そしてまた一日が始まる

 瞼に優しく投げかけられる陽の光で僕は覚醒した。じんわりと視界の隅から、照らし出す光だ。ゆっくりと慎重に瞼を開く。触れるとすぐに壊れてしまうものを、箱から取り出すときのように。
 僕はベッドの上で上体を起こし、辺りを見回す。そこは見慣れた風景ではなく、初めて目覚める場所だった。僕の中の軸が少し揺さぶられる。その揺れを抑えるために周囲を確認する。
 徐々にどこで眠っていたのかを思い出していく。断片と断片が接合されていく。時々適切に繋がらない部分があったけれど、それはいまに限ったことではない。時として思いもよらないもの同士が、恣意的に結びつくことだってあり得る。多量のウイスキーを飲んだときなんかは往々にして。
身体を起こしたまま、横を見ると少女はいない。彼女の微かな面影と、それに伴う窪みが残されているだけだ。少し前まで彼女がそこに残っていたであろう証左がそこにある。
 彼女はどこにいったのだろう?
ブラインドの隙間からは陽の光が差し込んでいる。光は僕だけでなく、部屋のある一定の範囲を明るく照らしている。もちろん均等ではなく、明瞭の陰影を描きながら。照らされた部屋の部分は、僕とは違って随分前から覚醒していたようだ。あるいは眠りについてすらいなかったかもしれない。
影は斜めに伸び、時計の針はスムーズに動いている。秒針と共にその影も周回している。二つは均一な動きを正確に保っている。どちらか一方が遅れたり、追い抜いたりすることは決してない。
記憶を繋がらせる作業を速やかに終わらせ、ベッドから脚を出し、立ち上がる。軽く身体を点検していく。かつての肌の張りはいささかの翳りを見せ始めているが、それ以外は特に問題はない。頭痛なんかも確認できない。
軽い空腹を覚え、何か口にするものを探そうと、キッチンスペースに向かおうとすると、そちらから少女がやってきた。
「おはよう。よく眠れた?」
 僕は頷く。彼女はすでに白いワンピースを着ていた。髪も乱れてはおらず、一通りの身支度は既に済ませているようだ。
「いつの間に眠ってしまったんだろう」
 彼女はそれに対してただ軽く首を傾げるだけだった。
「ねえ、お腹空いてない?」
「うん、空いている。ちょうど何かないか探そうとしていた」
「だったらどこかに食べに行かない?」
「いいね。でも少し待ってくれないかな。この格好だから」
 少女は視線を落とし、僕の下着だけ履いた下半身を見つめる。そして軽く頷く。
「待ってる」
 僕はベッドスペースに戻り、ズボンを探す。起きた時は気が付かなかったが、ズボンはベッド脇のサイドテーブルに丁寧に畳まれて置いてあった。誰かからのギフトのように。僕はそれを手に持つ。
 洗面所に行き、照明をつける。設置された窓からは光が差し込んできており、それが鏡に反射して、僕の後ろに鮮明な影を映している。何気なく見つめた鏡の中の自分の顔は、どこか見知らぬものが含まれているような気がした。いつもと何かが違う。それが何によるものかはわからない。ただ角度が違っているだけかもしれない。あるいは育てている植物が、気が付くと随分成長していたような感覚かもしれない。でもそれが悪い兆候とは思えなかった。
 持っていたズボンを床に置き、着ていたTシャツと下着を脱いで、ズボンの上に置く。シャワールームに入り、ノブを捻る。鋭い水が肌の上を跳ね、全身をつたって滴り落ち、排水溝へ飲まれていく。鏡に写った身体の箇所を細かく点検しながら、全身に満遍なく水を当てる。
 シャワーを終え、シャワールームから出て、棚に丁寧に積まれたタオルの中から一つを手に取る。それはとても触り心地が良く、顔に近づけると長年使われてきた木工家具のような匂いがした。どうしてタオルからそんな匂いがするのだろうか、よくわからないけれど、その匂いに包まれながら全身の水滴を拭っていく。
 服を着てシャワールームから出ていくと、少女はつばの広い大きな白い帽子をかぶって待っていた。
「行きましょう」
 アルファロメオに乗って、建物の敷地から出て、道路を昨日きた方向とは反対へ向かう。車は軽やかにエンジンを唸らせ、真っすぐな道を進む。周囲には草原が広がっており、なだらかな丘が彼方にまで広がっていく。その丘のところどころに急峻な屋根を持った建物が点在している。いまも各々の役割に従事しているのか、あるいはずっと昔に放棄されたものなのか、この距離からは判別できない。ときどき地名を表記した看板を過ぎるが、どの地名も耳にしたことのないものばかりで、るびがないと読み方すらわからない。
 穏やかな気温で、風も強くない。太陽はまだ完全には昇りきっておらず、柔らかな陽光を投げかけている。光は何らの遮蔽物に分断されることなく、満遍なく辺り一面にもたらされている。どこまでも地面を覆う草と、たまに何かの象徴のように聳えている木々が、それを享受している。空はどこまでも澄んでいる。
 車を快調に飛ばしていく。別に急いでいるわけではないけれど、行く手には遮るものが何もないから、自然と速度は上がっていく。滑らかな路面から伝わる重奏音と、絶え間なくエンジンから伝わる囁き。それらが僕たちを包み、時折の車体の揺れが優しく働きかける。
 僕たちは何も話さなかった。話すまでもなかった。話したい内容はあったけれど、それを口にしたら、隠された柔らかな思いが空気に触れ、損なわれてしまう気がした。あくまで可能性の話ではあるが、万が一にもそんなことが起こってしまったら、僕は大いに戸惑うだろう。だからただフロントガラスの向こうに広がる世界を見つめ、それらが倦むことなく通り過ぎていくのを眺めていた。それだけでよかった。
 やがて遠くの方に一つの建物が見えてきた。これまで通り過ぎてきた建物と同様に、険しい角度の屋根を持っており、道路の随分遠いところにポツンと見えた。それは深くて、でも鮮やかでもある赤い色の屋根だった。ゆっくりと建物は大きくなっていき、やがて詳細な全貌を視認できる距離にまで至った。
「あそこよ」
 少女に言われるまでもなく、そこが目的地のような気がしていた。他に建物らしきものは何もなく、あったとしても道路からは隔てられた場所にあったから、というのが現実的な理由だが、もっと幻想的な理由を求めるとしたら、確信とまではいかないまでも、そこに何かがあるという無意識の領域からの言伝を受けていた。
 アルファロメオの速度を落とし、丁寧に左に曲がって建物の敷地に入る。未舗装の地面をゆっくりと進み、白い枠線の中に停める。
エンジンを切ると、突如としてどこからか、迫るようにしてある考えがやって来て、僕の頭の中を占領する。おそらくそれは、僕の神経系からやって来たものなのだろうが、僕にそれを止めることはできない。打ち寄せる巨大な津波を前にして、僕はどこまでも無力だった。なだらかな砂浜はたちまちのうちに、濁流に飲み込まれ、その姿を久遠の内に消した。深く深く、あらゆるものを飲み込んで、打ち消していく。
対処法として防波堤を幾つも設置していたが、そんな努力を容易く水泡に帰す勢いで波は進む。軽々と乗り越え、木々は根元から攫われ、並んでいた家々も塵へと砕かれていく。砂の城を壊すかのように。叫喚が轟音の合間から僕の耳に届く。飲み込まれんとする間際の、嗄れるような声だ。救いを求めている。だがどうすることもできない。僕は座席に座ったまま打ちひしがれる。
「…どうしたの?」
 消えそうな声が遠くから聞こえる。いや消えそうなのは僕の意識だった。あらゆる回路が分断され、正常に機能するために必要な装置が、その活動を止めようとしていた。
 濁って渦を巻いた水に溺れている。必死に顔を水面から出そうと、手足を動かすが、言うことを聞かない。たとえ動いたとしても、上昇することは能わなかっただろう。木屑のように弄ばれるしかない。身体中の穴という穴から、水が猛烈な勢いで流れ込み、意識が霞んでいく。
 焦点が合わなくなり、涙が頬を伝い、舌が溢れんばかりに膨らんでいく。心臓が猛烈な勢いで鐘を鳴らしたかと思うと、急速に萎んでいったりして、胸が真ん中から裂けそうになる。
 ぼんやりと霞み、鉛を撃ち込まれたかのように重くなった頭の中を、一つの考えが駆け巡る。初めは片鱗に過ぎなかったが、やがてそれはどんどん膨張していき、他の正常な思考を排斥していく。我こそが正義とばかりに。どこまでも破滅的だった。その拡大を阻止する機能は、とうに失われてしまった。肝心な時にはまったく役に立たない。いや圧倒的過ぎるのだ。その力を前にしては何もすることはできず、ただ耐えて過ぎ去るのを待つしかない。果たしていつになるのか。過ぎることはあるのだろうか。僕にはわからない。ただ一つわかることは、たとえ過ぎ去ったとしても、必ずまたやってくるということだ。
「大丈夫…?」
 とても遠くからその声が聞こえる。幾重もの層が間にあるように、小さくくぐもった声だ。ほんの少しでも揺さぶられると、たちまち消え失せてしまうかのように。でもそれは確実に僕の耳に届いた。
 その声に引き上げるようにして僕は意識を取り戻す。どこまでもゆっくりと。僕は椅子に座ったまま涙を流し続けていた。頬に筋を残し、ズボンに染みを作っていた。どうして泣いているのかわからない。どのようにすれば止まるのかもわからない。次から次へとこぼれていく。僕はそれを見つめるともなく眺めていた。別の誰かが泣いているかのように。
まだ恐怖の面影は重くのしかかり、心臓はとても早いペースで動いていたが、幾分ましになってきた。深く息を吸い込み、新鮮な空気で満たす。ゆっくりと吐き出し、呼吸に意識を向ける。
視界が元に戻り始め、辺りの光景を正常に認識し始めた。少女が僕の顔を覗き込んでいた。その顔には深い表情が刻まれていた。
「大丈夫…?」
 さっきはとても遠くから発せられたと思われた声は、少女の口元から発せられたものだった。いまでは大分クリアに聞こえるし、そこに含まれた感情も図ることができる。
「ああ、大丈夫…」
「本当に?ひどい顔をしているわ」
「たまにこうなることがあるんだ。発作のようなものだよ」
「…苦しそうな表情だった」
「ときどきこうなってどうすることもできなくなってしまうんだ…。操舵権を完全に乗っ取られてしまって、自分では何も手出しできない。成す術もなく自分を何者かに占領されてしまう」そこで一度区切って、大きく息を吸い込む。「いろんな所を回ったし、いろんなことを試したけれど、治ることはなかった。」
「ごめんなさい、何も助けてあげることができなくて」少女は少し息苦しそうに言う。
「いいんだ。気に病むことではないから。僕自身がどうすることもできないんだから、君に手出しできるわけはない」
 どこか彼女を突き放した言い方になってしまったが、他に適切な言い方が浮かばなかった。それによるせいか、あるいは人が意識を喪失しかける様を目の当たりにしたからか、少女は気まずそうにしていた。
 素直に謝って言い方を訂正すればよかったのかもしれないが、ようやく回復した後で、僕にはそんな余裕はなかった。ゆっくりと息を吸って、十分な時間を掛けて吐き出す。二人の間には沈黙が漂い、静かな呼吸音だけが聞こえる。
「もう大丈夫だ」
 僕はそう言って、車のドアに手を掛けて、外に脚を出す。少女は何も言わず、しばらく空中のどこか一点をじっと見つめていたが、やがて気を取り直したかのようにドアに手を掛ける。心地良い風が僕の頬を撫でる。そこには深い慈しみが含まれているような気がした。おそらくそれは、先ほどまで僕が底に陥っていたからだと思う。そんな僕に風が気に掛けてくれている。あるいは一時的に感覚が研ぎ澄まされていたからかもしれない。
 僕は辺りをぐるりと見まわす。建物と何本かのシラカンバの他には、草の海が広がっていた。透き通るような緑の一面の中に、建物とシラカンバと僕と少女が浮かんでいる。異物としてではなく、それらの総体を成す要素の一部として。あくまで一部の含まれるものとして僕たちは存在していた。吹き抜ける風に揺られ、柔らかな太陽に照らされている。僕はまた深く息を吸い込み、ゆっくりと吐く。その行為にはとても重要な意味が含まれているように。けっしてメタファーなんかではなく。
 少女がこちらに歩いてきて、僕の隣に立つ。彼女の髪からは何故か太陽の匂いがした。どのような匂いが太陽のそれなのかは、厳密に定義あるいは言語化することができないけれど、一つのささやかな比喩として適切なものが、太陽だった。うん、あれは太陽の匂いだった。金木犀でもローズマリーでもココナッツでもなく。
 彼女は隣に立って、何かを考えているようだった。きっと幾分シリアスな問題について考えていたのだろう。深刻そうな表情を浮かべていたし、動作がどことなく落ち着きがなかった。それは彼女にしては珍しいことだった。しばらく何かについての考えを巡らせ、やがて一つの結論に達したのか、少女は顔を上げた。僕はその一連の仕草を横から眺めていたのだけれど、その横顔はどこまでも美しかった。
 唐突に彼女は手を伸ばして、僕の手を取った。突然の出来事だったから当然僕は驚いた。実際にほんの少し飛び上がっていたかもしれない。彼女は力強く、でもどことなく優しく、僕の手を握って、顔を少し上げて僕を見つめた。そして僅かにはにかんだ。照れくさそうに。その表情は僕の心臓を強く打った。
 何をもって少女にそのような行動を取らせたのかはわからない。どうしようもなく僕が落ち込んで、それに対して何もできなかったから、彼女なりの慰めの方法を考えていたのかもしれない。あるいは慰めという非対称的な行為というよりかは、そばにいるということを彼女なりに伝える方法だったのかもしれない。きっと言葉を掛けられるよりも、隣に立って何も言わずに手を握られたほうが、僕は救われていたのだろう。深い底に一筋の灯りをともすように。
 僕たちはしばらく手を握り合って、その場に立っていた。時間の感覚は失われていた。一つの大きな束が解きほぐされ、繊維が一つ一つ散らばっていく。流動的な動きを見せるものもあれば、幾何学的模様を描くものもあった。各々に込められた記憶もそのままに。もちろんその間にも、人々は怠りなく活動し、物事は忙しなく運ばれているのだが、二人の間には柔らかい停滞が漂っていた。陽だまりの中にいるように。
 少女は目を閉じたまま手を握っていたが、時折そっと瞳を開いて、辺りを見回してその後僕の目を見つめる。彼女がそのとき何を思って、僕の瞳の中に何を見出していたのか、いまとなっては確認する術は失われてしまった。だけど彼女が見つめていた物象、あるいは感性は、繋がれた手を通じて、僕の中にも微かに伝わってきていた。それは感覚を研ぎ澄まさなければ感じ取ることができないが、その時僕の感覚は自然と高められていた。一見すると落ち着いた時間が流れていたが、案外僕の内側においては様々なものが高ぶっていたのかもしれない。
 感覚が研ぎ澄まされていたからか、彼女の手の感触が直に伝わってきた。それはとても滑らかで触り心地が良かった。ずっと触れていたいという思いに駆られた。とてもそんなことを口に出して言うことはできないけれど。その代わりに僕は心ゆくまで感触を味わっていた。柔らかく、丁寧に扱わないとすぐに傷んでしまうものを触るときのように、大切に。時折、少しだけ指を動かして、肌と肌が密接に触れ合う感覚を確かめた。それはいささか味わい深いものだった。
 風が僕たちの間を抜けていく。柔らかな草の匂いを大いに含んだ風だった。その匂いを鼻腔の奥深くまで取り入れて、ゆっくりと吐き出す。僕らはその場から一歩たりとも動かず、ただ手を握り合っていた。建物の影から一羽の鳥が羽ばたいて、太陽が昇る空に向かって飛んでいく。まるで羽ばたきの細かな音まで響き渡っているかのようだった。鳥は少し上がったところで弧を描いていたかと思うと、やがて向きを定めてのんびりと飛んでいった。その姿が点となって見えなくなるまで僕は追いかけた。特に意味はないのだけれど。でも僕はそんなものに対してまで意味を求めてはいないし、それは彼女にしてもそうだったと思う。誰もいない二人の時間を大いに楽しんでいた。ただ手を取り合って。
 随分と長い時間が経ったはずだった。もちろんそのことも何かを意味するわけではないし、そもそも客観的な時間を計測する必要性が失われていた。そうした感覚に陥ったのはかなり久しぶりな気がした。物象化した時間に追われ支配され続けていた。それに対して違和感や嫌悪感を抱く余地すらも奪われていた。それをいま、ほんの一時のことなのかもしれないけれど、僕は取り戻していた。
 鳥の群れが、僕たちの遥か上を駆けていた。各々が思うままに翼を動かし、だけど一つの方向に向かって進んでいった。視界に現れて、反対側に消えていくまで、ゆっくりと時間をかけて移動していく。

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