もノイズにまみれてよく聴き取れない。でも何かしらを僕に伝えようとしている。それに応えて僕は必死に聴き取ろうとするものの、判別することはできない。少しだけ焦燥感を覚える。宇宙空間に突然放り出されて呼吸が苦しくなるような。

気が付くとコインランドリーの灯りが外に漏れ出ている一画についていた。中には誰もいない。稼働している洗濯機も乾燥機もない。何もかもが停止しているなか、灯りだけがついていた。BGMも流れておらず、天井に設置されたスピーカーはその口を下に投げかけていただけだ。半分開いた扉から中に入り、両替機のほうへ進む。家から小銭を集めようかとも思ったが、それすら億劫に感じたのと、足りなかった場合の手間を考えて、千円札一枚だけを持ってきていた。ポケットからシワが付いたそれを取り出し、両替機の口に吸い込ませる。ほどなくして小気味いい音と共に小銭が吐き出される。取りこぼしのないように気をつかいながら小銭を手にとって、壁一面に設置された洗濯機の左上のほうへ向かう。やや固い蓋を開けて、ビニールバックの中から取り出した衣類を放り込む。洗濯槽の中からは嗅いだことのない柔軟剤の匂いがした。といっても何かしらの花の香りをベースにした柔軟剤には違いなく、ただ僕が柔軟剤を普段使用していないことと、あまりそうした匂いの違いがわかっていないから、嗅いだことのない匂いに感じただけなのだろう。柔軟剤には便宜的な名称が付けられており、僕がそれを知らないということに過ぎない。世の中にはそうしたものが他にも往々にして存在する。

蓋のロックを回して(これもやや固いロックだった)、小銭を投入すると、水が流れ出る音が無音のランドリーの中に響いた。しばらくして洗濯槽が回転し始める。僕はその様子を透明な蓋を通してじっと眺めていた。他にすることもなかったから。

一般的に人はコインランドリーを回している間、何をするのだろう。買い物に行ったり、ちょっとした用事を済ませたりするのだろうか。でも僕にはそんな都合いい用事なんてなかったし、この時間に空いている店と言ったらコンビニくらいしかないだろう。コンビニに行って買いたいものはなかったし、洗濯槽が回っている間にこなせる都合のいい用事がふと現れる見通しもなかったから、じっと回転する洗濯槽を眺めていた。

回転する金属の槽の中で、僕の衣服が上に上がっては下に落ちる、その一連の動きを繰り返している。速度は一定で変わることなく、稼働音の響きも均一に続いている。まるでものごとの深奥に通底する何らかの原理のように。洗濯機は廻り、衣類はかき混ぜられる。じっとその動きを見つめていると、どこからか眠気が持ち上がったような気がした。でもそれは僕を再びの深い眠りに陥らせるほどのものではなく、やや瞼が重くなり意識が鈍る程度のものに過ぎなかった。完全なる眠りにはまだ程遠い。金星までの距離のように。

どれくらいの時間が経っただろうか。ものの5分ほどかもしれないし、あるいは首都高速を一周できるほどのものだったかもしれない。特に時間について意識していたわけではないから僕には判断がつかなかった。コインランドリーには一応時計が壁にかかっていたものの、それを認識したのはさっきのことだったし、その時計はいささか便宜的なものだった。つまり時計がないことによるある種の不安ないしは不満を和らげるために設置されたものに過ぎず、人々はその時計で時刻を厳密に確認することはほとんどないだろう。認識して初めてものごとが世界に存在するように、その時計は僕の世界につい先程現れた。いまが何時かはわかるが、僕がコインランドリーにやってきた時刻はわからなかった。コチコチと一定の間隔で鳴らされる音は、いささか大きすぎるような気がした。洗濯機の稼働音に混じりつつも、その存在を認識した僕の耳にははっきりと聞こえるようになった。もちろんその音も変動することはない。均等の間をおいて次から次へと時を刻んでいく。

洗濯機の画面には残り二十四分と表示されていた。アート・ブレイキーと彼が率いたジャズ・メッセンジャーズが演奏する『ナイト・イン・チュニジア』を二回ほど聞ける時間だ。でも僕はその曲をいま聞く気分にはならなかった。ここはチュニジアではないし、軽快なドラムが響くのはコインランドリーではなく、他にもっと適切な場所があるような気がした。もっとも他にこれといった聞きたいという曲もなかったから、イヤホンは僕の耳にはまったまま静寂をもたらしていた。

彼女が半開きの扉から入ってきたのは、そんな手持ち無沙汰で宙に吊るされたようなタイミングだった。僕はとても驚いた。こんな時間にコインランドリーに来る人が他にいるということ。それに彼女は人の視線を集める類の顔立ちをしてことによって。

彼女はドアからまっすぐ、壁に敷き詰められたランドリーのほうへ向かい、持っていた袋から衣類を取り出して、丁寧に洗濯機のなかへ入れていく。僕はついその後ろ姿をじっと見ていた。彼女の仕草は、森の中にぽつんと置かれた祠に衣服を供えるようなそれだった。なにか中に尊いものが入っているような。すべての衣類を移し終えると、着ていたパーカーのポケットから硬貨を取り出して、投入口に一枚一枚入れていく。そして正常に稼働し始めたことを確認して、僕が座っているベンチの反対側へきて座った。

僕の他にこの時間に人がいるとは思わなかった。彼女も何かしらの理由で眠れなくなって、このコインランドリーへやってきたのだろうか。あるいは彼女の純粋な習慣なのかもしれない。誰もいない時間にあえて洗濯を済ませることが。どちらなのかは僕にはわからなかった。半月を見てもこれから膨らむのか、ないしは削げていくのかじっと見ていないとわからないように。

歳は僕と同じぐらいだろうか。少し下のような気もするが、そうだとしてもあまり離れてはいないだろう。腹部に少しサイズの大きなポケットがついた白いパーカーに、とても丈が短く淡い色合いをしたグレーのパンツを履き、スタンスミスの白のスニーカーという出で立ちだった。背はそれほど高くはないが、透明感を持った脚がスラリと伸びていることで、実際の背丈より高い印象を覚えた。そして目を張るようなタイプというよりか、洗練された顔立ちをしていた。求めるものが求める分だけ備えられ、余計なものは存在していない。だから充溢感こそ覚えるが、物足りない印象はない。

こうやってエクリチュールにするとどことなく平凡な印象になるかもしれないけれど、さっきもいった通り彼女は人の視線を集める特徴があった。特定の部位がその役割を果たしているのではなく、顔の総体としてそうした印象を与えているのだろう。一つ一つが寄与する程度はそこまでだが、それらが集合すると指数関数的な伸びを発揮する。そしてある一定の水準を超えると、人の目を惹く効果が実体として現れる。もちろん実際にはこんなナイーブなものではないだろうが、便宜的に表すとこうなる。でもどれほど便宜的な表現方法を用いたとしても、どうして目を惹くのかという因果関係は曖昧なままだった。

無意識のうちに僕はその理由を探ろうとしていたのかもしれない。気が付くと彼女のことをじっと見つめてしまっていた。彼女はベンチに座って、パーカーのポケットから文庫本を取り出して、長く伸びた脚を組んでそれを呼んでいた。文庫本にはカバーがかけられており、何を読んでいるのかはわからない。熱心に読んでいるところから、退屈な部類な本ではないのだろう。組まれた脚はほどよい肉付きと色合いをしており、ある種の予兆を僕のうちに感じさせた。それは一度生まれると、みるみるうちに肥大していき、僕の心臓は早く鐘を打った。僕は捉えどころのない予兆に居心地の悪さを覚えて、彼女から目を逸らす。

意識しまいと思うほど、どうしようもなく脳裏に浮かんできた。それほど意識が覚醒していたわけではないものの、いやむしろ微睡みに近い状態にあったが、予兆はそうした靄を切り抜けて、僕の中に訪れる。別におかしなことではないはずだ。むやみに否定しようとしているわけではない。だけどどこかに後ろめたさを覚えているのも、拭えない事実だ。あらゆる色彩の感情が浮かんでくる。それらは僕の心にやってきて、昂ぶりや戸惑いを残して去ってゆく。ターミナル駅へ次々にやってくる電車のように。

そうして僕が内なる逡巡を抱えているうち、僕の視線と彼女の視線が交錯する。あまりに彼女のほうを見ていたから、不審に思われたのかもしれない。文庫本から視線を上げ、僕のほうを一瞬だけ見る。そこに含まれる感情を僕は読み取ることができなかった。僅かな間だけ顔を上げ、僕のほうを見て、またすぐに文庫本へ視線を戻した。僅かな間だったものの、確かに僕たちの視線は混じり合った。でもそれは見知らぬ者同士の、恣意的な交わりに過ぎなかった。おそらくそこに意図あるいは思惑は含まれておらず、偶然がもたらしたものだった。

その後も止そうとは思うけれど、彼女のほうを見るということを何度か繰り返すが、結局彼女が文庫本から視線を逸らすことはなかった。それほど熱中して読むということは余程秀逸な本なのか、ないしは彼女が卓越した集中力を有しているのか、それは判断がつかなかった。そのうちいかにも機械的なアラーム音が鳴って、僕の衣類が入った洗濯機が稼働を止めた。洗濯機の微かなモーター音が支配していた空間に鳴り響いたアラーム音に、僕はいささか驚いて、始め何の音か理解できなかったが、次第に場所と状況を把握していった。すなわち深夜のコインランドリーにいるということを。

僕はベンチから立ち上がって、文庫本を読んでいる彼女の前を通って、洗濯機へと向かう。一連の動作はどことなくぎこちなかった。もちろん彼女が僕のことを見ているはずはなかった。彼女は本を読むことに没頭していたし、コインランドリーに居合わせた人の一挙一動を観察する人なんていないはずだ。でも一つの狭い空間に居るという観念が、僕の動作をぎこちなくさせた。蓋のロックを解除して、(解錠もまた固いものだった)取りこぼしがないよう注意しながら衣類をビニールバックに戻す。

少しかがんで作業をしていると、背中に熱心な視線を受けているような気がした。彼女の視線だろうか。でも彼女はずっと文庫本を読むことに執心していた。稼働停止のアラーム音が鳴り響いたときも視線を外すことはなく、丹念にページに視線を落としていた。それがいまになって本を読むことをやめて、急に僕に視線を向けるということがあるだろうか。見知らぬ男が衣類をビニールバックに詰める仕草を見つめるということが。それはあまり現実的とは言い難い。ある日突然飼い犬がキャットタワーを登りだしたときのように。何気ない様を取り繕いながら後ろを振り返って、彼女を確認する。もちろん彼女はそのまま本を読んでいた。視線をそこから逸らすことはない。すぐにまた正面を向く。いまひとつ納得のいかない蟠りを覚えながら。

でも相変わらずどこからか視線を感じる。あるいは僕の意識が昂っていたからそう感じたのかもしれない。誰かに何かを見られているかのように。それが誰なのかもよくわかっていないし、何を目的として見ているのかもわからない。どことなく居心地の悪さを感じる。物事があるべき場所に適切に収まっていない感じがする。

ゆっくりと時間をかけて衣類を残らずビニールバックに詰め終えると、洗濯機の蓋を閉めて、姿勢を伸ばして向きを変えて、出口の方へ歩き出す。半開きのドアの向こうは、時折通り過ぎる自動車のヘッドライトを除いてはこれといった灯りもなく、朧気な夜が広がっている。彼女はベンチに座ったまま文庫本を読んでいる。特にこれといって変化したところはない。座っている前を通り過ぎるが、本に目を落としたまま、こちらへ注意を向けることはない。歩くたびにビニールバックがこすれてカサカサと音を立てる。僕はそのままドアを通り抜けて、深い夜の中に沈んでいった。

 時間は流れる。誰の意図に沿うこともなく、流れに抗おうとしたり、たとえうまく乗ることができたとしても、ある種超越的な動きをもって進んでいく。僕たちはそれに圧倒されることはあっても、支配することは能わない。そして不規則な変化を持ちつつ、一方の方向にだけ進んでいく。予知的にあるいは遡及的にものごとを定めながら。

 どれくらいの時間が経過したのかは定かではない。あの日以降も眠れない夜というのはあったものの、わざわざ外に出掛けるということはしなかった。もしかするとあの場所に行けば逢えるかもしれないという、仄かな期待とも言えるような気持ちはあったけれど、それを実行に移すことはなかった。一度目が醒めてもすぐに眠気がやってきたり、何事もなく朝がやってくることもあったから。あえてアラームを設定して目を醒まして出掛けるというのは抵抗があった。眠れるのならば眠っていたかったし、出掛けていっても誰もいないということも十分にありえた。

 一度出逢った、といっても偶然コインランドリーに居合わせたというだけのことだけど、同じ場所に同じ時間、それもかなり特殊といっても過言ではない時間帯に出逢った事実は、僕をどことなく浮足立たせ、何かしらの印が僕の中に刻み込まれていた。その印は時折熱を持って疼き、一種の根源的な不安を僕にもたらした。それはある面では日常の生活に支障を与えかねなかった一方で、またある面では退屈な日常の生活にささやかな色彩をくれた。

 どうして一度出逢っただけの人のことが、話もしていないのにこれほど気に掛かるのだろう。彼女は目を張るほどの美人というわけではなかったが、十分に整った顔立ちをしていた。もちろん美の基準は大いに主観的なものであって、好みは人それぞれに委ねられているものの、彼女の顔立ちはかなり広い範囲において、好印象をもたらすものだった。少なくとも否定的に見て取る人はいないはずだ。いやおそらく顔だけによるものではなく、彼女が総体として纏っていた印象によって、僕の内奥に波紋が広げられているのだろう。水面に落ちたしずくによってできた波紋はすぐに収束することはなく、長い間尾を引いて残っていた。僕はそのことをはっきりと確認することができた。

 さっきも行ったけれど、どれくらいの時間が経ったのかは正確にはわからない。似たような日々の繰り返しだったから、主観的な軸は大いに歪み、もしかすると可燃ごみの回収日から次の回収日までの間ほどだったかもしれないし、ネモフィラの葉が成長してやがて枯れるまでの間だったかもしれない。もちろん計測の意図を持って数えていたわけではないから、何も正確なことはわからない。それによる実際的な不都合も特にこれといって持ち上がらなかった。

 その日、僕は電車に乗っていた。休日の昼下がりで街に出掛けていた。誰かと会うとか、これといった用事はなかったものの、狭い家にずっと籠もっているのも窮屈に感じたから、街に出ることにした。家を出るまではなにか欲しいものがあったら買おうかとか、あそこの美術館にしばらく行っていないな、とか思ったけれど、実際に家を出るとなかなか億劫に感じてしまい、どこに行くか決めきれないでいた。だからとりあえず駅に向かい街に行く電車に乗った。

 改札を通り抜けて、ホームへ続く階段を上る。休日ということもあっていつもほどは人はいない。太陽が見えない位置から差し込んでくるホームに立って電車を待つ。こちらのホームにも向かい側のホームにも人はまばらにしかいない。風が時折吹き抜けていく。なにかの匂いが含まれていたけれど、それが一体何なのかは特定できなかった。植物の匂いでもないし人工的な匂いでもなかった。街の匂いとでも言うべきものが漂っていた。

 どこかで鳥の啼き声がした。わりと芯がある声であり大きめな体躯の鳥であることはわかった。なんのために鳴いたのだろうか。もしかするとまったくの気まぐれで鳴いたのかもしれない。ただなんとなく鳴きたかったから鳴いてみた。犬があくびをするかのように。

 やがて電車がやってくることを知らせるアナウンスが鳴った。ほどなくして小気味のいい音を立てて電車が駅に滑り込んできて、つんざくようなブレーキ音を立てて止まった。空いている座席を見つけて腰を掛けると、アナウンスとともにドアが閉まり、ゆっくりと塊が動き出す。車両に備えられた大きな窓からは陽の光が入っていた。外の景色が次々と移り変わっていく。時々大きな建物によって陽の光が遮られる。でもまたすぐに思い出したかのように車内に入ってくる。のんびりとした車内だった。座っている人は時間に追われることもなく、悠々と目的の場所へと向かう。誰かと会うのかもしれないし、僕と同じようにとりあえずどこかへ向かうために乗っているのかもしれない。あるいは純粋に電車に乗ることを目的とした人も中にはいるかもしれない。少なくともそこは平日の朝のように疲弊と敵意に満ちた空間とは乖離した空間だった。

 僕はポケットから本を取り出して開く。トマス・ピンチョンの『重力の虹』。意識の高い美大生ぐらいしか読まない本だけど、偶然古本屋に並んでいるのを発見して購入したものだ。別に僕は意識の高い美大生ではないのに、どこでトマス・ピンチョンの名前を聞いたのか、そしてどうして読みたいと思ったのかはは覚えてないけれど、なぜか頭の中にずっと残っていて、見つけたその場で買って帰ったものだった。その続きから読み始める。

 電車の不規則的な揺れに身体を預けながら、晦渋な本を読んでいるとどこからともなく睡魔がやってくる。「やあ」と心地よい声とともに。そして僕を暖かくて肌触りの良いベールで包みこんで、意識を束の間持ち去ってしまう。僕の意識が持ち去られている間、何事かを耳元で囁かれたような気もするが、もちろん僕は意識がないから聞き取ることはできない。それはどこか懐かしい響きを帯びた声だった。僕の中に眠っていた部分を心地よく刺激して、思い起こさせる。

 僕は過去に一度だけ一目惚れのようなことを経験したことがある。厳密にどのような状態に陥ることが一目惚れに該当するのかはよくわからないけれど、心が大きく揺さぶられた感触を覚えたから、あれは一目惚れと定義していいのだろう。当時僕は高校生だった。そろそろ受験戦争が本格化し始めるかどうかの時期で、周囲の友人たちはその戦いへと参戦準備を進めていた。だけどその流れの中で僕はいまひとつ気が乗らなかった。勉強したい内容も、行きたい大学も特に定まっておらず、焦りもいまのところ現実味を帯びていなかった。だからその日も学校が終わって、ただ宛もなく街を歩いていた。友人を誘ったが、勉強があるからと無下に断られてしまい、一人だった。服のショップに入ったものの特に目ぼしいものもなく、これからどこに行こうかと思っていた、そんなときだった、その女性とすれ違ったのは。

 正面から歩いてきたその女性は、ものの見事に僕の注意を奪い去った。まるで別の人物が僕の意識を乗っ取ったかのように。彼女を視界の中に確認するとともに、神経は昂ぶり心臓は高く鐘を打った。全身が軽く痺れるような感触も走った。僕はその場に硬直した。ハイネックの濃い赤のニットに黒のスキニーのジーンズ、少しだけヒールの高い厚底の黒いスニーカー、ヘッドフォンを首にかけ、黒のギターケースを背負っていた。手にはレコードショップのビニール袋を持っている。背負っているギターケースが重いからか少し前かがみになっており、身長は百六十センチを少し上回るほど。スキニーでラインがくっきりと強調された脚はしなやかで、生々しい実感を有していた。肌は透き通るように白く、それとは反対に髪の毛は一点の混じり気もない黒で、少しウェーブがかかって、肩のあたりで切り揃えられていた。そして何よりも僕の注意を引いたのは、その顔だった。美しく整った顔は、正統的な人形のようで、鼻先は筋がすっきりと通り、唇は瑞々しかった。特に目が印象的で、大きな目には黒い瞳が光を帯びて存在し、少し冷ややかとも思えるような雰囲気を醸成していた。それが他の部位とギャップを持っていた。なにか他人には秘めている重大な隠し事を持っているかのように。

 僕は歩く人の流れに逆らって直立し、彼女が歩く様子を首だけを動かして眺めていた。いや眺めていたというよりか、可能な限り彼女の構成諸要素を認識して、僕の中にあるフォルダーに保存してロックをかけようと試みていた。いつでも取り出して眺めることができるように。すれ違う際、少しだけ彼女は僕のほうを見て、一瞬だけ目が合ったような気もした。僕の単なる思い過ごしかもしれないものの、その大きな目に見つめられて僕の視界はじんわりと混濁した。

 気が付くと僕は彼女の後を追っていた。吸い寄せられるように。彼女は人混みの中を華麗に泳いでいく。僕はその姿を見失わないように、でも彼女に追っていることを悟られないように気を配りつつ、後をついていく。その後ろ姿はどこまでも麗しかった。歩くたびに軽くウェーブがかけられた黒い髪の毛が肩の上で踊り、しなやかに伸びた長い脚は都会のアスファルトの上で舞った。もちろんこれはあくまで僕の主観的な認識だ。彼女はどこまでもリアルな存在で、実際には待ち合わせの時刻が迫っていて急いでいたのかもしれない。でも僕の世界に突如として現れた、一つの輝かしい色彩は、モノクロの現実を一瞬にして軽やかに染め上げた。

 彼女の顔をもう一度見たいと思った。追い越してそれとなく覗き込もうかとも思った。でもそんなことをしたら不審がられてしまう。彼女に違和感を抱かれることだけは避けなくてはならない。それは至上命題だ。いまでも分水嶺をはみ出しかけているのに、どうしたらいいのだろう。彼女の声を聞いてみたい。その瑞々しい唇からはどんな声が発せられるのだろう。たとえ甲高くても、濁声であったとしても構わない。その唇から発せられる声であるのなら。想像が僕の中で膨らんで、漏れ出しそうになる。

 ハッと意識が僕の手の中に戻されると、僕は電車の座席に座って、『重力の虹』は栞も挟まれずに膝の上で閉じられていた。

 そのあと僕はどうしたのか。最後の部分が幾分曖昧になってしまっている。もちろん声を掛けることはしなかった。それは確かだ。彼女を雑踏の中で見失ったのか、あるいはどこかの建物の中に入っていって、その中までついていくことは憚られたのか。いずれにせよ彼女に会った、というよりも見かけたのはその一度きりだった。たった一度だったけれど、どうしてこれほど深い印象と鮮やかなイメージを僕の中に残したのだろう。

 ふと視線を上げると、向かいのロングシートの一番左端にコインランドリーで一度出逢った女性が座っていた。僕はいささか驚いた。思わず声も出そうになった。意味もなさないとても間の抜けた声が。その声が周囲の人々の耳に入るのをどうにかこらえて、頭の中を整理する。どこから手をつけたらいいのかわからないほど乱雑な机の上を整理するみたいに。だけど往々にして乱雑な机の整理ほどうまくいかないように、頭の中の整理も容易とは言い難かった。脈略のないものが、各々好き勝手に現れては、思うがままに動き回り、取っ掛かりと呼べそうなものをなんとか見出したと思っても、するりと掌から逃げ出してしまう。

 僕は一旦頭の中を整理することを諦めて、左のほうに居る彼女のことをそれとなく観察する。確かにあの女性だ。どうしても眠れなくなった真夜中に、なぜかコインランドリーに向かって、そこに居合わせた女性だ。このあいだ見た白いパーカーとおそらく色違いの黒のパーカーを着て、やや短めのグレーのスカートに、靴はやはりスタンスミスの白のスニーカーという格好。スカートの隙間から覗く太腿は適度な質量をもっており、床にのびた脚を見て、僕の鼓動はますます早くなった。パーカーにスタンスミスというのが彼女の基本的なスタイルなのだろうか。そしてやはり文庫本を手に持って読んでいる。貪るように、というわけではないが、集中しているらしく、視線は文字の流れに合わせてゆっくり動くのみで、他の部分に移ることはない。カバーはかけられており題名はわからない。おそらくはこの間読んでいた文庫本とはまた別のものだろう。

 どうしたらいいのだろう、いやもう少し本質的な表現に換言すると、どうすれば彼女と何らかの方法で接触できるのだろう。たとえ適切な方法で接触できたとしても、果たして彼女は僕のことを覚えていて、僕の求めに応じてくれるのだろうか。そもそも僕はどうしてこれほどまでに彼女のことが気になっているんだ?たった一度コインランドリーという空間に居合わせただけではないか。いやそこからしばらくの時間がたって、いまこうして電車という空間を共にしている。これもそう起きうることではないだろう。一日にいったい何本の電車が走っていて、たまたま同じ時間に出発した同じ車両にいるということは、どれほどのことなんだろう。プールの自然な水流で分解された精密時計が組み立てられるほどの確率ではないにせよ、僕の世界においてある種の羅針盤は組み立てられたのではないだろうか。超越的にものごとの動きを定めている羅針盤が。僕はその定めに従うべきではないか。でもこの場合どうすることが、従うことになるのだろう。いまが時機を得た瞬間であり、ここで接触するか、あるいは再度どこかで居合わせることになるのだろうか。接触するとしたらどのような方法が適切なのか。いきなり声を掛けてしまうと不審がられてしまう。さりげなく彼女の警戒心を解いて、関係の取っ掛かりを形成するような方法はいったいなんだろう。本の題名を聞いてみようか。もしかすると僕も読んだことがあるものかもしれない。そこから共通の話題が見つかるかもしれない。でもいきなりそんなことを聞かれたら誰だって警戒するだろう。まして僕は男だ。いやそれがなんだって言うんだ。いまこの場においてはそんなことは関係ない。これを逃したら彼女とは決して会えなくなってしまうかもしれない。僕は声を掛けなかった後悔を深い重荷として背負って、これからを過ごしていかなくてはいけない。あるいは二回偶然として居合わせたのだから、三回目があることに賭けるという手立てもある。何しろここには人が多すぎる。もちろんほとんどの人が、電車における会話なんて聞いてもいないだろうが、他に人がいるという事実が僕に尻込みをさせていることも確かだ。いったい僕はどうすればいいのだろう。

 早送りしたビデオのようにぐるぐると忙しなく考えが巡る。似たような軌道を描いて周回しつつ、少しずつ変遷してはいるが、どこにも辿り着かない。まるでカーナビゲーションに架空の住所を設定したかのように。そんな頭の動きに呼応してか、身体はすっかり落ち着きを失ってしまった。控えようとは思うもののしきりに彼女のほうを見てしまうし、組んでいた脚を変えてはまた元に戻したりを繰り返したりしていた。その間も心臓は早鐘を打っていた。放っておいたらどこかへ動き出してしまうほどに。

 電車はやがてトンネルが続く区間に入った。しばらくの間車内を仄かな闇が覆った。車内には煌々と灯りがついているから真っ暗になるということはないけれど、どこか心もとない気分になった。金属のレールを重い車体が滑る音がトンネル内に反響し、一定の間隔で設置されたライトが閃光のように通り過ぎていく。僕は彼女のことをこれ以上考えるのはよそうと試みて、膝の上で閉じられていた本を手にとって読もうとするが、内容はほとんど入ってこない。文字の羅列が上から下へと流れていくだけで、それが意味する内容、あるいは含まれた示唆を汲み取ることはとてもできなかった。読むことは諦めて、でも本は開いたまま顔の前にかざしておく。こうすれば彼女のことをそれとなく眺めることができると思ったから。

 彼女はそんな僕の思惑は意に介さず、相変わらず文庫本から目を離すことはせずに、熱心に読んでいる。いや熱心という表現はあまり適切ではないかもしれない。文庫本と自分の間に形成された世界に没入している、とでも言うべきなのか。誰の介入も赦さず、彼女だけが入り込むことができる空間。どちらかというと彼女は涼しげな目をしている。一つ一つのセンテンスを読み込むというよりは、総体として文章が織りなすものを味わっている。僕がそこに土足で入り込んでいく余地はとてもじゃないけど、なさそうだ。

 電車はそれぞれの駅に停まってゆっくりと、でも確実にターミナル駅へと向かっていく。降りる人もいれば、そこから新たに乗り込んでくる人もいる。休日の昼下がりだから車内は空いている。それぞれの営みが粛々と行われている。

 終点より少し手前の駅に停まったとき、彼女は文庫本を閉じて、手に持ったまま立ち上がり、ドアの方へ向かった。一連の仕草は予定調和であらかじめ行われることが定められていたかのように、速やかに行われた。無駄な手順や視線の移動もなかった。ドアが開いて彼女の右足がホームに降ろされる。それに続いて全身が外の領域に飲み込まれていく。

この機会を逃してはならない

誰かの声が(おそらくは自分自身の内奥から響いたものなのだろうが、それはどことなく別の部分から僕に向けられて届いたもののように感じられた)、はっきりと聞こえた。気が付くと僕は座席から立ち上がって、ドアの方へと向かっていた。

そこはいままで降り立ったことのない駅だった。人が流れていく方向へ目をやると、まばらに存在する人の中に彼女が目に入った。改札がある方向へ真っすぐに向かっていた。僕はその後をついていく。後ろにいることを勘付かれないように適切な距離を保ちながら。

改札を抜け、彼女は駅前の大通りを左に折れて進んでいく。電車の車内とは打って変わって大通りにはそれなりの人がいた。飲食店が立ち並ぶ通りでは、人々が目当てのものを見つけて買い求めるために並んだり、あるいは一つの目的を果たして別の目的を探すために移動したりしていた。煽動的な広告がけばけばしいほどの光を放ち、行き交う人の欲動にむかって巧みに声を掛けていた。そうした声に簡単に応ずるものもいれば、イヤフォンで耳を塞いで頑なにシャットアウトしているものもいた。いずれにせよ、数多くの思惑が行き交い、行為が執り行われていた。それらを統括する全能的な存在なんてものはなく、部分的に支配していたとしても、またその上部構造が彼らを支配し、ともすると野放図にも見える無秩序的な秩序を保っていた。

絶え間なく車が行き交う。それらは大なり小なり音を立てて過ぎ去り、一つのものが去ったその後を、すぐに別のものが埋める。次々と入れ替わり、一定の間隔をもって途切れることはない。運転している人の表情ははっきりとは覗えないけれど、少なくとも愉しげな表情はなかった。シートに深く身体を沈め、気怠そうに片方の腕だけをハンドルの上部に伸ばす。物憂げに遠くの一点を見つめ、時折少しだけ瞬きをする。

いやいや、よく晴れた、とまではいかないものの、明るい陽光が射している休日だというのに気のせいだろうか。人々は上機嫌に車に乗り込んで、家族とともにどこかへ出掛けるというのが定番のセオリーではなかったのか。少し見方を変えてみよう。あるいは描写の仕方を。映像を少し巻き戻して、ここらへんから再生しよう。

あまり背の高くない雑居ビルの群れに遮られつつも、陽の光が地面に柔らかく降っていた。街路樹を照らし、明瞭な影をもたらしていた。それらの影は持ち主の動きに合わせて現れたり消えたりして、だけど常に背後に存在しており、相互補完的な役割を果たしていた。風はあまり吹いていない。髪を揺らし、肌を撫でる程度でとても心地よかった。そこに含まれている匂いは、具象の程度を問わずいろいろなものが含まれており、一言では表現できなかった。鼻腔の奥に入り込み、僕の感覚を刺激する。どこか懐かしいような匂いもしたが、きっとそれはものであって、また別のものなのだろう。僕はここを訪れたことはないし、この機会がなければ今後もずっと訪れることはなかったはずだ。でも何かの因子が働いて、おそらくそれは彼女に関連するものなのだろうが、僕はこの駅で降りて、彼女の後を悟られないように追いかけている。

僕は彼女の姿を見失わまいと神経を研ぎ澄ませていた。人の流れに沿っていたが、右に曲がり左へ曲がりを繰り返すうちに、その群れの流れは失われていき、彼女と僕の間に人はすっかりいなくなった。僕の芯に緊張が走る。興奮をもたらす物質が血液に乗って全身を駆け巡り、少しだけ手足に痺れのようなものも感じる。もし彼女に気づかれてしまったらどうなるだろう。おそらくこの状況から事態が好転するようなことはないだろう。不審がられ、最悪のケースとしては通報も考えられる。細かいことはよくわからないけれど、通報されることによって避けられたはずの不利益を被ることは確かだ。ストーキングのようなことをしなければ、面倒なことにはならなかった。でも紛れもない一つの現実として、僕は避けがたい強烈な衝動に突き動かされ、彼女の後を追っている。ここで別れたら、もうどこに行っても会えることはない。

人が多い場所でもそうだったが、彼女はそこそこ早いペースで歩いていく。大きく両方の脚を前に出して、しっかりとした足取りで進んでいく。うっかりしていると姿を見失いそうになってしまう。たとえば突然姿を見せた猫に、気を取られたりなんかしていると。見知らぬ街の、入り組んだ細い道をぐんぐん進んでいく。彼女はここらへんの土地勘があるのだろう。おそらく名前も存在しないであろう道の中から、行くべき先を迷うことなく選択して、撤回することもなく歩みを止めない。見失わないように距離を詰めたい気持ちがあるが、近づきすぎると彼女に悟られてしまうディレンマに陥り、もどかしい気持ちに駆られる。でもここで焦ってはいけない。冷静に状況を判断する必要が僕に求められている。

どのくらいの距離を二人で奇妙な間を保ちながら歩いただろうか。彼女は急に立ち止まって、シンプルなコーヒーカップのマークが描かれた看板が出された建物に入る。白いカップの中に入った黒い液体からは湯気が揺らいでいる。まるで何かの象徴のように。どこにでもあるような建物で、特にこれといった特徴もない。そのことの描写で丸一枚の原稿用紙が埋まりそうなほど、ありきたりな建物だった。特徴がないことを特徴とする建物について。道路に面した1階の天井まで続く大きな4枚のガラスには、すべてクリーム色のブラインドが床まで下ろされ、中を覗うことはできない。その中でなにが行われ、どんなことが持ち上がろうと、道路にいる者からはしっかりと隠されている。扉を開いてその中に彼女は入っていった。

僕は扉の前に立って考えを巡らせる。ウォールナット材の頑健な造りの扉の外側からは、中の様子を確認することはできない。はたして中に入ってみるべきなのか。ここまで来たのだから話を最後まで持っていってみたいという気持ちはある。でも結末がどうなるのかはまったくわからない。エチオピアのように甘美なものなのか、あるいはキリマンジャロのように酸味が強いものなのか。どちらに転ぶかは検討もつかないけれど、一つだけ確かなことは、ここまで半ば強引に話をもってきたのも、ここから先に進めるのも僕自身であるということだ。サイコロは僕の手の中にある。もちろんここで話を途切れさせるのも選択肢には含まれている。一度動き出した装置はなかなか止めることはできないけれど、ことの次第によってはいまの段階で止めておくべきなのかもしれない。どうしようもなく手遅れになるまえに。それにこの扉を開いてここから先に話を進めるためには、そこそこの度胸と気概が求められていた。僕は街で女性に声を掛けた経験なんてなかったし、どちらかというとそうした場を避けてきたほうであった。だからいまこうして隠れるようにして後を追いかけているのかもしれないけれど。もしかすると僕の中にそうした気質が根源的に存在しているのだろうか。つまり、名前も知らない、面識もない女性を偶然見掛けて、その後をついていくという気質が。

しばらくの間考えを巡らせるが、なかなかまとまりそうにない。何かしら有用な形態をもった考えは生まれそうになかった。水に溶かされた塩化ナトリウムのように。決断を下すためには、もうひとつ決定的な要素が必要だった。たとえば誰かの囁きが耳元で聞こえるといったようなものが。でもそんなものは僕の耳に届かなかったし、右脳からの超越的な啓示ももたらされなかった。ただ扉の前に立って、その扉の細部をじっと見つめていた。

その建物(おそらく1階部分はカフェなのだろう)は通りに面してはいたが、通りは車がすれ違うのに必要なほどの広さで、行き交う人も車もいなかった。だから人目を憚ることなく扉の前に立つことができたという一面もある。太陽は建物たちに隠され、通りは影の姿に覆われていた。遠くからは長い編成の電車がレールの上をゆっくりと進む音が、街中から発生する音の膜を通じて聞こえてくる。ずいぶん駅から離れたような気もしたが、案外近い距離に位置しているのかもしれない。通ってきた道は複雑に入り組んだように感じられ、それによって僕の方向感覚は、もともと優れているとは言い難いけれど、すっかり乱されていた。まるで僕の頭の中のように。

 方向感覚はスマホで地図を見れば、ある程度取り戻すことはできるものの、頭の中はそうはいかなかった。俯瞰的に見ることはできないし、状況判断に求められる要素を、必要に応じて整理するツールなんてものは存在しなかった。アナログな方法で一つひとつ検分していくしかない。だがそれも、僕が得意とは言い難い領域であった。

それでも時間をかけてゆっくりと整理していく。いまここから去れば、苦い思いをしなくて済む代わりに、何も発生しない。もちろん確実に苦い思いをするかどうかは定かではないでけれど。またどこかで出逢うという淡い期待を抱いて。はたしてそんな物語的なことが現実に起こり得るだろうか。あるいはこの扉を開けて中に入れば、何も起こらないことも十分考えられる一方で、何かが持ち上がる余地はある。その余地はいったいどれほどのものだろうか。購入した乾燥機が不良品だったというほどのものか、ないしは二ヶ月連続で捨て猫を拾うというほどのものか。あまり現実的に起き難いことではあるが、まったく起こらないわけではない。ならばそちらのほうに賭けてみてもいいのではないか。失うものなんてもともと持ち合わせてなどいない。

いささか手間と時間を要したものの、一つの結論らしきものが現れて、僕は慎重にウォールナット材の扉の取手に手をかける。その見掛けの通りやや重たい扉は、ゆっくりと静かに開いて、内側の空間が姿を見せる。

扉の中は、外の看板が示したとおり、カフェだった。コーヒーの香りが漂い、落ち着いたテンポのトランペットをソロとしたBGMが流れていた。ブラインドが下ろされた窓際には向かい合ったソファ席が三セット並び、間にはコーヒーテーブルが置かれている。ソファは光沢のある黒の革張りのもので、見たところゆったりと沈み込むように座れそうなものだった。コーヒーテーブルはスクエアの形状をした黒のアイアンの脚に、天板は落ち着いた色調のウォールナット。店の中央にはそのコーヒーテーブルをダイニングサイズにそのまま拡張したかのような、大型のテーブルが置かれ、背面にステッチ加工が施された灰色のチェアが何脚か設置されている。チェアの脚は黒くしなやかに、四方に向かって下ろされている。テーブルの上部にはペンダントライトが吊るされ、光源がシェードによって隠されていることによって、光は直截もたらされることはなく、仄暗い雰囲気を醸成していた。そのほかにも天井にはスポットライトが何個か設置されており、各々天井や壁を照らし出していた。店の奥の部分にはロングシートのソファが設置され、テーブルとチェアのセットが四つ設けられていた。テーブルは二人で食事をするのに十分なスペースがあった。ロングシートのソファにむかって正面の部分には大型のディスプレイキャビネットが設置され、ミルやフィルターといった種々のコーヒーに用いる器具が並べられていた。密閉容器に詰められたコーヒー豆はよく見ると、若干色が異なっていることがわかった。詳しいことはわからないけれど、おそらく産地や焙煎時間によって、色彩が変わってくるのだろう。それらは実用的というよりかは、魅せるために並べられていた。どういった用途で使用するのかわからない器具も置かれていた。

僕はカフェの入口に立って、店内の様子を観察する。人通りの少ない通りに面しているとはいえ、休日の昼の時間帯ということもあって、中はそこそこ混み合っていた。存在を知らない人はまず訪れないが、一度尋ねたのちに定期的に通う人が多いのかもしれない。人々はみな自身の時間軸の中心にいた。

彼女はロングシートのソファの端に座っていた。正面にあるテーブルにはメニューだけが置かれ、チェアには何もない空間が座している。僕は店の中心にある大型のダイニングテーブルの、彼女が視界の隅に入る位置のチェアに腰をかける。彼女は文庫本を読んでいた。いったいなんの本を読んでいるのだろう。相変わらず熱心に見つめ、視線はそれ以外の場所に移ることはない。その姿はとても様になった。テーブルに肘をつき、すらりと伸びた脚は審美的に適切な角度に向かって組まれ、文庫本を持つ指はしなやかで美しかった。そして水がとても澄んだ湖のような目をしていた。水面に浮かんだ瞳は、望月のように輝かしいのだけど、どこか簡単には読み取れない部分も備えていた。

あまり見つめすぎると彼女に悟られてしまう。だけど彼女には目をひいて離さない力があった。どうしても彼女のほうに目がいってしまう。僕はその力に抗うことはできなかった。

そのときウエイトレスに声を掛けられて、僕の意識はすっとこちら側へ引き戻された。あまり空腹感は感じていなかったから、ブレンドのホットだけを注文する。なにか他に注文はあるか尋ねられたけれど断った。ものを口にする気にはなぜかならなかった。

カフェの中は人のわりに静けさが漂っていた。落ち着いたトーンの会話が交わされ、一人でいる人はそれぞれの観的世界に入り込んでいた。ある人はノートPCを開き、ある人は何らかのテクストを広げて、ペンを持っていた。僕もその中に紛れ込もうと、厚い単行本を開くが、なかなか文章に集中することができない。視線はゆらぎ、読書に求められる意志というべきものは、水を手で掬うかのように、僕の元に留まることがない。するりと掌から逃げ出して、振り返ることもなくどこかへ去っていってしまう。愛想のない野良猫のように。いや、もしかすると愛想がないから野良猫として成立しているのかもしれない。そんなことはどうでもいい、と思って焦点を元に戻そうとするも、どうしても何らかの取り留めのない観念が浮かんでは消え、消えては別の形態を持って持ち上がってくる。まるで象徴界に現れる、抑圧された無意識のように。

僕は本を読むことを諦める。読書をするには相応の環境と意志力が求められるけれど、いまの僕にはどんなにかき集めても、有効的に積もることはなかった。単行本を閉じてテーブルに置き、なにも無い空間を見つめる。彼女の姿は視界の隅に捉えたまま、ブレンドコーヒーが運ばれてくるまで。

落ち着きのない気分が持ち上がってくる。あるべき物事が、適切な場所に置かれていない感覚。いつも置いてあるはずの歯ブラシが、なぜか違う場所に置かれていることを発見したときのように。これからどうすればいいのだろう。彼女に僕のほうから話しかけるべきなのだろうか。だけど好意的な反応は、はたして返ってくるだろうか。流れは淀むことなく順調に進んでいるのか。話しかけることによって、何かしら重要な方向性を見誤り、適切ではない方向に流れが進んでしまうのでは。そうした懸念が僕の中で大きくなっていた。だけど、なにか有効な手立てがあるわけでもない。一度動きだした機械はなかなか止めることができない。その機械が大きくなればなるほど。

ブレンドコーヒーが運ばれてきた。白を基調として淡い色合いの青の格子柄の模様がついた、小ぶりなカップにいれられたコーヒーからは、湯気が揺らいでいた。カチャリと軽い音を立てて、コースターの上に置かれる。砂糖とミルクが必要か尋ねられたが、それを断り、カップを手にとって口に運ぶ。深い味合いのコーヒーだった。

そのとき、彼女がすっとチェアから立ち上がった。いつのまにか文庫本は閉じられ、テーブルの上に栞を挟まれて置かれていた。ずっと昔からそこにあったかのように。彼女はそのまま歩き出した。僕はどこに向かうのか、カップを手に持ったまま目をやる。その歩き方はなにか明確な意図の下で行われる歩き方だった。彼女は僕が座るほうへ近づいてくる。二人の間の距離は着実に縮められ、僕の心臓は慌ただしく動き、時間の流れは緩慢になった。彼女はテーブルに縁に沿って歩いてきて、やがて僕の隣のチェアをひいてそこに座った。

なにが起こっているんだろう。僕は大いに戸惑った。ものごとの流れがうまく汲み取れない。僕の知らない間に、どうやら何かが起こったらしいものの、僕にはいまひとつ掴めていない。流れの中心にいたはずなのに、いつのまにか疎外され、取り残されてしまったような感覚に陥った。状況を整理しようとするも、やはり肝心なときには、整理するために必要な機構はうまく作用しないようだ。

だけどそんな僕の当惑などつゆにも思わないのか、彼女は涼しい顔をしていた。そして僕の目をじっと見つめ、その瑞々しい唇から言葉が放たれる。

「こんにちは」

 彼女の声は透き通るように空間を伝わり、僕の耳に届いた。応えようと思ったが、舌がもつれてうまく言葉がでてこない。

「驚かせてごめんなさい。そしていきなり隣に座ったことも」

 なにか言おうとするも、やはり言葉はでてこなくて、曖昧な首の動きだけが持ち上がる。

「あなたがわたしの後をついてきたことは知っていた。電車の中に座っているときから。でもそのことで、あなたを咎めるつもりはない。こうなることはわかっていたから」

 電車の中に座っているときから?確かに電車の中で彼女の姿を認めたけれど、そのときには後をつけようなんて思ってもいなかった。だけど弁解に必要な言葉はどうしても見つからなかった。霧の中に隠されてしまって。

「あなたに声を掛けるタイミングを伺っていたの。でもそのタイミングはなかなか訪れなかった。いつまで経っても。そのときが来ればはっきりとわかるはずだった。それがあなたがコーヒーを口に運ぶ瞬間だった。だからそのタイミングでわたしは席を離れてあなたの隣に座った」

 いまひとつ彼女が言っていることが理解できない。そのときが来ればはっきりとわかるはず?いったい何を言っているのだろう。肩の少し上で切りそろえられた黒い髪が、彼女が話すのに合わせて揺れる。木漏れ日が漏れる春のカーテンのように。

「わたしのことを頭がおかしい女だと思う?」

 やはり僕の首は曖昧にしか動かず、適切な言葉は未だに見つからない。彼女が少しため息を漏らす。

「そうよね、ごめんなさい。いきなりこんなことを言って」

「…そんなことはない」掠れるような声が、ようやく僕の奥底から現れた。姿がなく表に出すことができなかったものが、声という形態をもって。

 彼女は僕の目をじっと見つめる。なにかそこに重要なエニグマが隠されているかのように。もちろん僕の目のなかには、そんなものはないはずだが。

「僕もきみと話すことができて、とても嬉しい。僕もきみに声を掛けようと思っていた」そこで少し呼吸を置いて続ける。「だけどいきなり声を掛けたらどう思われるか、もしかすると拒絶されるのではないかっていう思いがあった。だから君のほうから声を掛けてくれてとても嬉しい」

 自分でも意外なほどスムーズに、自身が思っていることが素直に、あるいは直截に言葉になって僕の口から出てきた。

「コインランドリーのことは憶えている?」彼女が少し首を横に傾いで尋ねる。

「もちろん」

「どうしてあんな時間に居たの?」

「目が醒めて、どうにも眠れなくなってしまったから。君のほうこそ、どうしてあんな時間に」

「なんとなく。気の迷いとも言えるし、なにかに導かれていたとも言える。なんとなくあの場所に行ってみた。そしてあなたに遭った」

「そのことに運命的なものを感じている?」ライプニッツの予定調和説のように、と僕は心の中で付け加える。

「どうかしら。ある種の必然なのかもしれないし、まったくの気まぐれなのかもしれない。わたしには何も言えない。ただ、こうして顔を合わせて言葉を交わすことになる、ということはわかっていた」

「どうやってその確信は得られたんだろう」

彼女は首を左右に少し振って思案する。「確信というより、それは鏡に写っている世界を眺めているようだった」

「鏡に写った世界?」

「そう、この世界にそっくりな鏡像の世界で。その世界の中で、わたしとあなたは二人きりで話しをしていた。周りには誰もいない。ぼんやりと仄かな灯りがついた空間で、額を合わせるようにして言葉を交わしていた。その様子をわたしは鏡のこちら側から見ていた。それはとても…」彼女はそこで言葉を区切る。「なんというか、この世のものとは思えなかった」

 パラノイア的な様相を帯びている。それが僕の抱いた率直な感想だった。なにが現実のもので、どこからが自分の空想によるものなのか、区別がうまくできていない。あるいは夢と現といってもいいのかもしれない。

「それはきみが夢で見たことなのかな」

 彼女は首を横に振る。艷やかな黒髪が合わせて揺れる。「いいえ、夢ではない。でも現実のものでもない」

「じゃあそれは狭間で起こったことなのかな」

「狭間…」彼女はその言葉をなにかの象徴かのように、一言ずつ区切ってゆっくりと言った。その言葉は彼女の口から放たれた後、どこへ行き着くこともなく空中を漂い、やがて霧のように消えた。シャム猫のように余韻だけを残して。

 僕はカップを手にとって、口に運んで、コーヒーを口に含む。苦みがあるのだけれど、どこか甘い感じもする不思議な味わいだった。

「言葉を交わすって、まず何から始めればいいのかな」僕はカップをコースターに戻して尋ねる。

「あまり難しく考えないで。むしろ考えに縛られることによって、円滑な流れが損なわれてしまうから。そこにあるべき流れがね」

「きみはそういった抽象的な言葉が好きなのかな」

「ものごとはもっと複雑であるべきよ」

 僕は笑った。短く、だけど鋭利に。「確かにそうかもしれない。なんだかあらゆるものがナイーブにされている、そんなことは僕も感じていた」

「だからこうした会話を好んでする」彼女が言ったのか、僕が言ったのか、いやもちろん彼女が口にした台詞ではあったのだけど、それは同時に彼女の中に存在する他者から発せられ、その他者と僕との不可分的な融合が行われていた。あるいは避けがたいほどの共鳴が。

 言葉を交わす、彼女が口にしたこの象徴的な言葉は、実に内奥を秘めたものだった。字面だけの理解だけでは到底及ばない、神秘的な交わりの入口に僕たちは立とうとしていた。その内部では多義的な交流、いわばベクトルという概念や感性の諸形式を超えた、意味さえもその意味を失うレベルに到達する。だけど、それはもう少し後の話。僕たちは、例えるなら小手先で相手の感触を試す段階に過ぎなかった。こちらがボールを放ったら、相手はどうしてくるのか。実際的でありつつも、どこかぎこちなさがあった。互いの感触を確かめつつ、どこまで踏み込むべきなのか、どの程度踏み込めばある種の手応えを得ることができるのか、じっくりと試しつつあった。得られた手がかりをもとに、次の手が浮かび上がってくる。陽が沈んでまたのぼってくるように、とても自然に。それを相手に手渡す。丁寧に梱包されたプレゼントのように。

もちろん僕はそうしたやり取りを楽しんでいた。心から。ともすると相手の機嫌を損ねてしまう、あるいは関心が離れてしまうような発言をする危険はあったものの、それはそれで僕の神経を昂らせた。勝ちが決まりきっているゲームなんて面白くない。不確実性、それを掌に乗せて落としてしまわないように、あっちへ行ったりまた戻ってきたりしていた。

「これからどうしようか」ひとしきり会話を終えて、僕は尋ねる。僕は彼女について知りたいことは一通り尋ねたし、僕も彼女が求めることについて、僕が答えられるかぎりにおいて答えた。形式的なことも多少奥に立ち入ったことも。

「どこか散歩にいかない?」

「散歩?」彼女が言ったことを僕は繰り返す。

「お気に召さないかしら」

「いや、そんなことはない。とても楽しそうだ」

「本当に?」

「本当に」

「じゃあ、行きましょ」

 彼女はそう言って立ち上がる。僕はなんてこともないような素振りを装っていたけれど、その内部では計り知れない作用が巻き起こっていた。脈は強烈なエンジンを備えたバイクのように早く動き、舌は初めて世界に産み落とされたか弱き動物のように震えた。うまく考えがまとまらない。前も何度か似たような感覚に陥った覚えがある。淡いイメージのようなものが浮かんでくることはあるのだけれど、それを言葉という実体で現すことがどうにもできない。道筋が見えていないのだろうか。ないしは実体化能力とでもいうべきものがその働きを止めてしまったのだろうか。だとしたら原因は一体なんだというのか。どうすれば元のように機能させることができるのか。いや、はたして機能なんてしていたのだろうか。いまもかつても。何が正解かわらかない。いまこうしてここに座っていることすら。なにかどうしようもなく大事なものを見逃してしまっているのではないだろうか。

 身体を細かい震えが駆け巡る。頭の先から足の先端まで。それはとても心地良いものとは言い難い。深い泥のなかにハマって身動きが取れなくなってしまっていることを、なぜか忘れており、それを唐突に思い出したかのようだ。そうだ、僕はどこにも向かうことができないんだと。ただその場に立ち尽くして、現状という名の猛烈な嵐が過ぎ去ってしまうのを耐えるしか無い。やせ細った一本のライ麦のように。

 いやどうだろう、そう言い切ってしまうのも早計かもしれない。どこにも向かっていないとは言ったが、少しずつだけど進んでいるのではないか。確かにその歩みは遅い。何度も同じ陥穽に落ちている。そのたびに起き上がってくるが、どうしても抜け出すことはできない。いつかそれはやってくる。確実に。でも起き上がってきた先は、以前とは違う場所であるはずだ。なにかが生まれ変わって。

 だとしたら僕は何度目の僕なんだろう。数えてきたことはないからわからない。だけどずいぶん重ねてきたことは確かだ。まったく言う事を聞かない、信じられないほど重い身体と、鉛を注ぎ込まれたかのように鈍い頭を携えて、あがいている。なにに対して?答えはおそらく見つからない。漠然としたなにかに対して。

 目が醒めると見知らぬ場所だった。仄暗い照明と轟音を散らしている換気扇。部屋の大半を占める大きなベッドに僕は裸で横たわっていた。正面に据えられたテレビからは、見たこともない番組が聞いたこともない言語で垂れ流されている。それは不快なノイズとして僕の鼓膜を震わせ続ける。一度意識の上に浮かび上がると、どのようにあがいても消し去ることはできず、意識に外縁に張り付いてしまった。窓は分厚くて濃い色合いのカーテンで厳密に覆われ、外の様子を覗うことはおろか、僅かな光が入り込む隙すら与えられていない。重い頭を少しだけ回してそれらの事象のみ確認する。確認したところで、そこからなにか発生するわけでもなかったけれど。むしろそのことにより一層、僕の頭は重くなった。

ここはどこだろう?

記憶は幾分断片的になっている。酒を飲んだのだろうか。そのことすらあやふやになっている。いや酒は飲んでいないはずだ。だとするといまの状況をどうやって説明するのか。アルコールを摂取したことによって記憶が途切れ途切れになっているのなら、ひとまずは納得できるものの、アルコールを飲んでいないのに記憶に曖昧な部分が生じたということなら、なにか致命的な問題が持ち上がったのだろうか。たとえば強烈に頭を打ったとか。合理的とまではいかなくとも、ある程度体系的な説明を誰かにしてほしいと感じた。あなたは昨晩このような行為をして、結果いまこのような状況に陥っていますと。

いまは何時だ?固く閉じられたカーテンによって日の陰り具合から時間を推測することはできない。視線をゆっくりと動かして、床に転がっているスマホを見つける。あれはおそらく僕のものだ。無機物が生命を持たない床の上に打ち上げられている。そしておぼろげなリアリティへの手掛かりなのだろう。身体を慎重に起こしてそちらのほうへ手を伸ばす。側面のボタンを押すと、眩い閃光が放たれ、僕の頭を朦朧とさせる。なんとか画面の表示を視認して、どうやらずいぶん長い間ここにいるようだ、と僕は結論付ける。だけどいったいどうやってここに至ったのか。

広大なベッドと、そのヘッドボードには各種照明や何かのスイッチが備えられている。捻ると入口付近の照明が段階的に強まった。入口?もちろんこの部屋にどこかから入ってきた以上、入口は存在するはずだ。完全に密室となっていないかぎりは。意識のテーブルに浮かんでくるそのときまで、入口の存在に気が付かなかった。粗い目の磨りガラスがはめ込まれたドアが、右手の奥に見え、その奥からは仄暗い闇が覗き込んでいる。ドアと僕がいま横たわっているベッドの間には、あまり座り心地が良さそうには思えない二人掛けのソファとコーヒーテーブルのセットが置かれていいる。テレビの下に置かれた空気清浄機からは、ものすごい量の空気が騒音と共に吐き出されている。

ベッドに上体を起こしたままじっと動かない。動きたい気持ちはあったけれど、まず何から手をつけたらいいのかわからなかったし、身体は操作線を断ち切られたかのように動かなかった。別の誰かの身体に入り込んでしまったかのような感覚を覚えていた。あるいはその反対に誰かが乗り込んできたものの、手持ち無沙汰になにをするでもなく、呆然と立ち尽くしているような。僕であるように見えて、僕ではない。ならばなんと形象したらいいのか。思考もクリアになっていくどころか、むしろキャパシティを超えた処理に追いつかず緩慢な動きしか見せなかった。奮い立たそうとするも、もちろんそんな努力は虚しく、複雑に絡んでいって、ますます身動きが取れなくなっていった。

僕であるように見えて、僕ではない。

おそらくここはどこかのホテルの一室だろう。じっくりと時間を掛けて、その考えの現実的妥当性を吟味する。それもラブホテルの。だけど一体どうやってここに入って、一体ここで何が行われたのか。記憶を懸命に辿ろうとするも、どうしてもどこかの部分で途切れてしまい、前後の繋がりが失われてしまっている。鋭利な刃物でバッサリと切られてしまったかのように。部屋の中に手掛かりを見つけようとするも、部屋はクリーニングが行われてから手が加えられていないと思わせるほど、整然としている。布団にもシーツにも乱れはなく、リモコンは向きを揃えて置かれていた。誰かがそこにいたという痕跡はない。

いや、意図的に隠されているのか?少し不自然なほど整然としているところから、その考えが僕の頭に浮かぶが、だとしても誰がなんの目的で行ったのだろう。また次の疑問にぶつかる。なにか実際的な不都合が持ち上がるとは、あまり思えない。それともよほど痕跡を事実として残したくなかったのか。重い頭でいくら考えようとしても有用な結論には至らなかった。一つだけ確かなのは、いまこうして僕がベッドに裸で横たわっているということだけだ。

ベッドから脚を下ろして慎重に立ち上がる。若干ふらつきはしたものの、よそうしていたほどでもなかった。重い二日酔いだとしたら、立ち上がったとしてもそのままベッドに倒れ込んでいただろう。深い混沌の渦に沈み込むように。でも現実にはなんとか僕は浮上していた。安定はしていないが、それなりの感覚はまだ保っている。だけど思考はとてもクリアとは言い難い。

とりあえずシャワーを浴びようと思い立ち、引きずるようにして入口へと身体を動かす。気怠さが一歩一歩に重く纏わりついてくる。振り払おうとするも、それはコンロにこびりついた汚れのように頑なに落ちない。磨りガラスのドアの前までたどり着き、そのスライドドアを右に開けると、開かれた隙間から冷気が放たれる。僕はたまらず身震いする。いささか大げさな身振りだったかもしれないけれど。

ドアの先の左手には派手な装飾が施された洗面所があって、右手の少し進んだところに風呂場があった。ドアの先に出たところで、記憶の手掛かりと呼べそうなものはなく、どれも見覚えのないものばかりだった。壁に備えられたヘアドライヤーと洗面台の脇に置かれたアメニティ一式。いずれも触れられた痕跡はなく、整然と置かれていた。寸分の乱れもなく。

風呂場の前まで進み、ドアを開ける。ここも使われた痕跡はなかった。水滴はついておらず、ボトルは向きを揃えて床に置かれていた。ノズルを捻り、適切な温度になるまで待つ。浴槽に水が当たる音を聞きながら、もう一度考えをまとめようとする。だけど何度試みても水に入れられた塩化ナトリウムのように、溶けて形を消してしまう。手掛かりというべきものがほとんどないことに加え、僕の中の観念は取り留めもなく奔逸してしまう。気に食わない人に抱かれた猫のように。

シャワーの音が浴室内に空虚な音として響き渡る。僕はそれを椅子に座って背中を丸めて聞くでもなく耳に入れていた。聞くまいと思っても、それは無慈悲に耳の奥深くに侵入してくる。どこまで逃げても執拗に迫ってきた。何度逃げおおせたと思ってもそれは幻惑にすぎず、常に影に潜んでいる。むしろ影というよりもそちらのほうが実体に近いのかもしれない。僕は思わず声を上げそうになった。意味もなく形もなく、ただ音としての叫び声を。

シャワーは適切な温度になっていた。手で触れてそのことを確かめる。頭のてっぺんから被り全身を一通り洗い流す。こびりついた気怠さを落とそうとして。だけどどうしても拭いきれないものがある。それがなにかもわからないし、どのようにすれば落ちるのかもわからない、得体のしれない不気味さを有していた。どこか息苦しさを感じて、慌ててシャワーを止める。身体の表面を水滴が伝い、先端から床へと滴り落ちる。その一滴一滴が降下する音まで聞き取れそうなほどの静寂が浴室内に訪れていた。僕の他に誰もここにはいない。何一つ痕跡を残さず、誰かは去っていった。

浴室内で僕は何をするでもなく椅子に座る。じっと一点を見つめ、なにかそのときが来るのを待っていた。おそらくそんなタイミングはここでは訪れないだろうが。あるいは既に訪れているが、僕は知らず知らずのうちに見過ごしていたのかもしれない。後になったとしても過ぎ去ったことには気が付かない。余韻も何も残さずに。言いしれぬ孤独を僕は覚えていた。それは排水溝から顔を覗かせて、僕のつま先に触れ、恐ろしいほどの勢いで全身を覆っていった。もちろん僕はそんなものをじっと待っていたわけではない。もっとポジティブなもの、いわば悦ばしきものを期待していたけれど、現れたのは対極に位置するものだった。どうして僕ばかりこんな目に遭うんだ。

逃げるようにして風呂場から出る。全身からはまだ水滴が滴っていた。バスタオルがないことに気が付き、洗面所のところまで戻る。洗面台の右手にある開き戸棚を開くと、一番上の棚にバスタオルが積み重ねられており、それを引っ張り出す。身体に当てると、柔らかいのだけど、どこか冷ややかな感触のするバスタオルだった。あるいは世の中のバスタオルなんてどれもそんなものなのかもしれない。だけど一層冷ややかなバスタオルだとそのときの僕には感じられた。

身体についた水滴を丹念に取り除いていく。一つ一つしっかりと。それが終わるとスライドドアを開けてベッドがある空間に戻る。床に抜け殻のように脱ぎ捨てられていた衣服を見つけ、それを手に取る。空気を含んでずっしりと重たいセーターだった。繊維の奥底にまで染み込んでいる。アンダーウェアを着て黒のジーパンを履くと、鉛を埋め込まれたような鈍重さが全身を覆った。僕はたまらずベッドに倒れ込む。

ベッドに仰向けになり目を瞑る。虫が這うような模様が瞼の裏に浮かび上がる。意識が混濁とし、焦点は定まらず、実体としての僕がいくぶん不確かなものになった。乖離していくような感覚に襲われる。果たして何と何が?答えが得られそうにもない問いが、目まぐるしい勢いで駆けていく。僕にはそれを止めることはできない。砂漠に一滴の水が垂れ落ちるように、どこまでも虚しい試みだった。

どれくらいの時間僕はそうしていただろう。もはや時間という形式すら溶けて消え失せてしまったかのようだった。ゆっくりと瞼を開く。それだけでもいささかの労力が求められた。

ふと天井に大きな鏡がはめ込まれていることに気がつく。ダブル以上のサイズがあるベッドと同等の大きさの鏡が、ベッドの真上に備えられており、そこには僕が仰臥している様子が写っていた。その中の僕と目がしっかりと合う。すべてが反転して映り込んでいる鏡像の僕。僕が瞬きをすれば彼もそれに応じる。頭の頂点から足の先まで、正確に映し出されていた。どことなく違和感を覚える。彼はじっと見つめてくる。視線を外そうとするも、猛烈な渦に飲み込まれたかのように逸らすことができない。黒い瞳は微かにも光を帯びておらず、深淵として顔の中に彫り込まれている。どこにも遷ろうことはなくただ僕のことを見ている。瞳の中からなにかしらの意図を読み取ろうとするも、恐怖からか思考はうまく機能しない。いや恐怖と一言では現されるものでは到底ない。雑多な感情が入り乱れており、複雑な模様を描いている。種々の絵の具を混ぜ合わせたかのように、暗い色合いとなっている。さきほどシャワーを浴びたばかりなのに、不快な汗があちこちに浮かんでいるのを感じる。仄暗いホテルの一室で僕は動けなくなっていた。空気清浄機からは相変わらず物々しい音が吐き出されている。

どうして天井に鏡があるのだろう。最初から鏡はそこにあったはずだが、僕には気が付かなかった。通常の用途では用いられない位置に存在している。それもかなり大きなサイズのものが。どういった意図で設置されたのか検討もつかないけれど、多少なりとも狂気じみたものを思わせる。何かの儀式のために備えられているかのような。

ますます頭は混乱していき、呼吸は浅くなっていく。息苦しさをはっきりと感じることができた。汗が身体を流れていく感触を覚え、舌が口の中いっぱいに膨らんでいく。彼は未だに僕のことを正面から見つめている。相変わらずその瞳に光はなく、感情の欠片すら浮かんでいない。純粋な無機物を僕に思わせた。

そのとき、それまでしっかりと閉じられていた彼の口がおもむろに開き、なにかの言葉を発するように動いた。ゆっくりと、そして僅かにしか動いていないけれど、その口は確かに言葉を発していた。精密に作られた腹話術人形を思わせた。しかしその内容を聞き取ることはできない。無意識のうちに耳を澄ませるものの、彼の言葉は音としては不十分だった。何らかの意図をもって発せられているはずだけど、僕の耳に届くことはない。いや誰の耳にも届くことはないだろう。メッセージとして成り立たないこと自体がメッセージなのかもしれない。いずれにせよ聴覚的な情報を得ることはできなかった。

不思議なことに恐怖は幾分薄れていた。それよりも内容を聞き取りたいという好奇心が強かった。僕から僕だけに与えられるメッセージ。だけどどうあがいても意図を汲み取ることはできなかった。そもそもなにかを伝えよう、という意図があるのかすらわからない。寝言のようにまったく意味をなさないものなのかもしれない。だけど僕は耳を済ませようとしていた。ラジオのチャンネルをチューニングするかのように。

時間にして十秒ほど彼の口は動いていただろうか。ひとしきり話し終えると彼の口はまた元のようにしっかりと閉ざされ、それ以降開かれることはなかった。汗はもう引いて乾いていた。頭の中でロジカルにものごとを捉えようとするも、もちろんそんなことはできなかった。いま目の前で、というよりも鏡の中で起こったできごとをロジックで説明することはおそらく不可能だろう。一つの目に見える糸が切断され、新たな糸が生まれていた。二つはちょうど僕と彼の立ち位置のように、一見すると同じに見えるが、核心とでもいうべき部分が反転していた。

しばらくして身体の自由が実感として蘇ってきた。気づかぬうちに拘束衣を着せられたかのように身体は動かなくなっていた。凝結した氷がじっくりと融解するように、僕の身体に熱感が取り戻されていった。ゆっくりと節々の動きを確かめるように上体を起こす。それに伴って彼の姿は消えた。僕はベッドから抜け出して、相変わらずノイズを発していたテレビと空気清浄機の電源を落とそうとした。空気清浄機はすぐに大人しくなったが、テレビのリモコンは作動せず、何度押しても画面が暗くなることはない。本体の側面にあるいくつかのボタンをひとしきり押してもノイズを吐き出し続ける。苛立ちを覚えて、接続された電源ケーブルを引っこ抜いたら、ようやく画面が落ちた。

ノイズが取り払われたのは束の間、こんどは刺すような痛いほどの静寂が訪れた。もしここに壁掛け時計があったならば、それは大きな音が鳴り響いていたことだろう。一つひとつ正確な時を切り取って。さっき起こった出来事を整理しようと思ったけれど、僕はどうにも落ち着かなかった。ベッドの脇に置かれていたアウターを着込み、ソファに無造作に投げられたリュックサックを背負い、入口のほうへ向かう。スライドドアを開いて、振り返って室内をもう一度確認する。鏡にはシワが寄ったシーツが写っているだけで、他になにも入り込んでいない。なにか忘れているような気がしたけれど、どうしてもそれがなにか思い当たることはなかった。それに隈なく室内を探る気なんて到底起こらなかった。

靴に足を滑り込ませ、入口の脇に備えられたケースからカードキーを取り出し、ドアを開ける。ドアの先はやはり仄暗い照明の廊下で、見覚えはなかった。壁には非常時における避難経路の案内のほかは目立ったものはなく、部屋番号のプレートが埋め込まれたドアが並んでいるだけだ。気の利いた絵画も、気分を高揚させる装いもなかった。あくまで実用的な建物の廊下だった。幅も人が二人歩くほどの広さだけ取られ、効率的に部屋の空間を配置できるように入り組んでいた。何度か方向を間違えながら、エレベーターへ辿り着く。

一台だけあるエレベーターのボタンを押すが、点灯するだけでほかになにも反応はない。いまここが何階で(まあ正確にはカードキーでわかるのだけど)、エレベーターがいまどこにいるのかもわからない。別に急いでいるわけではないものの、なぜか焦る気持ちが駆り立てられる。

一刻も早くこの不確かな状況から抜け出したかった。あれは幻想だったのか。それにしては質感があまりにもリアリティを持っていた。そもそもどうして僕はあそこで寝ていたのか。覚醒してからずいぶん時間が経ったけれど、手掛かりが浮かんでくることはなかった。真っ黒の湖に釣り糸を垂らしているような感覚だった。なにかあてがあるわけでもない。底になにかが存在しているのはわかるものの、釣れる確証はない。僕は弄ばれているのではないだろうか。

ふとある瞬間にエレベーターの扉が音もなく開く。きっとエレベーターなりの論理で動いているのだろう。僕はエレベーターに足を踏み入れる。殺風景な廊下とは裏腹に、中は宿泊プランの説明や部屋の案内で雑多な雰囲気だった。種々のプランがあり、同様に多くのコンセプトの部屋があることがわかったけれど、どれも僕の気持ちを晴れやかにするものではなかった。いまの僕にとって何一つ現実への取っ掛かりと呼べるものは、そこにはなかった。

音もなくエレベーターは下降する。いままであまり意識したことはなかったものの、これほど静かなエレベーターに乗ったことはなかった。揺れもなく少しの稼働音もしない。何かしらの吸音措置が施されているのだろうか。音が発生したとしても、その場ですぐに吸い込んで揉み消してしまうような。たとえそれほど高性能の装置が存在したとしても、こんなうらぶれた建物になんて設置されないだろう。あるいは僕の耳がおかしくなったのか。思えば空気清浄機とテレビの電源を落としてから、音という音を耳にしていない。部屋の入口のドアも一切音を立てていなかった。

試しに声を出してみる。粘着質で絡むような声が出たが、はっきりと僕の耳に届いた。おそらく僕の耳は正常に機能しているはずだ。だとしたら本当に音が一切しないエレベーターが存在して、この建物に導入されているということなのか。いま一つ、というより何一つ確信が持てなかった。

ランプが点灯し、やはり音もなく扉が開く。どうやらロビーがある階についたようだ。そこも照明は薄暗く、来る人を歓迎する雰囲気とは言い難かった。角を一つ曲がったところに大理石調のフロントがあり、そこにカードキーを置く。上半分は黒い目張りで目隠しがされており、中を覗うことはできない。白い手が伸びてカードキーを機械に挿入する。

「精算は終わっております」

 どこまでも事務的な声だった。これといった感情はそこには込められていなかった。顔は見えずほとんどの情報がシャットアウトされている。僕は何も言わずフロントを去る。自動のガラスドアをくぐり、建物の外に出る。

 冷ややかな空気がアウターの隙間をくぐり抜けて身体を覆う。風は吹いていないものの、滞留する空気全体がよそよそしいものだった。鼻の先に少し痛みを感じる。ポケットに手を突っ込んで、とりあえず右の方向へ進む。雲は重く垂れ込み、道沿いに設置されたベンチは深くふさぎ込んでいた。いやあくまで僕の主観においてのみ、そう感じられたのかもしれない。フィルターが幾重にもかかって視界を鈍らせていたのかもしれない。

だとしても僕にはどうでもよかった。取り払う術なんてないし、そもそも一体化しているのだから。

同じような高さの雑居ビルが並ぶ通りだった。けばけばしい看板を掲げ、おそらく夜になるとこれまたきつい明かりを放つのだろう。一隅にコインパーキングがあり、数台の車が停められている。ずいぶん長い時間停められていたのか、ガラスは白く濁っている。近くに高速道路の高架線があり、車が繋ぎ目を通り越す音が断続的に響く。頻繁に大型車が通過して、そのたびに重い音が響き渡る。誰も居ない海岸で聞く海鳴りのように。建物に接した道路を行き交うものはなにもない。空白と街路樹とベンチだけが並んでいる。そのいずれもが時間の流れから取り残されたかのようだった。ずっと前からそこで佇んでいる。僕はその脇を通り過ぎる。

方向の検討は一切つかなかったけれど、大通りに行き当たって、ひとまず人の流れに沿うことにした。知らない土地だったし、ここから出るためには何かしらの手段を講じる必要があった。人の波は絶え間なく流れていた。僕が進んでいる方向にもそうだし、反対方向へ流れる向きもあった。それらは一つの境目をもって二つにくっきりと分かれていた。混じり合うことも、入り乱れることもなく、どこか非有機的な匂いさえ感じ取れた。どこに向かうかも、何が行われるかも委ねられている。自分ではない何らかの存在によって。そのことに対して違和感を覚えることもなければ、抵抗を示すこともなく、双方は癒着しきっていた。それと感づかれることもなく。

誰に?…いったい僕は何に話しかけているんだ?独り言ではない。言葉にはなっていない。僕の頭の中でイメージ未満のものが、ぐるぐると巡る。動き始めたのはいいけれど総体としてのまとまりがなかった。少し手に触れただけで溶けてしまうような、シニフィアンの原型とでもいうべきもの。

実体が乖離しており、リアリティがどこか軽薄、あるいは空虚に感じられる。確かな実感が伴っていない。いつからこんな感覚を抱くようになったのか。今朝目醒めたときから?鏡の中で彼と対面してから?ないしは、もっとはるか遠くの時点から?その不明瞭さが、また僕の安定を欠いていく。

一歩一歩確かに歩いているのだけれど、どこかふわふわとした曖昧さを覚える。踏みしめるようにして歩いてみても、それは変わらない。そんなことをしていると、あやうく人の波に飲み込まれそうになる。

気がつくと、一つの駅に辿り着いていた。流れはそのまま改札がある方向へ進んでいく。僕は、ふと思い立って流れから外れる。このまま進めばいち早く、どこか別の場所へ行けるのだけれど、そのときになって空腹を覚えたからかもしれない。コンコースの上に続く流れから逸れて、高架駅の一階部分に向かう。コーヒーチェーンを見つけ、その中に入る。

ガラスの自動扉が開くと、ほんの微かにコーヒーの香りが漂い、店内をざっと眺めるとと、大半の座席は空いていた。入口に一番近いソファー席にリュックサックを置き、アウターをかける。カウンターに向かいメニューを一通り眺めたが、初めから頼むものは決まっていた。  

ロゴのついたエプロンを着た店員がやってきて、注文を尋ねる。ホットコーヒーとトマトサンドウィッチを注文し、支払いをして、隣の受け取り口へ移動する。店員はコーヒーマシンに向かい、レバーを下げてマシンを操作する。僕は振り返って店内の様子をもう一度眺める。特に変わったところはなかった。ありふれた光景だった。ほとんどの客が一人で、マグカップを机の上に置いて、スマホやPCを眺めていた。画面を見つめる表情に、特に読み取れるものはなかった。あえてそうしているのか、あるいは気が付かぬうちに表象が削がれてしまったのか。まあ、別にそんなことはどうでもいい。いつもと変わらないということを確かめられたら、それでよかった。

マシンの音が止まり、店員がコーヒーをカップに注ぎ、受け取り口のほうへやってくる。トレイに皿を置き、その上にトマトサンドウィッチ、脇にカップを載せ、僕に差し出す。僕は礼を述べてリュックサックを置いた席へ戻る。ソファに座り、ホットコーヒーを口に含む。トマトサンドウィッチの包装を開き、一口食べる。ありふれた味のサンドウィッチ、あまり濃いとは言えないコーヒーだったけれど、僕はそれを求めていた。現実への取っ掛かりの一つとして。トマトサンドウィッチを一つ食べ終え、もう一つを手に取る。口にパンとトマトが触れる食感、噛みしめると広がる香りをじっくりと確かめる。

店への人の出入りはあまりなかった。テーブルやトレイに置かれたマグカップの中のコーヒーは、湯気の立ち具合が次第にかすみ、店内に差す陽光は徐々に浅くなっていた。カウンターの奥では二人の店員が、材料をカットしたりマシンに豆を補充したりしている。外の様子を覗えるガラス面の奥の通りでは、駅前ということもあり忙しなく車が行き交う。それらは一度通り過ぎたきり、再び現れることのない蜃気楼として、僕の視界の隅に現れる。現れては消え、現れては消え、という運動を不可逆的に繰り返している。営みの一部として。

マグカップを手に取り口に運ぶ。適度な質感を持ったマグカップだった。ロゴ入りのもので一目でそのカフェとわかる。傾けて口の中に流し込む。トレイに戻すとき、表面がぐらりと傾いだ。

そのとき一人の女性がカフェの外にいる様子が、僕の目の中に入ってきた。コーヒーをトレイに戻して、視線を前方に移したタイミングだった。ちょうど建物の角に立っているため、半分ほど隠れてしまっているが、その立ち振舞はどうしてか僕の心を揺さぶった。ほんの一瞬の出来事だった。気のせいだったのかもしれない。僕は視線をテーブルに落とす。コーヒーからは湯気は立っていなかった。

もう一度その方向をさりげなく眺めている。やはりそこに一人の女性が立っている。かなり背の高い女性だ。黒色の大きなボタンがついたアイボリーのロングコートで全身を覆い、ズボンは足元の丈が広がったスタイルのグレーのもので、うっすらとタータンチェックがついている。靴は厚底の黒のブーツという装いだった。誰かと待ち合わせをしているようで、改札に繋がる方向を眺めている。ときおり時間を確認するためだろうか、スマホをポケットから取り出すが、すぐにしまってまた元の方向を見つめている。

寒くないのだろうか。待ち合わせをしているなら、店内で待ってもいいだろうにと思うけれど、女性は外の通りに立っている。その横顔がはっきりと僕の中に飛び込んでくる。イメージが頭の中で拡散して、縦横無尽に駆け巡った。ぐるぐると僕の意識が撹拌される。バターを作っているかのように。僕は気を紛らわせるためにリュックサックから単行本を取り出す。いま読んでいるのはJDサリンジャーの短篇集だった。本を開いて文章を頭に入れようとするも、わかってはいたことだけど視線は落ち着きなく遷ろう。近くの客の様子や頼んでいるメニュー、カウンターの中の店員の動作、そして外に立っている女性へと次々と遷ろって、とてもじゃないけれどサリンジャーが読める状態ではなかった。サリンジャーでなくてもあるいは同じことだったかもしれない。

どうしてここのところ、こうした目に合うんだろう。シチュエーションに遭遇する、といっていいかもしれない。目移りばかりして、一つの物事を正面から捉えることができない。じっくりと腰を据えて。いや、始めからそもそもそんなことは僕には向いていないか。考えようによっては遷ろうことも悪くない。ただし頽廃へと向かわなければ。その見極めはどのように行う?正常な遷ろいと、破滅的な遷ろいと、はたしていま僕はどちらに向かっているのか。

時間になっても待ち人はこないようで、しきりに改札口のほうを眺めたり時間を確認したりしている。でも焦れったさ、あるいは不安が浮かんでいるようではない。来るのは確実なのだけど、またしても遅れているといった感じが覗えた。

女性の外見には目を惹くところがあった。とびきりの美人というわけではないものの、独特の雰囲気を持ち合わせており、嗜好が合う人にはとことん合うといったものだった。そこそこ酔いが回った状態で飲む、ストレートのアードベッグのように。一般に広く受け入れられるということは、あるいは限られているのかもしれないけれど、少なくとも僕の好みではあった。

女性はかなり背が高かった。平均身長よりはおそらく十センチほど高いだろう。スラリと全身が糸のように伸び、手脚もそれに伴い上品さが込められた動きをした。それは仕草にも表れている。約束の時間は過ぎているのだろうけれど、女性はどこか超然とした空気を纏っていた。ときおり時間を確認するものの、どれくらい遅れてくるのか賭けをして楽しんでいるような雰囲気だった。それほど待ち人と会うことを楽しみにしているのだろうか。

一度視界に捉えると、僕はその女性のことがどうしても気になってしまった。意識するでもなく、そちらの方へ注意が向いてしまう。巨大な星の重力に否応なく引き寄せられる、小さな星屑のようだった。

単行本は開いたきり一ページも進んでいなかった。マグカップを手に取りコーヒーをすする。だいぶぬるくなってしまっていた。位置をずらしてソファに深く体重をかける。予想していたよりもソファは深く沈み込み、脚を前に向かって伸ばす。女性は僕の正面よりほんの少しだけ左手に立っていた。意味もなく首を左右に傾ける。皿の上に食べかけだったトマトサンドウィッチを取って、全部平らげる。食べ足りない感覚はあったものの、なにかこれ以上注文する気にもならなかった。ひとまず空腹は治まった。

高架駅を電車が通り過ぎる音が遠くに響く。鋭く差し込んでいた陽光はゆっくりと穏やかになっていく。ときおり注文に応えてコーヒーマシンの音が響く。忙しなく人や車が前の通りを行き交っていたが、僕はその場を動こうとも思わなかったし、女性も誰かを待ち続けていた。

だいぶ時間が経ったと思う。コーヒーはあと僅かになっていた。トレイにマグカップを戻し、僕が通りに目をやったそのタイミングで、それまであまり視線が動かなかった女性がこちらを向いて、束の間僕の視線と女性の視線が交錯した。もちろんそれは偶然だった。歯車と歯車がたまたまその瞬間に噛み合っただけだ。すぐにそれらは融解し、またそれぞれ別の存在に戻る。

ほんの刹那の交差だった。交差とすら言えないものかもしれない。ほんの少し先端が掠めた。なのにその情景は深く僕の奥底まで刻み込まれた。掠めたことにより不可視的な火花が散り、荒涼とした大地に火種をもたらした。

この感覚を僕はどのように扱えばいいのだろう。とてもじゃないけれど、手に負えそうにもなかった。目に見えず抗うことのできない力が働いていた。いや、そんな即物的なものではないかもしれない。だとすればなんだ?この感覚をどのように吐き出せばいいのだろう。

マグカップを勢いよく手に取って、残っていたコーヒーを飲み干す。もはやすっかり冷めきっていた。目が醒めてから感じていた頭の鈍重さは、カフェインを摂っても拭い切れることはなかった。むしろ混沌と迷妄具合は増していた。確実に動いてはいるものの、どこか正常なベクトルとは違うベクトルへ流れていく。僕にはその動きを抑えることはできなかった。ただ指を加えて、コーヒーを飲んで見つめているほかなかった。

 自分の中に、普段あまり経験することのない感覚が広がっていた。あまり出くわしたことがない、といったほうが正確だろうか。未知の感覚、得体のしれない感覚、だけど心地悪いものではない。むしろ浮足立った状態に僕を陥らせていた。でもどうしてだろう。たった一瞬の出来事だったのに。それも目が合ったというだけで。

あのごく僅かな時間では、女性の顔を朧気にしか捉えることはできなかった。しっかりと見てみたいという願望に駆られていた。だけどこちらから働きかける方法はない。再度機会が訪れるのを待つしかない。

僕は待った。ずいぶんと長いあいだ。女性がこちらへもういちど視線を投げかけることを。だけどそんなことは二度と起こらなかった。僕は立ち上がり、空になったマグカップと皿を載せたトレイを返却口へ返しに行く。席に戻り、アウターの袖に腕を通し、リュックサックを背負う。忘れ物がないか一応確認してから、入口へ向かう。

自動ドアが開くと、ここぞとばかりに冷たい風が流れ込む。脇を締めてその場でなんとなく上を見上げる。空には雲一つ浮かんでいなかった。太陽のみが踊りだしており、グラデーションを帯びた空がそれを支えていた。改札口とは反対のほうへ進む。すぐに歩道橋につき、階段を中程まで登ったところで、初めて後ろを振り返る。

そこにまだ女性は立っていた。相変わらず駅のほうを見つめている。刹那的な交錯は僕の気のせいだったのだろうか。あるいは単なる女性の気まぐれなのか。情景はまだ深く刻み込まれている。そしてそれに伴う感覚も。あまり味わったことのないものだった。甘美で、だけど仄かにパラノイア的な匂いがする感覚。最後に味わったのはいつだったか。それは広大な記憶の海に海月のように漂っていた。

 カーテンの隙間から陽が射してくる。この射し具合からして、世の中が回転しだしてからずいぶんと経っているのだろう。だけどまとわりつくような眠気を取り払うことはできなかった。いつまでも微睡みの縁に佇んでいたかった。重い腕を伸ばして枕元に投げ出されたスマホを取る。画面の眩しさに嫌気が差す。どうでもいいようなジャンクメールしか届いていないことに対しても。

 スマホを放りだして、もういちど瞼を閉じようとしていたとき、通話アプリが鳴った。

「今日空いてる?どこかで会わない?」

 鈍い頭の中に文字列だけが浮かんでくる。ゆっくりと意味内容を咀嚼して、誰かが僕を誘っていることを把握する。普段の僕だったら喜んでいたのかもしれないけれど、重い二日酔いを抱えたいまの僕には、ひどく億劫に思われた。悦ばしき誘いがきたところで、この二日酔いは消え失せない。上半身だけベッドから起こすと、揺れるような感覚と重く響く痛みが走った。しばらくその状態で、痛みに慣れるまで待つ。口の中からは種々なものが混じり合って、形容し難い匂いがする。

 ゆっくりとベッドから起き上がり、乱れたシーツはそのままにして、とりあえず台所へ行きコップ一杯の水を飲む。乾ききった身体の中に水が染み渡っていく。そのまま三杯飲んだところでコップを置き、口から滴る水滴を手の甲で拭う。こんなことしたところで忌避的な痛みが治まるわけではないが、こうするしか手がないのがもどかしかった。

 おぼつかない足取りでベッドへ戻り、カーテンを開く。カーテンのタッセルにはなぜか履き捨てられた靴下が引っ掛かっていた。僕のものに違いないが、どうしてこんなところに?純動な頭をいくら回したところで、求める答えは出てこなかった。

 カーテンが開かれた先の窓からは、隣接する建物の隙間を縫って、陽の光が射し込んでくる。すでに高い位置に登っており、じりじりと僕の頭を締め付ける。ベッドに腰掛けてスマホを手にする。通知は少女からだった。億劫に思われたけれど、断るほどでもなかった。むしろコンディションが整いさえすれば、瞬く間にそれは悦ばしき誘いに変貌しただろう。

「行こう」

 少し味気ないような気もするが、他に当たり障りのない返信文言は思い浮かばなかった。そのままベッドに横たわりたい気持ちをなんとか退け、シャワーを浴びに向かう。シャワーを浴びると幾分すっきりした心持ちになった。バスタオルを取ろうとして、そこですべてのバスタオルが洗濯機に放り込まれたままであることに気が付き、言葉にならない悪態をつく。洗濯機までびっしょりと足跡を残しながら、ましなバスタオルを見つけ出し、全身の水滴を軽く拭く。その後でざっと足跡を消す。

  クローゼットを開き、ハンガーに掛かっていたズボンと、引き出しの中に畳めれた下着と、適当に目についたシャツを手に取る。シャツを取ってみて、これでいいだろうか?という思いは浮かんだものの、着てみるといつもどおりの着こなしになった。

 なにか口にしたいと思い冷蔵庫を覗くも、ろくなものが入っていなかった。ドレッシングといつ開けたか覚えていないウインナーの袋と空になった卵のパック。なんでこんなものが入っているんんだ、という腹立たしさと純粋な疑問を抱えながら、パックを取り出してゴミ箱に捨てる。炊飯器を開くとそこもやはり空っぽで、内釜を取り出し、 白米を掬い適当に水で洗い、ボタンを押してセットする。

 ベッドに戻り浅く腰を掛ける。シーツのシワが気になり、一度立ち上がってメイキングをする。それで何か変わるわけではないし、ましてや頭の重みが軽減されるわけでもないが、一つの習慣としてその行為をとった。スマホを開いて通知を確認する。返信はまだ来ていない。いささか簡略にしすぎたかもしれない。そっけないと思われたかもしれない。だけど一度送ったメッセージを取り消して、新たなメッセージを考えるのはどうにも億劫だった。一つひとつの文字がかなりの重圧をもって僕にのしかかってくるような錯覚に陥っていた。

 時間がゆっくりと流れてた。通常の進行とはいくぶん乖離して、独特の淀みにどっぷりと浸かっていた。そのことを自覚はするものの、だからといって時計の針が速度を急に上げるわけはない。停滞を自覚し、波に浮かぶような感覚を享受する。それがベッドに腰掛けて僕がしていたことだ。

 太陽が床を斜めに照らす。ときおり鳥の影が勢いよく横切る。背中に圧迫感を感じる。いや腰のあたりだろうか。腕を上に伸ばして、その部分の筋肉を弛緩させる。ふと思い立って窓を開ける。柔らかな風が吹き込んでくる。豊満な匂いを含んでいる風だ。草と土とその他の形容できない粒子とを含んでいる。その風がカーテンをゆっくりとはためかせる。そうした一連の様子を、僕は僕としてリアリティを持って観察する。

 リアリティ?いったい何の?この胸につかえる居心地の悪い窮屈さのことだろうか。あるいはそこら辺に漂っている虚脱感のことだろうか。この気怠さは二日酔いによるものに違いない。こんなコンディションだからこそ、わけのわからないことばかり浮かんでくるのか。台所に行き、水道の蛇口を捻る。停滞していた時間が流れ出す。コップ一杯分注ぎ、一息で飲み干す。

 そのときスマホから通知音が響いた。それはいささか大きな音で、ゆったりとした静寂が漂っていた部屋において、空間の間隙を縫って僕の耳に届いた。身体がビクッと震えてさえいたかもしれなかった。

「十二時に✕✕駅で」

 どこまでも実務的なメッセージだった。そこには叙情的な文言なんてなかった。返信をしようと画面をタップしかけるが、すぐに返信するのはどうかと思い直し、画面を切る。重い停滞感が占めていた部分に、僅かな高揚感が滑り込んできた。風が吹き始めている。そしてゆっくりと形を変えながら次第に大きくなっていった。

 約束の時間までは、まだしばらくある。どのようにして過ごそうか。炊飯器が停止してご飯を食べられるようになるまでにも時間がある。僕は近所をぶらぶらと散歩することにした。散歩から帰ってくるころには炊飯器も止まっているだろう。

 ひしめくような建物を覆うように広がる空には、雲一つなかった。一抹さえも漂っておらず、どこまでも澄んだ空だった。その下で人々の営みは、速度を増して回転していた。見つめるでもなく、視界に入ってくるそれらの数々を眺める。次々とトラックは行き交い、高架の上をひっきりなしに電車が通過していく。太陽はすでに高い位置に登って、それらを照らし出している。それでも背の高い建物に遮られ、ところどころでは影が舞っており、光を吸収している。心地よい風が吹いていた。寒かった日々を通り過ぎて、ようやく芽吹きが見え始める頃合いだった。その中を僕はどこへというわけもなく、歩く。

 近所の公園に着き、その中へ入る。テニスコートの周囲に整備された遊歩道を一周する。太陽がぐるりと回転し、影の位置は前後反対に伸びた。小高い位置にあるその公園からは、街の一部を眺めることができた。街並みが広がっており、陽光によってきらめいている。

 僕はベンチに座ってポケットからスマホを取り出す。簡潔な返信を送る。あえてそうしたわけではないものの、なにか余計なものを含めてはいけないような気がした。それだけをしてスマホを再びポケットにしまう。脚を前に伸ばして上半身を折り曲げて、屈伸の姿勢を取ってみる。首筋に柔らかい光が当てられるのを感じる。その姿勢を保ったまま、深く息を吸い、身体の中に新鮮な空気を取り込む。

 気のせいだろうか、どこか違和感を感じる。底しれない不安、あるいは形容し難い居心地の悪さとでも言おうか。なにか根底を揺るがすような。でもそれは一瞬で過ぎ去り、時間は元の速度で流れ始める。僕はベンチから立ち上がり、歩いて公園から出る。

 家に戻り、食事を済ませ、手に取った本を読んでいると、時間はあっという間に過ぎていった。とは言っても、その間僕は何度も立ち上がってトイレに行ったり、ソファの座る位置を変えたり、本を膝の上に置いたりしたりと、どうにも落ち着きがなかった。内容もほとんど読み込めていなかった。

 台所に行って水を一杯飲み、クローゼットの中から着ていくジャケットを選ぶ。この時期だったらどれがいいだろう?このズボンとのセットは合っているだろうか?普段考えもしないことが頭に浮かんでくる。だけどもちろん答えは僕の中にはなかった。

家を出て駅に向かって歩く。太陽は先ほどよりも高い位置に登っており、影はその領域を狭めていた。回転はひとしきり落ち着いて、緩慢なものに遷っていた。時間には余裕があるからゆっくりと歩く。穏やかな陽光がアスファルトを照らし出す。ふわふわと高揚した空気が漂っている。あるいは僕だけが心ならずも気持ちが昂っていただけなのかもしれない。

人のいない改札を通り抜ける。改札機の音が鳴る。駅に並ぶ広告の一つひとつを視界にいれるが、心躍るものはなかった。高齢者向け賃貸住宅、災害対策の呼びかけ、鉄道会社が企画する観光旅行。いつも見ているはずの光景が、くっきりと視界の中に飛び込んできた。僕の中のどこかで疼くような感覚を覚える。

高架駅のホームに立つ。ホーム全体を覆う庇の向こうから太陽が覗き、並んだレールのてっぺんを照らしている。ちらとだけそちらを一瞥する。 きらりと反射したその光が鮮やかに僕の目に映る。ゆったりとした風が吹いている。穏やかに僕の頬をなで、髪を触る。まるで柔らかい手に包まれているような感覚を僕は抱く。

約束の時間よりもずいぶん早く僕は駅についた。ホームに降り立って、沸き立った人の渦に従って階段へ進む。右手には河岸工事をしている、大規模な機械群が目に入る。どういった用途で用いられるのか僕にはわからないけれど、その大きな機械からは絶え間なく駆動音がもたらされており、どことなく不安な思いにさせる。少なくとも心休まるものでない。

階段を昇りきり、幾多の流れが組み合わさり、複雑な奔流となった一帯を進む。ひっきりなしに電光掲示板は点滅し、その先に見える自動改札も動きを止めることはなかった。新たな駅舎をたてる計画が着手されているようで、あちこちに工事用のシートがかけられ、その奥からはやはり沸き立てる音が聞こえてくる。どこに行ってもその調子だった。

改札を抜け、あたりを軽く歩いてみる。もちろん彼女の姿はまだ見えなかった。早すぎると言ってもいいほどだった。邪魔にならないように壁側に寄って、改札の様子が見える場所へ移動する。ポケットから文庫本を取り出し、革の栞を挟んだ頁を開き、目の高さに掲げる。

時間は緩慢に過ぎていった。その間に何本もの電車が発着して、そのたびに多くの人が改札を出入りした。駅の出口に面した道路にも人は流れており、駅に入っていったり、あるいは道路のその先へ進んでいった。僕の視線は落ち着きを完全に失っており、人や時計や改札へと次々に遷ろった。そんなことをしても時間の経過が早まったりするわけでもないのに、無性に気になって仕方がなかった。もちろん時間は一つひとつ丁寧に区切りながら進んでいった。そのことだけを確認して、僕はまた文庫本に視線を戻す。

イヤホンから流れる音楽が切れていることに気がついて、ポケットからスマホを取り出す。いつから静寂が覆っていたのだろうか。突き抜ける街の音が大きくてそのことに気がついていなかった。ざっと画面を眺めて、目についたカーディガンズのカーニヴァルを選択する。すぐに楽曲が流れ始める。なんとなくその曲が聞きたかった。このタイミングで。

やがて約束の時間は近づいていた。それに伴って僕の落ち着きは失われていき、鼓動は昂っていった。自分でもありありとその感覚を掴むことができた。無駄だとはわかりきっていたけれど、自分を落ち着かせる方法を、知っている限りで試したみた。もちろんそんなものは有効ではなかった。むしろそうした一連の仕草は状況を悪化させ、冷静さはますます失われていった。

ふわふわと宙に浮くような感覚を抱いていた。少しの風でどこかへ吹き飛ばされてしまうような。ものごとは彩色をもって、輝いているように感じられた。粒度がとても高かった。それらの中心に僕は立って彼女のことを待っていた。

そうした時間はいささか甘美なものだったといまにして思う。濃密すぎて蕩けてしまいそうなほど。最後にこんな思いをしたのはいつだっただろうか。内部で穏やかに燃え上がっっている。。

そのとき、改札を抜ける彼女の様子が目に入った。人混みの中に紛れていたはずだが、なぜかはっきりと認めることができた。彼女は改札を通り抜け、あたりを見回している。僕は文庫本をポケットに戻し、手を振って自分の居場所を知らせようと思ったけれど、やめた。彼女が僕の方へまっすぐ歩いてきたからだ。その顔には晴れやかな表情が浮かんでいた。

舞うように歩いて僕のほうへ近寄ってくる。それに合わせて黒い髪が揺れる。肩の少し上で切り揃えられたその髪は、淡く光を反射して輝いている。あるいは僕の目にはそのように写った。サイズが大きめでフードがついたブルーのスウェット、その中に筆記体のロゴが入った白いシャツ、脚の形がはっきりとわかる灰色のスキニーズボン、そして白のスタンスミスという格好だった。

「お待たせ」

 直に聞く彼女の声は心地よく僕の鼓膜をくすぐった。

「大して待ってないよ」首を横に振りながらこたえる。

「本当に?ならよかった。なんだか待ちくたびれたような顔をしていたから」

「そんな顔をしていた?」

「うん、一人ぼっちで取り残されてしまった子どもみたいに」

 僕は笑う。あくまでさりげなく。「そんなことはない。実際に待っていたのは十分かそこらだし、その間も本を読んで過ごしていたから」

「そう、ならよかった」

「どうして突然連絡してきたの?」

「迷惑だった?」

「いやそんなことはない。ただ不意をつかれたっていうか」

「なんとなくあなたに会いたくなったの」恥じらいやてらう様子もなく、ごく自然な感じで言う。

 一方で僕はその科白に気恥ずかしさを覚えて、意味もない音が口から漏れる。「そう言ってくれて嬉しいよ」

 彼女と僕の視線が一瞬ぶつかる。その表情にはいまひとつ上手く読み取れないものが含まれていた。あるいは僕の目にはそのように写った。

「いい天気ね」横を向いて、改札口のガードの向こうに広がる空を見て、彼女は言う。僕はそれに無言で同意する。彼女の肩越しに見える空は澄み渡るように美しかった。

「行きましょ」

 

 人が縦横に入り組む駅の出口を抜け、隣接した道路を左に進む。線路とホーム、そしてそれらに接した川を越えるようにして橋が渡り、僕らはその橋の上を歩く。なだらかなアーチと懐古的な欄干を備えた橋の上からは、川の流れに沿って険しいカーブを描く線路が見える。川の一方に駅と線路があり、川を挟んだもう一方には急峻な土手が聳えている。川は地面よりかなり低い位置を流れ、土手の上に沿った道路から見下ろすような形で見える。僕らはその道をゆっくりと歩く。他愛もない会話をしながら。

 この前読んだ本について、映画館で見た古い洋画について、それに出演していた若かりし頃の俳優について、昔からの友人と食事に行ったことについて。僕らは情報を共有し、それらを大切にしまいこむ。そしてそこに含まれる本質からは逸れないように、類似した話題を提供する、あるいは単純に共感を示す。例えばこんな具合に。

「カルボナーラって好き?」

「カルボナーラ?ええ、好き」

「僕はパスタを食べたいと思ったら、まず第一にカルボナーラを候補に入れる。自分で作るにせよ、メニューの中から選択するにせよ」

「それはあなたの中の流儀のようなものかしら?」

「いや、そんな大仰なものでもない。ただ単純にパスタの中でカルボナーラが好きというだけ」

「カルボナーラも美味しいけれど、わたしはあれが好き。なんていうんだっけ、アサリを入れて白ワインで蒸したもの」

「ボンゴレビアンゴ」

「そう、ボンゴレビアンゴ。いつもどうしても名前が出てここないの」

「好きな料理の名前なのに?」

「そう、どうしてかしら。いつもなにか他のものと入り混じって、よくわからないことになっちゃう」

「別に厳密な正確性は求めていないよ」

「あるいは必然性」そういって彼女は微笑みを浮かべる。それは純粋というよりは、どこか底知れなさを持った笑みだった。ないしは限定的な奥行きをもった笑み。そして続ける。「最近、そういった本を読んだの。必然性について取り扱った本。誰が書いたのか上手く思い出せないけれど」

「必然性について取り扱った本?ライプニッツかな」

「いいえ、そんな有名な作者ではなかったの。それに思いせなかったとしても、作者はあまり重要じゃない。違う?」

「どうだろう。スティーブン・キングの例があるから」

「それはフィクション作品の話じゃない」

「たとえフィクションじゃなくても、メタフィジカルな内容の本だとしても、作者の情報は重要じゃないかな」

「あなたはそういう意見を持っているのね」少し目を細めて彼女は言う。その仕草は僕の心をくすぐった。柔らかい筆で優しく愛撫するように。

「君の気に触っただろうか」

「いいえ、そんなことはない。異なる意見を持ち合うことは大事なことよ。あらゆる意味において」

「…あらゆる意味において。なんだかいささか抽象的なことばかり言っているような気がする」

「そうかしら」彼女は軽く首を傾いで答える。その動きに合わせて、端正に切りそろえられた黒い髪が揺れる。鉢に植えられたヒマラヤヤシのように。

「もう少し軽妙な話をしない?」

「たとえば?」

「君はスタンスミスの靴がお気に入りなのかな?この間もその靴を履いていた」

「ああ、これ。特別ってわけでもないけれど、決められた靴を履かなければいけない場合を除けば、大抵この靴を履いているわ。手入れも時々している」

 確かにその白い靴は近くで見ても、汚れている様子はなかった。革の劣化や繊維に染み込んだ黒ずみはあるものの、総体として綺麗に手入れされた靴だった。

「白い靴をどれだけ綺麗に維持できるかって面白いと思わない?もちろんどうしようもなく蓄積されていく汚れはあるけれど、それもわたしと共に歩んできたもの。どうしても取れないものを無理に取ろうとはしないわ。それにこの靴を箱入り娘のように扱っているわけではないし。田んぼの泥の中に突っ込んだり、オーストラリアの砂漠を歩いたりもした。その後は人前で履ける状態に戻すのに、だいぶ時間をかけたけれど」

「ずいぶん大事にしている靴なんだね」

 そう感想を僕が述べると、彼女は笑みを浮かべて頷いた。その笑みはどこまでも完璧な笑みだった。強く僕の内部を揺さぶり、深く情景を刻んだ。

僕たちの間の会話が途切れることはなかった。次々と話題が生み出され、波を縫って泳ぐイルカのように会話ははずんだ。その間僕たちは歩き続けた。並木が続く道路を坂を下って歩き、風が吹き抜けていく感覚を肌で味わった。ずいぶんと長いこと、そうして歩いていた。気がつくと二駅ほど僕たちは歩いていた。谷間に沿って敷かれた線路は高架になり、大学や病院が並んだ地区から雑多なオフィス街へと景色は変わっていた。だけど疲れを感じることはなかった。まったくと言っていいほどに。

少し喉の乾きを覚えたので、どこかに立ち寄らないかと提案する。

「この先にいいところを知っているの」彼女がそう答える。そういって彼女は大通りから道を逸れて、路地の方へ進んでいく。車一台が通れるほどの片道通行の道が入り組んだ地区だった。ここらへんを訪れたことはない。中小規模の雑居ビルが立ち並び、テナントが埋められたところもあれば、新たなに建設が進んでいるビルもある。ところどこころに看板や広告が出されていることを除いて、何かしらの主張あるいは示唆は存在しない。もちろんそんなものはじめから存在しないほうがいいのだけれど。いずれにせよ、その内部で何が行われているのかは、外からひと目見ただけではわからないように厳密に隠されている。何かしらの商売が行われ、何かしらのソフトウェアが作成され、あらゆる思惑が渦巻いている。だけどそんなことは外を歩いている僕たちにわかるわけもない。

 こんなことが以前にもあったような気がする。誰かに導かれ、どこへ進んでいるのか知らされないまま進んでいく。だけどそのときの感覚と、いま抱いている感覚はだいぶ異なるものだ。そのときはどこか居心地に悪さが通底していたけれど、いまはそんなものはない。むしろどこへ連れて行かれるのか心待ちにしている自分がいる。そのことに気がついて僕は驚くともに拍子抜けた感情も覚える。なんて単純なんだ。

「ものごとはもっと単純であるべきじゃない?」

「え?」僕は自分の耳を疑っって聞き返す。だけど彼女は前を少し振り返っただけで、会話には応答しない。空中に放り出された僕の情けない声だけがこだまする。雑なエコーがかかったかのように。

 いまの言葉は彼女が言ったのだろうか?

 僕はいまひとつ確信が持てない。もう一度聞き返す気も起き上がらない。彼女になんて思われるかわからない。まさか。そんなはずはあるまい。湧き上がった考えをなんとか隅の方へ追いやる。そして初めからそんなものは存在しなかったかのように振る舞う。誰が見ているわけでもないのに?いや彼女が見ている。すぐそばに彼女がいる。下手な行動を見せるべきではない。

「ここよ」

 彼女が一つの建物の前で止まる。高架下に立ち並ぶ店の一つだった。表には目立ったしるしもなく、入口の先は照明が落とされており、中の様子をうかがい知ることはここからはできない。彼女は見知った様子で入っていく。

 暗い照明をベースとした店内には、僕たちの他に客はいなかった。カウンターの奥にいる店員が声を掛けてくる。二人で壁にかけられたメニューを覗く。エールビールが複数用意されており、あまり詳しくない僕には違いがよくわからなかった。一番左上にある目立ったものを二つ注文する。

 店内を見渡すと、カウンターの隣にはサーバーが複数台置かれており、その奥にはいくつかのウイスキーが置かれていた。BGMはかかっていない。時折電車が通り過ぎる音が遠くに聞こえる。すぐ真上を走っているはずなのに、それはどこか遠い海鳴りのように響いて、予感さえ感じさえないほどだった。

「こんな早くから飲んでいることについて、どうかと思う?」

 あたりを見回していた僕は彼女に視線を戻して、そして首を横に振る。

「いいや、まったく思わないよ。むしろ健全な発想じゃないか」

 彼女は鈴を鳴らすような声で笑う。それはとても耳あたりがよかった。

「あまりビールには詳しくなくて…」

「わたしも。好きでもないし。でもこういうときはなぜかビールが飲みたくなるの」

 グラスが洗われ、ホワイトエールの淡く濁った液体が順番に注がれる。溢れ出した泡は丁寧にカットされ、グラスの縁でゆらいでいる。差し出されたグラスをもって、外のテラスへと向かう。太陽がビルの合間からのぞき、風が撫でるように通り過ぎていった。時間はゆっくりと進んでいる。ふと気がつくとそのことを見失いそうになるが、忘れていてもとくに問題は持ち上がらなかった。橋の上を多くの人が行き交っている。彼らとは時間の流れ方が隔絶されているようだった。そんなことを思いながら少しだけ液体を口に含む。ほのかな苦味が口の中に広がる。熱い余韻とともに喉の奥を流れすぎていく。

 軽くグラスがぶつかる音が響く。中に注がれた液体はそれに合わせてゆらゆらと揺れる。僕はその様子をそれとなく眺めていた。頭の中から余計なものが抜け出ていく感覚があった。何が有用で、また何がそうではない余計なものなのか、どのような過程で便宜的な取捨選択が行われているのかわからないけれど、広げた掌から砂がこぼれ落ちていくように、次々と頭のなかが空っぽになっていった。その感覚もじっくりと味わう。

 無意識の領域、あるいは意識の淵と言えるものの外側の範疇、そこにすっぽりと陥っていった。景色はどうなるのだろうか。物事は順調に進行している。だがそれははたして本当のことだろうか。その裏に存在するコード、一見綻びはないように見えるが、それは果たして。

 風に草が揺さぶられている。テラス席から遠くに見える、名前もわからない植物。同じような軌道を描き、スペクトラム的に移換している。どこからどこへ?

「どうしたの?」不意に彼女が尋ねてきた。どんな表情を僕は浮かべていたのだろうか。「心ここにあらずって感じだった」

「何でもない。考え事をしていただけだよ」

「ふーん、どんなこと?」

「本当に大したことじゃないんだ。でもなんだか不思議な感覚に陥っていて…」

「不思議な感覚。どんな感覚なの?」

「何て言えばいいのかな。現実の僕と乖離する感覚というか、ある種の浮遊感というかそんなものを感じていたんだ」

「なんだか砂漠の情景みたい」

「砂漠の情景?なんだろうそれは」

「想像してみて。一面砂に覆われた場所に一人で立っていて、辺りには人はもちろん、何かしらの生命存在も見当たらない。太陽と砂だけが見えている。乾いた風が吹いて、あなたの心を揺さぶる。そのときあなたが感じているのは孤独かしら、あるいは高揚感かしら」

 僕は少し時間を掛けて、彼女が述べた光景を想像してみる。

「どちらとも言えないな。でも君といたらきっと楽しめると思う」

「歯が浮くような科白がうまいのね」口ではそういうものの、まんざらでもないような表情を浮かべていた。そしてグラスを傾ける。「…ここではない現実のどこか」

 そうここではない現実のどこか。主体と客体の不可逆的な融合。

 大音量で音楽が流されていた。頭を震わして、地面を揺さぶるほどの音楽が。実際にテーブルの上に置かれていたグラスは、カタカタと揺れていた。そのたびにグラスにひっそりとついた水滴が、底に向けて流れ落ちていた。フロア全体は照明は落とされ、その中を光線が縦横無尽に行き交い、人々の頭を照らし、めまぐるしく視界は回転していた。ゆったりしたワルツのように舞い、ときおり交差したり重なったりして、眼下の存在を照らし出していた。

狭いフロアにひしめくように入った彼らは、思い思いのリズムで揺れ、手を頭上に高く上げている者も、横並びになったカウンターのスツールに座って、グラスを傾けている者もいた。通り抜けるのが難しいほど人で込み入った中央では、ひときわ眩しい照明が当たり、めまぐるしく色彩が変化した。いや色彩だけではない。ここに漂うあらゆるものが刹那的に変化して、留まるところを知らない。食らいつかなければ、飲み込まれてしまいそうなほどだった。

フロア全体を揺さぶるほどの音楽が鳴り響いている。会話すら困難なほどで、人々の顔と顔は可能な限りまで接近していた。口づけを交わすものもいた。でも誰もそのことに注意を向けることはしない。当然かのごとく振る舞い、あくまで自然法則に則った行為かのようにもてなされた。人の群れが揺れる。右に左に、それは大洋というよりも、狭く閉ざされた入江に打ち寄せる波のように激しかった。

アルコールを体内に摂り入れていなければ、すぐに辟易とした気分に陥っていただろう。だけど、次々に流し込まれる液体によって気分は非自然的に持ち上げられ、嫌悪感を伴う高揚をもたらせた。ごく一時的なものに過ぎない。体内から排出されてしまえば、あとに残るのは倦怠感だけだ。それをわかっているにもかかわらず、次々と蓋は開けられていく。小気味いい音を立てて。もちろんそんな繊細な音はかき消されてしまうのだが。ひっきりなしに稼働するサーバーから液体が途切れることはない。たとえあったとしてもそれこそ刹那的なもので、すぐに代替物に代えられる。コマならいくらでもある。かまわない。

フロアの一角に設置されたソファ席に座り、高い位置から群衆の動きを見つめている彼らの目には何が写っているのだろう。淡い色彩が浮かび、縦横無尽に行き交う照明が反射し ているその瞳には、外部から覗き見て窺い知れるものはほとんどない。虚無的といってもいいほどだ。ときおりグラスの中身を口に運び、ソファに侍らせた相手の肩に手を回す。だけどそこには純粋な欲というものは見られず、表層的でありつつも根源的な、ある種の二律背反的なものを抱えていた。それは当の本人にしかわからない。いや、おそらくは本人でさえ、感情の表出先を知らず、どのようにして発現させればいいのかわかっていないのだろう。だからこその瞳の淀みなのだろう。いくら照明のエフェクトがかかったところで打ち消すことはできない。

途切れることなく音楽が鳴り続ける。曲と曲の切れ目は巧妙に隠され、人々を一定のラインに保ち続ける。そのラインを下回ってはいけない。何が起こるかわからない。常に鼓動を刻むのだ。動き続けろ。秘匿されたものを見られてもいけない。巧妙に秘匿されたその瞬間には、耐え難い空白が存在している。それを隠すため、あってはいけない禁忌として、人々の耳に届かないように細工がされている。だがそれはいったいなんのため?使用価値、物理的効用、あるいは相対的剰余価値なのか。そんなものではない。一定以上の欲を保ち続けさせるためだ。それ以外のなんでもない。だが、それにどれだけのものが費やされているのだろう。この空間を維持するために。日が昇ってくれば、あらかたのものは霧消してしまう。あとには何も残さずに。いや、目を背けたくなるような残滓はあるだろう。彼らが決して目を向けないもの。そこに何が存在している?それは視認できるものなのだろうか。いや、そうした存在論的議論を交わしたいわけではない。もっと観念的な、複雑で耐え難い衝動を惹起するもの。その片鱗だけがここに垣間見えている。人々はそれを求めている。だが恒久的に得ることは決してできない。あくまでそれは刹那的な快楽なのだ。ごく細かな一切れにしか生き存えることのできない、繊細で儚いもの。なんて空間に不似合いな言葉だろう。こうしている間にも曲は変わり、新たな頁が開かれている。夜はまだ長い。永遠に続くと思われる。

「どうしてこんなものしか置いていないんだ!」男が耳元でボーイに向かって叫ぶ。

「すみません、代わりにこちらはいかがでしょうか」ボーイは口だけを動かしてそう言う。周りには仕草と動きだけで伝わるが、男には伝わらない。

「え?!」男が野卑な声を上げる。ずいぶんとアルコールを飲んでいるようだ。顔はこの暗がりの中でも火照っていることがわかる。呂律もいくぶん怪しくなっている。だが男自身はそのことに気がついていない。

「代わりにこちらはいかがでしょうか」ボーイが口だけでもう一度繰り返す。

 差し出されたグラスを男が手に取る。不服そうな表情を浮かべている。彼はいったい何を求めていたのだろう。少なくとも、彼が求めているものはここにはなく、妥協を大人しく受け入れることしかないことはわかる。舌打ちでも聞こえてきそうな表情だった。実際、聞こえなかっただけで、彼はしていたのかもしれない。男はグラスを手に持って、人混みのなかへ消えていく。次の客はもうボーイに声を掛けている。

 照明が目まぐるしく変化する。徐々に次の色へ移るのではなく、領域を飛び跳ねるかのように変化し、制御を失ったマシンの印象を抱かせる。軸から軸への超越。無秩序を演出した秩序。その中で人々は狂ったように揺れる。呼気が上がる。床は踏み鳴らされる。シガレットの煙が吹き上げられる。線で描いたようにたなびいて上に昇っていき、暗く染められた天井の付近で消える。誰もそんな光景には目を向けない。無機的なものの神秘的活動。それらは到底言語化できるものではない。メタフィジカルな領域における活動。ものごとの裏側に通底している暗黙のコード。

また曲が変わる。八十年代にヒットしたソウルがリミックスされたものが流れ始める。オリジナルとはまた異なる趣があるものの、やはりオリジナルには及ばない。それでも波はそれに合わせて揺れる。どこまでも調和を求めて。

調和?こんなところに調和を求めているのか?確かにある種の一体感は認められるが、どこまでも即物的なものだ。あるいは表象といっていもいいかもしれない。それらが人々の頭上を漂っているだけだ。匂いのようなもの。様々な要素が入り混じって、一つの匂いになっており、個別具体的なものに還元することは難しい。だがここに確実に存在し、現に彼らを操っている。彼らは次々と飲み干し、狂ったように踊る。刹那的な快楽を求めて。

そこに二人の男女がいたところで、誰も気にも止めないだろう。どこにでもある風景だ。意識するまでもない。彼らもまた、ここを訪れ、同じように時を過ごす。この時間がさらに持続すればいい、と彼らは感じていたかもしれない。あるいはこの先に待ち受ける快楽の予兆を互いに認め、それに備えていたのかもしれない。意識的にせよ、無意識のうちにせよ。だけど、それはこの場にいる全員が、割合の如何を問わず感じていたことであるから、別にどうということもない。あえて書き連ねるまでもない。コードに則っているだけだ。

瞳と瞳がぶつかる。まるでそこからなにかが始まるかのように。生命の萌芽が起こり、養分を無性に求めていた。互いの内部に存在する養分を。それらは彼ら自身で供給できるものではなかった。互いに交配する必要があり、媒介をもって供給がなされていた。肌と肌は触れ合い、ときおり口づけが交わされた。額には汗が滲み、照明を反射した黒い艷やかな前髪が張り付いていた。その様子は男の側も似たようなものだった。慣れない様子で身体を左右に揺すりながら、思い出したときにグラスを口に近づけていた。中に入った液体は白く濁っていた。

「空っぽじゃない。なにか新しいものを持ってきたら?」

 男は無言でうなずき、離れていった。その足取りはどことなく覚束なかった。視界の済から外れると、意識を空中に戻す。それはとくにどこか特定のものに向けられたものではなかった。潮流に合わせて揺れ動き、ステップを踏んだ。その合間を縫うようにして、両手を高く掲げながら進む長髪の男がいた。独自のリズムを刻み、我が物顔であちらこちらへ移動する。なぜかその様子が目に飛び込んできた。一種の啓示のように。彼はなにをもたらしているのだろう。

男が新しいグラスを手に持って戻って来る。今度は泡がよく立ったビールが入っていた。男が口にグラスを近づける。一口だけ口に含んで、喉を下す。元の位置に戻したグラスをすかさず手に取って自身の口に近づけて、中身を傾ける。男はその様子を朧気な表情で見つめていた。グラスを男の手に戻して、口角を絶妙な角度で持ち上げる。

「この曲懐かしいわね」身体を揺すりながら言う。

「懐かしいって、この曲が発表されたとき、僕たちは生まれていないだろう」

「いいじゃない、そういう細かいことは。子供の頃よく聴いていたの」

「この曲を?」

「そう、これのオリジナルを」

 そういって、意識を身体に戻す。いや、やはりそれはなにか特定のものに向けられたものではなかった。二人は踊る。長い夜の一幕。この時間は永遠には続かない。あくまでごく一時的なものに過ぎず、また別の時間に取って代わられる。だが彼らの記憶の片隅あるいは細胞の断片には、常に留まり続けるだろう。この瞬間のことについて。もちろんそんなこと彼らは意識していない。歯牙にも掛けていない。だけど、定められたことであるのだ。コードによって。

曲がまた変わる。今夜何度目のことだろう。長髪の男は相変わらずフロアを徘徊している。その時々にステップを微妙に変化させながら、ぐるぐるとラウンドしている。手には何も持っていない。どれくらいの量を飲んだのだろう。頬は紅潮し、呼気は荒い。スマートとは言う難い。だけどどこかフォービズム的な彼の雰囲気は、周囲の人々の視界を奪う。なぜか彼に目をやってしまうのだ。特段顔が整っているわけではない。身長が抜群に高いというわけでもない。平凡といってもいいほどだ。特筆すべきなのは動きに合わせて揺れる長髪と、張り付いたように浮かんだ微笑みだけだ。一定のリズムと表情を浮かべたまま彼はラウンドし続ける。糸は見えない。自律的な運動なのだろう。誰も彼に触れることはできない。空を駆ける星屑のように。

「なんだか疲れてきたよ」男が耳元で話しかける。

「何を言っているのよ。これからだっていうのに」

「もうずいぶん長い間ここにいるじゃないか」

 そう言われて時計を確認しようとするも、どこにも時計は見当たらない。気怠そうにポケットからスマホを取り出して、画面をつける。

「そうね、電車はもうないわね」

「そんなこと、ここに入った時点でわかりきっていたことじゃないか」呆れたように男が言う。だけどそこには咎めるような空気はない。互いの合意の下で起こったことだ。

「もう少しだけいい?」身体を揺らしながら言う。

「構わないけど、僕は少し休んでいるよ」

 男はそう言って、フロアの隅に移動して、一つの柱に寄り掛かる。このまま眠ってしまいたい気分だったが、体内に蓄積されたアルコールと、周囲から分泌されているアドレナリンによってそれは叶いそうもなかった。グラスを手に取って、口に近づけ、彼女の方を眺める。

 彼女はしなやかに動いていた。滑らかな機械式人形を思わせた。黒髪は照明によってきらびやかに照り、動きに合わせてそよ風に吹かれた煙のようにたなびいた。美しかった。男の視界の中心で華やぐように舞っていた。もう他のものなど男には写っていない。ただ一心に彼女のことを見つめていた。時間が止まっていた。周囲の一切の動きが止まっていた。その中でスローモーションの映像のように彼女が舞う。そこだけに光が当たっていた。光に照らされて空中の埃がきらびやかに振った。

 美しい

 改めて男はそう思った。その思いが届いたのかどうかはわからないが、彼女はふと踊るのをやめ、辺りを見回して男が寄り掛かっている柱の方へ歩いてきた。

「あなたがいなければ面白くないわ」そう言って男が差し出したグラスに口をつける。額にはじんわりと汗が滲んでいた。

「そういってくれて嬉しいよ。だけど僕は少し酔ってきた」

「あなた普段はほとんど酔わないじゃない」

「そうだけど、なんだか人に酔ったんだ。ここは人が多すぎる」

 彼女は辺りを見回す。そこらじゅうで人々が密集して漂っていた。「出る?」

「いいや、君が満足するまではここで眺めているよ。少しすれば落ち着くかもしれないし」

「そう言われても…はいそうですか、と言って好き勝手やるほど図太くはないの」

 男は驚いた表情を浮かべる。「意外だよ」

 彼女は男の脇腹を軽く小突く。「いいの?そんなこと言って?わたしはまだまだいけるのよ」

「ふふ、元気だね」

「あなた、わたしより若いでしょう」

「年齢の問題ではない気がする。とにかく僕のことはいいから。ここで君の様子を見ているだけでも、楽しんでいるから」

「…どうだった?わたし」

「どうって?」

「なんでもない」

 そう言って、彼女はグラスの中身を傾ける。残りは半分ほどになっていた。繊細そうな泡はまだグラスの中で立っている。行き場を失った夕暮れ時の雲のように。

「あなたとがいいの」

「僕と?」

「そう言っているでしょ」

「そう言われたら仕方ないね」グラスに残っていた中身を全部飲み干して、脇にあったスタンドテーブルに置く。テーブルからは乾いた音が響いた。手を伸ばすと、彼女がそれを握り返す。暖かく湿っていた。男も指を絡ませて握り返す。二人で手を繋いで、人混みの中へ分け入っていく。

 駆動力を取り戻した、大排気量の自動車のようだった。誰もその速度について来られるものはいない。次々とハイウェイ沿いの街を通過していく。スポットライトが目まぐるしく変化する。その動きにピッタリと付随しているようだった。右に左に揺れ、ときおり軽く飛び跳ねた。そして抱擁を交わした。その最中でも二人は舞い続けた。脚がしなやかに回る。その先端にあるスタンスミスの白いスニーカーは、明かりを反射して神々しく輝いていた。脱神秘化しようとする試みを、ものの見事に跳ね返して光っていた。フロアタイルをしっかりと、だけど軽々しく踏み鳴らし、次の一歩が待ち切れない様子だった。身体よりも意識が先行していた。思うがままに動いた。汗が飛び散る。その様子がしっかりと映っていた。誰の瞳に?あらゆる瞳に。忘れがたき情景として深く刻み込んでいった。もちろんそんなこと二人が知っていたわけもない。彼らはその瞬間に釘付けだった。あるいはお互いの存在に対して。誰にも止められるものはいない。加速度は増しているはずなのに、エントロピーは増大しない。永久機関なのだろうか。ないしは何者かが宿っていたのか。超越論的な何かが。そんな感覚さえ覚えさせた。それほど二人は夢中だった。

 時間は流れるように過ぎていった。だけどここには時計なんて掛けられてないし、そもそも誰もそんなこと気にも止めていない。普通の流れとは隔絶されていた。ここにはまったく異なるルートが流れていた。その流れは緩慢なものだったが、その中に猛烈な渦を巻いている箇所もあった。そこに囚われてしまって抜け出せない恐れは、脳裏の片隅にもあったのだろうか。たとえあったとしても、それは言語化されていない。深淵で眠っていて表層に浮かんでくることはないのだろう。だが、こうしている間にも不可逆的に時間は進行していた。時折速度を緩めたり、または急速に加速したりを繰り返しながら。ここにいるすべての存在を載せて。

暗闇が横たわる街の中で、ここは煌々と明かりが灯されていた。そうした場所はこの街には何箇所か点在しており、ここはその中の一つだった。いつまでも眠ることはない。正確には、人々が一般に寝ている時間に覚醒しつづけ、その後人知れず眠りについている。一切の寝息を立てずに、密やかに。だからいつまでも眠ることはない、という感覚を与え得る。どんなものにも眠りは必要だ。ここにいる人も例外ではない。時間を削りつつ、一時的な覚醒を続けたあとには、深い眠りを必要としている。真っ黒な泥のような眠りを。とても触り心地がよく、ほのかに温かい泥にくるまれて、それこそ時間を忘れて眠りに落ちる。それを前提とした駆動なのだ。二人の夜はまだ続く。

 あるいはまたこんな現実。スピードを一定に保ったまま道路を進む。日が高く昇って、フロントガラスの向こうから車内を照らしている。流れに沿って車を進める。午前中の長閑な時間を数台の車が流れている。灯りは消え、門番のように一定の間隔で佇んだ街灯を、次々と追い越していく。彼らはこの先までずっと続いている。緩やかなカーブを描いて。

時折、信号が赤に変わってそれに合わせてブレーキをゆっくりと踏み込む。周囲の車のブレーキランプが灯される。完全に停止した車内の中で、僕はハンドルを握り続ける。あまり力を込めずに、添えるようにして。目的地は特に定まっているわけではない。だけどこの道路はどこかへと続いており、その先も途切れることはない。おそらくは永遠に。辺りをそぞろに見回すと、歩道を多くの人が行き交っているのが見える。思い思いの場所に向かっている。交錯することなく、彼らは自身の軸を進む。何者かによって定められているかのように。  

街路樹のクスノキは、ようやく芽吹き初めたころだ。清涼とした衣装を纏い始めている。長かった時期は終わった。これからは思うがままに伸びていく。その沈黙の気概は、下を歩く人々にも影響を及ぼしているようだった。分厚いコートから開放され、服装は晴れやかな色彩を帯びていた。足取りもこころなしか軽やかだった。

信号が青に代わり、先の方から順番にブレーキランプが消え、気怠そうな挙動と共に動き出す。急ぐことはない。頭のなかでそうつぶやく。そう、別に時間に追われているわけではない。ガソリンメーターのディスプレイは満たんに近い位置を示している。時計の針も頂点にはまだ昇っていない。前の車と一定の距離を保ち、速度も一定になるように細やかな調整をしながら、車線の若干の変遷に沿ってステアリングを緩やかに操作する。それはほとんど無意識化で行われてた仕草だった。あえて脳裏に浮かぶまでもない。身体に一連の仕草が染み付いて、不可視的なトリガーによって発揮されていた。

路面の細かな振動が車内に伝わる。エアーサスペンションは搭載していないから、直截的な振動が伝わる。意識を研ぎ澄ませるとその振動にはステアリングにも伝わっていた。だけどごく微細なその振動は、運転には支障を及ばさない。肘掛けに身体を預け、全身のちからを緩め、ステアリングに撫でるように手を添える。スピードはほとんど出ていない。都市部の二車線道路を平均的な速度で進んでいた。

助手席には彼女が座っていた。前方をそれとなく見つめている。その瞳には過ぎ去っていくものが精細に映っていた。時折、瞬きをして朧気な瞼が降ろされる、それ以外の動作はとくに見られなかった。二人の間には言語的な会話は、いまのところなかったが、互いの間を漂っている空気に不和のようなものは感じられなかった。ほんの少しでも。もちろんずっと会話が執り行われなかったわけではない。一連の会話があり、その時々で笑いあった。ただ、いまこの瞬間に会話がなかっただけだ。いやそもそも必要とされていなかった。僕は運転に意識を向け、彼女は流れ行く景色に意識の焦点を向けていた。そしてその一部分はお互いに向けられていた。何をするでもない。ただ座っているだけだ。でもそれも愛おしい瞬間の一コマだった。そういまにして思う。

家を出たのはわりと早い時間だった。二人とも朝は得意としていた。早い時間に寝て、早い時間に起きることを習慣としていた。その日も僕は自然に目が醒め、一通りのことを済ませてから車に乗り込んだ。詳しく聴いてはいないけれど、おそらく彼女も同様だろう。出会ったときには睡眠の残り香は、もうどこかへ霧消していた。迎えに行ったときの彼女の表情は、晴れやかだった。

そして一通りの会話が行われた。

「今日はどこへ行くの?」

「特に決めていないんだ。ただなんとなく海へ行きたいとは思うけれど」

「いいじゃない。どこの海?」

 僕は少し考える。「あまり人がいないところがいいな」

「この時期だったらどこも空いているじゃない?まだ海水浴というには早いし」

「一ついいところがあるんだけど、そこへ向かっていい?」

「いいよ」

 目的地を決めるという、いささか褻的な要素が強い会話かもしれないし、文字に起こすほどのものではないかもしれない。だけど、僕の頭の中にはそうした些細なやり取りが、異常なほど鮮明に思い起こされるときがあった。この会話もそんなものの一部だった。そこへ向かうという目的地はあったものの、直線的に向かったわけではない。途中途中で目についた場所に寄ったり、興味深い標識を目にして道を逸れることもあった。そうしているうちに当初の目的地のことは忘れかけていた。

 車内にはジミー・スミスのアルバムが流れている。以前は彼女に気を遣って流行りのものを流そうとしていた。それでも俗世的なものとはいくぶん掛け離れており、あくまで僕の中で流行っていると感じているものだったが。そんな曲を流していても、なんだか物足りない気がした。どう言えばいいのだろう。メロディーラインが空疎に抜けていくような感覚。浮ついた空気だけが漂うような感じ。流行りの曲になぜか僕はそうした印象を抱いていた。

その中にはジミー・スミスは属していない。いくら僕でも流行りに乗った若者がジミー・スミスを聴くとは思っていない。ニッチな領域だろう。でもそのようなロングテールのか細い部分が僕は好きだった。いつごろからか、流行り物の中にそのようなものを少しずつ混ぜるようにしていったら、彼女は自然に受け入れてくれた。むしろ僕の思いに共感を抱いてくれているようだった。いまでは臆することなく僕は流している。

 軽妙なオルガンソロが車内に響く。ハイテンポのドラムとベースの上をリズミカルに、そして縦横無尽に音階を行き交い、聴くものを圧倒し、曲の中の世界に引きずり込むような演奏だった。何度聴いても心が踊る。そのテンポに合わせて彼女は少し指を動かしているのが見えた。

順調に車は流れている。都心部のため赤信号に引っかかることは多いものの、通勤ラッシュ時のような閉塞感はない。そう車がひしめいてどうにも身動きが取れないような感じ。そんなものとは無縁だった。穏やかに流れ、僕たちはそれに乗って信号から信号へと駆けていく。カーブに沿ってステアリングをわずかに操作する以外の動きは見られなかった。動いているはずなのに、停滞しているような感覚を覚えた。あるいはトリップとでも言うべきか。なんとも奇妙な感覚だった。だけど、決して気味が悪いものではなく、むしろどこか心地よさを感じていた。陽光がきらめいてフロントガラスを照らす。一定の駆動音を保ったエンジン音が前方からかすかに響く。スピーカーからはジミー・スミスが流れている。そして隣には彼女が座っている。他に求めるものは特に見当たらなかった。

やがて首都高の入口につき、高架へ上がるための勾配を、アクセルを踏み込んで登る。レスポンスは上々で、すぐに小気味よく吹き上がる音が聞こえた。ゲートをくぐり抜け、本線に合流する。流れている車はまばらだった。短い車線の中を速やかにスピードを上げ、右側の車線に入る。ビルとビルの合間を波打つように巡る道路を、前方の一点をそれとなく見つめ走り抜ける。一般道よりも急なカーブを繰り返し、そのたびにステアリングを大きく傾ける。それに合わせてアクセルの操作も、さきほどよりもせわしなくなる。だけどそれは必要最低限に留め、余分な仕草は伴わないようにした。

 太陽がビルの影に入っては、また現れてを繰り返し、そのたびに車内に射す光も変化する。サンバイザーをおろして、その中に入っていたサングラスを取り出す。淡い緑がかかったサングラスだ。片方の手をステアリングから話して、もう片方の手でサングラスを開いて、顔にかける。道路は合流と分離を繰り返して、そして勾配を上がったり下がったりして都内を巡っていく。時折、道路の継ぎ目を越える振動と音が車内に伝わる。一定の間隔で伝わるそれらは、僕の意識をここではないどこか遠い場所へいざなった。遠くで響く海鳴り、あるいは波打つ海原に漂う大型の漁船に乗っているような。そして僕らは先へと進んでいった。

 首都高から接続された高速道路を一時間ほど進み、やがて出口の看板を見つけ、高速道路を降りる。ガソリンメーターは一目盛りほど減っていた。ずいぶんと長いこと訪れていない場所だった。出口を進んで最初の景色を見たときに、その時の記憶が朧気に蘇った。いささか不明瞭な記憶だった。時間の浸食によるものか、ないしは僕自身があえてそのようにしたのか、それは定かではない。だけど進む方向だけは身体が覚えており、迷うことなく進んでいく。片道一車線で道幅も狭い。速度を緩め、うらぶれた建物が並ぶその道を進む。活気があるとはいえない場所だった。都市開発から取り残され、だからといって何かしらの観光資源があるわけでもない。人口は逓減しており、いずれは隣接する自治体と合併されるのかもしれない。だが、そうした場所にこそ残されている趣は確実に存在していた。僕はそうしたものが好きだった。似たような側面ばかり増殖していく場所とは違う。

 彼女はぐっすりと寝入っていた。頭を窓にもたれかけ、顔には前髪がしなだれていた。耳を研ぎ澄ませるとかすかに寝息が聞こえる。とても規則的なその寝息は、僕を微笑ましい気持ちにさせた。髪に隠された顔を僕は横目に入れて、少し大きな息を吐いた。もし僕が煙草を吸うようだったら、サイドウィンドウをおろして口に加えていたのかもしれないけれど、僕はいままで一度も吸ったことがなかった。だからその代わりというわけではないが、ドリンクホルダーに入れたボトルガムを開けて、中から一つ取り出して口に入れる。ミントの深い匂いが口に中に広がる。眠気を感じていたわけではない。ただ、口の中になにかを入れておきたかった。

 信号で止まると、ステアリングから手を離して膝の上に置き、そっと彼女の横顔を眺める。首は斜めに傾いでもたれかかっている。呼吸に合わせて小ぶりな胸がかすかに上下していた。すらりとした脚は完全に弛緩しているようだった。そっと手を伸ばして彼女の右手に、自分の手を重ねる。彼女はすっかり寝入っていて何も反応を示さない。重ねたまま、彼女の温もりを感じる。絹のような滑らかな手をしていた。陶器のように白く透き通るような色をしている。信号が変わり、左手をそのままにして、右手でそっとステアリングを握り、ゆっくりとアクセルを踏み込む。

 総体としてリラックスして運転していた。すれ違う車の数はまばらで、時折思い出したかのように、ゆったりとした速度ですれ違う。信号も少なく、直線と緩やかなカーブが続く。二階建ての戸建住宅が続いている。家々の隙間から遠くには小高い山が聳えていた。青々とした山で、複雑な稜線を描いていた。視線を少し移して、その模様を目に留める。

 細切れのように浮かんだ雲が、海風にのって流れていった。とても高い位置に浮かんでいた。それ以外にこれといった示唆は見られなかった。もしかすると数羽の鳥が横切っていたのかもしれないが、僕の目には映らなかった。道路に沿って立ち並んだ電柱には、黒々とした烏が止まっていて、僕らの車が通り過ぎるのをじっくりと見下ろしていた。右から左へと過ぎていった様子は、ごく一瞬だったものの、彼と僕との間には相互疎通が行われた気がした。あくまでそれは僕の主観的意見にしか過ぎないが。

 彼女の手に自分の手を重ねたまま、しばらくの間走った。最初に僕が言った目的地はもう少しだった。海岸線に沿った道路を進み、カーブが複雑な形を描くようになってきた。海沿いにそびえた山を切り抜いた形で掘られたトンネルを何個か過ぎ、そのたびに手動でスイッチをひねった。ぼんやりと柔らかなハロゲンライトが灯る。ほんのわずかな領域が黄色く照らされる。トンネルの内部で一台の大型トラックが向こうから近づいてきた。反響したディーゼル音が大きく響き、僕の鼓膜を震わせた。すれ違う瞬間には車体が震えるように揺れた。

その音の大きさと振動で彼女がそっと目を開く。重たそうな瞼を上げ、ゆっくりと辺りを見回す。深い眠りから徐々に覚醒していく様子は、蛹から孵化する蝶のようだった。その閉ざされていた翅は、たっぷりと時間を掛けて本来の形へと開かれていく。

「ごめん…寝てた」

「もうすぐ着くよ」

 楕円形にくり抜かれたトンネルの出口が見える。そこは明るい白い光で覆われ、その先を見ることはできない。なにかの加減によってぼんやりと光の膜によって覆われてしまっている。少しだけ速度を落として、僕たちはその中に飛び込んでいく。トンネルを抜けたすぐのところに、目的の場所へ続く未舗装の道路があった。なにも目印もなく、知らなければスピードを出したまま通り過ぎてしまうだろう。小気味いい音を出すウインカーを灯して、その砂利が敷き詰められた道へ入る。

 不揃いの砂利で覆われたその道は、十分に速度を落としていても、車体はかなり揺れた。強風に煽られる小型の船舶のように。底を擦らないよう慎重に進む。辺りは竹丈の高い草で覆われて、車一台が通るのがやっとの部分が残されている以外は、何も確認することができない。ゆっくりと浸食しようとする名前も知らない草と、砂利と僕たちが乗った車だけだった。その自然と非自然の対立の構図は、僕を少しだけ落ち着かない気持ちにさせた。なぜだろう。そこまでありありとした自然の様子に慣れていないからだろうか。

 やがて車が止められそうなスペースが広がっており、僕はそこの端っこに後ろ向きで車を停めた。イグニッションキーを回すと、急速にしぼんでいく音が響いた。ドアロックを解除して外に脚を踏み出す。身体を上に伸ばし、内部に新鮮な空気を取り込む。ほんのりと冷気を帯びた空気だった。そして心做しか潮の香りを含んでいるような気もした。ロックをかけ、車の前を回って彼女の方へ歩く。足元はやはり砂利に覆われて、覚束なかった。大粒のものもあれば、細かく砕かれたものも混じっており、意識をそこへ向けないと足を掬われそうだった。

 彼女の手を取る。じんわりと湿っていた。

「こっちだよ」

 いまきた方向からさらに先の方向を、手を繋いでいない方の手で指す。彼女は黙ったまま頷く。そのまだ覚醒しきっていない、まどろみの淵に佇んだままの瞳は、僕の心をくすぐった。少しだけ力を込めて、繋いだまま草に覆われた先の方へ進む。

 若干の登り坂が続いており、足元に気をつけながら、そしてあまり早く歩きすぎないようにしながら、僕たちは進んだ。

 そこは高く聳えた崖の上で、原初の姿をそっくりそのまま切り取ったような大海原が広がっていた。陽光に照らされた鋲のような波の一つ一つがきらめき、その中を二つほどの貨物船が悠然と佇んでいた。その光景はどこまでも広がっているように見えた。もちろんいま僕たちが見ているものは、全体としてのごく一部に過ぎない。だけど、それを思わせないほどに、いま視界に飛び込んできている光景は、どこまでも広々としていた。幼い子どもが、自分の見ている範囲が、この世界のすべてと認識しているように。

 風は吹いていない。不自然なほど穏やかだった。貨物船が動いていなければ、すべてのものごとが精細画のように綺麗に停止しているかのような錯覚を抱くほどだった。もちろん細部をみれば、たとえば今通り過ぎてきた道を覆っていた丈の高い草は、物理法則に従って触れば動くのだろうが、ここにはそうした介入を行うものは存在していなかった。ここにいるのは僕たちだけだった。それは紛れもない事実だった。

 柵の先から見える、遙か先の崖下には、語りかけるようにして波が打ち寄せていた。わずかに白い飛沫を上げるだけで、どこまでも穏やかだった。ずっと続くように見える崖の、どの部分でもそれはおそらくは行われているだろう。崖は僕たちがいる部分を極大値として、背後に続くように左右に、屏風のように聳えていた。そこに描かれているものは、なんとも言えない非人間的なものであった。僕たちの力が及ぶ領域を遥かに超えていた。なんとか理解することはできるものの、再生産することは決してできないだろう。

 高い位置に昇った太陽は、ちぎれちぎれの雲のみが存在する空の真ん中で、堂々としていた。だけどその降り注ぐ陽光は柔らかく、その眼下にあるすべての現存在をふんわりと包んでいた。ぎらぎらと容赦なく刺してくる夏のものとは、また別の側面を見せていた。この季節特有のものだ。

 一筋の風が吹き抜ける。二人の髪を撫でる。手を握りあって、その場にずっと佇んでいた。流れ行くものをただ眺めていた。貨物船はじっくりと移動している。その緩慢な動きは、僕に砂時計を思い起こさせた。昔、部屋の片隅に置かれていた古びた砂時計を。どこで手に入れたのかは覚えていない。気がついたら、窓枠の下に置かれたテーブルに載せられており、気が向いたときに僕はそれをひっくり返していた。徐々に砂が落ちていく過程を、陽だまりの中で眺めているのが好きだった。勉強の合間などに、時間を忘れてそんなことをしていた。ゆっくりと、右から左へと動いていく。ともすると止まっているのではないか、という錯覚を抱かせる。都心部から少し離れた港に停泊するために、速度を落として航行しているのだろう。もう一つの貨物船も、同じような速度で動いていた。この距離から見ると、とても小さく見える。掌に載せられてしまいそうだ。

 背後の山の影から一羽の鳶が、弧を描きながら現れた。遠くから啼き声が響く。静寂の中を切り裂くように響いたその声は、僕の意識の奥底に伝わって、しばらくの間そこに留まっていた。水面に一握りの水滴が滴り落ちる。そこから生まれた波紋は徐々に半径を広げていき、小さな波を立てる。そこに描かれたものを打ち消すように。なにがあったのかは、いまとなっては確認することはできない。もうすでに失われてしまったものだ。取り戻すことはできない。とはいっても、すでにそれがどういう形をしていたのか、記憶も曖昧になってしまっている。周囲に濃い煙を纏ってしまったように。

 意識が遠のいていく。すべてのものが霞がかっていく。輪郭がぼやけていく。僕がいま見ているものは一体なんなのだろう。どうしても言語化することができない。言葉は生まれそうになったところで、直前で舌の底に帰っていってしまう。もどかしさは感じる。だけど息苦しさは感じない。なんとも言い難い感覚だった。粗い紐で全身を縛り上げられたかのように、身体が動かずその場に硬直していた。硬く拘束された四肢は、まんじりとも動かず、純粋な生命活動である呼吸のみが成り立っていた。その他の活動は、奥深くに眠り込んでしまい、声をかけても一向に反応を示さなかった。そこはかとない疎外感に襲われる。なにからの疎外なのか、いったい僕は何に対して邂逅を拒否されているのか。

 頭の中に妙な浮遊感を抱く。次々と観念が現れては消え、また別のなにかになって現れてくる。僕にはその流れをとめることは到底できない。一度流れ始めたものを、再度同じ位置に戻すことはできない。その奔逸具合はますます加速していく。壊れたメトロノームみたいに、荒々しいリズムを刻んでいる。針を留めている留め金が壊れて、どこかへ飛んでいっていしまいそうな勢いで左右に揺れる。その残像が刻々と残され、新たな針で打ち消される。

 ぼんやりとした輪郭に覆われた太陽が、ゆっくりと海に向かって降りていく。舞台装置に吊るされた糸が、緩められていくように。じわりじわりと下っていく。ふとすると、その変化を見失ってしまいそうなほど緩慢な動きだったものの、そこにはなにかしら深淵なるものが含まれていた。その情景と感覚を、僕は心の見えない箇所に刻み込んでいく。

 その間も僕たちはずっと手を繋いでいた。互いの熱を交換しあっていた。エントロピーは発生していない。滑らかな肌の感触を味わう。それは出来立ての絹のような感触で、ずっと手にしていたい、という気持ちを僕に強く抱かせた。いつまでもその状態で、太陽が海の奥に沈み込んで、その残滓さえ拭い去るまで、僕たちは二人でその場所から眺めていた。

 こうして僕たちはいくつもの現実を巡った。人気のない深夜の高速道路を疾走するように、次々と景色は入れ替わった。それらの一つ一つは、二人の間で共有され、それぞれのメモリーに格納されていった。ぼんやりと灯された街灯の下を、跳ねるような速度で過ぎていく。灯りは暗闇を穏やかに照らし、それぞれでわずかに違う色彩を纏っていた。そうして季節は巡っていく。気温もそれに合わせて上下する。シャツがピッタリと張り付くような季節も、袖の隙間を凍てつくような風が通り過ぎるような季節も、二人の時間を共有した。

 だけど別れは訪れる。それはまったく予期しない出来事だった。彼女は唐突に僕の世界から去っていった。別れも何も言わずに。そんな予兆はどこかにあったのかもしれない。たとえば返信が遅れ気味だったとか、合う回数が徐々に減っていったとか。だけど、彼女はそれなりの理由を常に携えていたし、僕もそれに納得していた。疑う部分はなかった。あるいは僕はあまりにもナイーブだったのかもしれない。

だから彼女からの返信が途絶えた時、僕はいささか戸惑った。何が起こったのかしばらくの間理解できなかった。いや、理解したくなかったのだろう。事実を正面から受け入れようとはしなかった。そうした僕の姿勢に愛想を尽かしたのだろうか。本当のところはわからない。彼女に問いただそうにも、その手段は失われてしまった。深い雪の中に埋もれてしまった。僕の本体と影のそれぞれが、鋭利な鋏で切断されてしまった。僕という主体を失った影は、みるみるうちにしぼんでいき、生気を失っていった。

日をあけて何度か電話をしてみた。だけどそこから伝わってくるのは沈黙のみで、僕の問いかけに対する応えは一向に帰ってこなかった。そのうちに彼女のアイコンは見えなくなっていった。朝起きた時、あるいは仕事が終わったときに通知を確認することも徐々に減っていった。

 朝、太陽の光が刺してくる様子で自然と目が醒める。意識が速やかに浮かび上がってくる。まどろむ感じも、波が引くように去っていった。少しだけ目を擦って、ブラインドを上げる。すでに太陽は高い位置に昇っていた。掛け布団とシーツを軽く整えて、シャワーを浴びに行く。衣服を脱いで、ドアを開けると、なにかが驚いたようにサッと隠れたような気がした。だけどそれは、僕の意識の産物に過ぎないのだろう。気に留めることもなく、ノズルを捻って水を出す。適切な温度になるまで、水を出し続ける。水が床を打ち付ける音は、遠い場所で降る雨を僕に思わせた。これほど近くで鳴っているはずなのに、なぜか遥か遠い場所で起こっている出来事のように思われた。

全身を入念に洗う。頭から始めて徐々に下っていき、また頭に戻る。それを三回繰り返してから、ノズルを元に戻す。ドアを出て、タオルを手にとって、身体についた水滴を拭い取る。水を吸い込んでほんの少しだけ重みを増したタオルを、口を開けた洗濯機の中に放り込む。クローゼットに行き、下着を取り出して身につける。それから白い長袖の薄手のワイシャツと、カーキのスリムタイプのジーパンを、ハンガーと抽斗から取っ手身につける。ワイシャツのボタンを一つ一つかけ違えることなく留め、ズボンのジッパーを上げる。クローゼットの中にある鏡で全身を確認し、洗面所に戻る。

鏡の中の僕としっかりと目が合う。ドライアーの電源を入れ、髪の毛を乾かす。無機的な風が僕の黒い髪をなびかせる。長い時間を掛けて、髪の毛を乾かす。入念に乾かしたつもりではあったものの、まだどこか湿ったような感触がした。でもこれ以上時間を掛けて、どうこうできるものでも思えなかった。

リビングに戻ってソファに腰をかける。いくぶんヘタってきてはいたけれど、まだソファとしての役割を果たしてくれていた。家具屋が並ぶ、細く入り組んだ道を歩いていた時に、偶然目についた店で、奥の方に眠っていたソファをその場で即決で購入したものだった。このソファを自分の家に置きたい、と直感的に感じた。値段はそれなりに張ったものの、払えない金額でもなかった。それになにより当時の僕は、ソファを必要としていた。家に時間を置いて寛げるスペースを欲していた。数日後、配送されたソファの梱包を剥がして、部屋の中央近くにおいた時、僕は大いに満足した。そのことをいまなぜか思い出す。

今日は仕事が休みだった。やり残した仕事も、休日にやろうと思っていたこともない。いわば完全な空白だった。彼女が僕の前から失せてから、そういう日が増えた。何もすることが決まっていない。とりあえずコーヒーを淹れようと、キッチンに向かう。リビングの大きな窓からは、午前中の温い陽光が差し込んでいた。ケトルに適量の水を入れ、コンロに置いて火を付ける。冷凍庫から豆の保存容器を取り出し、スケールに置き重さを計ってミルの中に入れる。豆が完全に砕かれるまで、リビングのソファに座ってミルを回す。ガリガリと大仰な音を立てて、豆が砕かれる。

空白の時間が流れる。ミルの音だけが空虚に響く。予定は特に思いつかない。自然とため息が溢れる。器に満ぱんに入れられた水が溢れ返るように。そこには慣性も表面張力もない。ケトルの中の水が沸騰する音が聞こえる。上に置かれた蓋がカタカタと小刻みに揺れる。キッチンに戻り、コンロの火を消す。ドリッパーを戸棚から取り出し、ペーパーフィルターをセットする。温度を慣らすため、数回沸騰したお湯をドリッパーに入れる。ミルから砕かれた豆を取り出し、ドリッパーに入れ、平らにならす。スケールのタイマーを開始し、時間と水量を厳密に計測しながら、入念にコーヒーを淹れていく。

淹れ終わったコーヒーをマグカップに注ぎ、それを持ってソファに座る。

さてどうしようか

 言葉だけが空白に浮かぶ。無常の静寂に吸い込まれて消えていく。ささやかな空白。晴れやかな空が広がっている。だけど、外に出かけようという気分にはなれなかった。このままソファにずっと座っていたかった。いつまでもそうしているわけにはいかない。だけど、つかの間の休息において、それは責められるべきことではなかった。身体がじっくりと弛緩していく。そのことがはっきりと僕に認められる。

 どんな観念も頭の中に浮かんでこなかった。文字通りの虚空が、そこに存在していた。本当にそんなことはありうるのか?完全な虚空なんて。だけど、当分僕にはそのように思われた。手で丁寧に掬ったとしても、なにも拾い上げることができない。空っぽの掌が広げられるだけだ。もしかするとその指のいくつかは皮が剥けているかもしれない。いずれにせよ、そこから意味を読み取れることはなかった。少なくともいまの僕には。

 耐熱のマグカップの取っ手を手にして、口元まで運ぶ。豊満な匂いがした。火傷しないように気をつけながら、口の中に流し込む。黒い液体の表層には、僕の顔が映っている。やはりそこにも表情と呼べるものは見られなかった。ただゆらゆらと揺すぶられているだけだった。 

なにか音楽を聴く気にもならなかった。たとえ素晴らしい演奏を聴いたとしても、それは僕の内部をただ通り過ぎて、おそらくは何も痕跡を残さなかっただろう。ただの空白を求めていた。もちろんそんなものはないのだろうけれど。耳を澄ませていた。なにかしらの印を拾い取れるかもしれなかったから。そしてそれが彼女からのものであることを、どこかで期待していた。何かしらの避けられない事情があって、彼女は僕の前から姿を消したのかもしれない。

避けられない事情?それはいったいどういう類のものだろうか。あれほど親密な間柄だったのに、なにも告げずに去っていくことを、合理的に説明できる事情とは。僕はそうした根拠を求めていた。それが得られれば、多少なりとも僕自身で納得、あるいは自己弁護ができると思っていたから。もちろん、そうしたものがいささか無味乾燥な、意味をなさないものであることは理解していた。理解はしているのだけれど、どうしても求めずにはいられなかった。僕の気持ちに区切りをつけるために。一切の理由を述べずに去ってしまったから、いまだに多くのものが山積した状態だった。一つ一つの情景がそのままに。埃を被ったまま、その場に乱雑に放置されていた。

どうしたらいいのかわからず、僕はその場に放置して、そのまま時間が経過していた。僕はどうするべきだったのだろう。早急に手をつけて、何らかの処置をするべきだったのだろうか。そうだとしても僕には方法がわからなかった。それに僕はなんとなく、その方向から目を背けていた。意識的にせよそうでないにせよ。結果として放置する形となってしまった。そこだけ時間の経過が停止していた。時々の光景をそのままに保存して。

現実の部分では、当然のことながら時は進んでいた。コーヒーは少しだけ冷めていた。だけど味が損なわれることはなかった。窓の外に見える遠くの道路には、自動車が行き交っている。あまり速度は出さず、ゆったりと流れるように。それは遠い場所での出来事だった。僕の手の届く範囲ではない。意識があちらこちらへ移ろう。一つの場所に留まることを知らない。ある物事から突然、まったく別の物事へと飛躍し、それらの間に関連性は見受けられない。もちろんその動きに僕はついていくことはできない。僕の内部で起こっている出来事であるはずなのに、僕にはまったく手の施しようもなかった。