モダンで瀟洒な建物の中での一夜

 僕たちは岬の駐車場(それは駐車場というよりかは荒れ地だった。時の流れから放置された荒れ地)から出て、来た方向とは反対のほうへ159を走らせる。太陽が既に全景を失い、その僅かな余韻だけが漂っているのを見て、随分と長い間岬で過ごしていたことを知る。だからと言って何か感慨深いものを感じるわけではないし、充実したときほど過ぎるのが早いなどと陳腐なことを言うつもりもない。充実というよりはむしろ、空疎な時間だったが、それはあくまで実務的なベクトルにおける話であって、本質的あるいは精神的内奥とでも言えるベクトルでは濃密な時間を過ごした。少しシンプルに置き換えると、はたから見るとただ海を見つめている二人だが、その中で非言語的なやりとりが交わされ、新たな回路が構築されていた。こうした親密な間柄において築かれる関係を、何か一言で言い表せる単語があればいいのにと思うのだが、少なくとも僕はそんな便利な語彙を知らない。あるいはジャングルの奥地でだけ語られる言語には、そうした語彙があるのかもしれないが、僕と彼女の間で築かれつつあった微妙な関係を表現するには、不十分な気がした。それに言葉で表現してしまうと、言葉以上の意味を表すことは難しく、言葉の枠にとらわれてしまって、柔軟性が損なわれてしまうのではないだろうか。内奥の部分を切り込むと、そこは内奥でなくなってしまうように、ある種の神秘性が喪われてしまう。僕はそうした神秘性を保ったままでいたかった。柔らかいヴェールを丁寧に被せて、あらゆる世俗的なものから守っておきたかった。
 ただひたすらに真っすぐの道を、速度を上げて走る。別に他の車や、ましてや警察なんていないだろうから、何らのしがらみに囚われることはない。もっとも車がそれに応える性能を持ち合わせていることが前提となる話だが、陳腐な国産車を運転しているわけではない。メーターは踏み込めばどこまでも伸びていきそうだ。
左側には太陽を飲み込んだ海が横たわり、右側には闇に飲み込まれつつある広大な平野が横たわる。どちらも先ほどまで瑞々しく放っていた色彩を失いつつあり、それに代わって豊かな夜の膜に覆われつつあった。その中をスモールを焚いたアルファロメオを走らせる。もしそこに他の人がいたならば、小さな四つの丸い灯りが、通り抜けるのを目撃したであろう。その灯りは鋭利な印象を与えつつも、どこか温かくて柔らかいものを想像させた。
 助手席に座る少女の瞳をそれとなく眺めてみる。確かに彼女は魅力的な瞳を持っていた。もちろんそれより美しい瞳の女性は沢山いるだろう。例えばかつてのナタリー・ポートマンのように。だが彼女たちにそれぞれの美しさがあるように、いま僕の横に座っている少女にも特有の美しさがあった。それらを横一直線に並べて均質に比較することはとてもじゃないけれどできないし、何しろ意味をなさない。あるいはそうした比較を一種の効用として味わう連中もいるのかもしれないが、少なくとも僕は理解ができなかった。
 少女の瞳は様々な要素が複雑に配合されていた。柔和な部分を備えながらも、どこか冷ややかな印象を与える部分もあり、見た人を惹きこむかと思えば、無慈悲にも突き放すようなところもあった。一つの瞳、いや正確に言えば一対の瞳にどうしてこのような多義性が生まれるのか。瞳それ自体が持つ性質と、彼女がもたらす動きによって生み出されるのではないだろうか。僕は拙いながらもそう推測する。
 しばらくの間少女の瞳を眺めていたため、危うくセンターラインを越えて対向車線にはみ出すところだった。それとなく眺めるつもりだったのに、ずいぶんの間見つめ、そして意識を奪われていたようだ。確かに気を付けるべきだと思ったが、加瀬が言ったのはもっと象徴的な部分ではないだろうか。
 加瀬がどういう意図で気を付けろと言ったのかは未だによくわからないけれど、結論から述べると、空港で僕は少女と再会した。僕が深い眠りに陥っているとき、ガイドのような者というのは少女なのではないかと、希望に近いものでもあったが、それよりももっと摂理的なものに思えた。例えば物体は重さを持つというようなまでに。僕は望んでいた。少女と再会することを。とても強く、それこそ熱望していたというわけではないけれど、僕たちは実際にあって然るべきだと考え、そうならない世界線は存在しないとまで。もしかすると僕の一方的な思いなのではないかと、ささやかな疑念が持ち上がる部分もあったが、それはどんなカップル、つまり愛し合っているはずの二人でも当はまることではないだろうか。もちろん僕たちはカップルではないけれど。とにかく僕は少女に実際に会いたいと望んでいたし、そこに不純なものは混じっていなかった。僕のような歳にしては珍しく。
 だから××の空港に着いて、目の前の道路に厳かに停まったアルファロメオ159の助手席に、少女が収まっているのを目にして、心臓が俄かに跳ね上がったが、それは驚きによるものではなかった。探していたレコードをたまたま入ったショップで見かけたときのように。そういうときは、ある種の必然によって導かれているものだ。そして導かれるように車に乗り込み、かつてとても懇意にしていた人と、長い時を経て再会したときのような会話を交わした。実際にはそこで初めてあったのだけれど。
 少女は夢の中で会った少女のままであった。仕草から話口調までそのままであり、まさに夢の続きを引き継いだかのようだった。そのため何らの違和感もなく、僕たちは会話を続けた。どうしてそのようなこと、つまり実在する人物が、また別の実在する人物の夢の中に登場することができるのか、いまひとつ理解できないし、そもそもあれが夢だったのかすら定かではない。何か世間には知られていない秘匿された方法を使えば可能かもしれないが、そうしたオカルト的なことに詳しくないし、いまや方法など些末な問題だった。いかなる方法を使ったにせよ、いま現実に僕たちは顔を合わせている。このことが何よりも大きな意味を成した。
 そして僕たちは走り出した。目的などは設定していない。そうしたものはあまりにも世俗的過ぎる。ただ自然と方角が定まっていく。次から次へと、砂時計に砂が堆積していくように。ただ砂時計とは異なり、逆流することがなければ、滞りなく流れきることもない。時として方角を見失うこともあるが、それはあくまで一時的なことに過ぎず、然るべき時間を置けばまた動き出す。あらかじめ、そうした留保の時間を置くことが求められていたのかもしれない。いずれにせよ、潤滑に物事が進行していくというわけではないけれど、少しずつそして確実に流れていった。僕たち二人を乗せて。

「もう日が暮れてしまった」辺りがすっかり闇に覆われたのを待って僕は言った。車内を仄かに照らすのは、メーターと操作ダイヤルの灯りだけだ。
「それは惜しんでいるの?」少女が尋ねる。
「どちらかと言うとね。僕にとって、夜はあまり楽しいものではないから」
「そう?わたしは割と好きだな。誰もが寝静まった後の、あの静謐な感じが」
「どことなく不安な気持ちになる」
「それはもちろん、わたしも感じるわ。でも感じると同時にそれを味わっている」
「…味わう?不安を?」
「ええ、ポップコーンを味わうようにね」
 僕はそれについてしばらく考える。少女がポップコーンを食べる姿を。いまひとつ鮮明にはイメージが浮かばなかったが、自ら口に出すということは、ポップコーンが嫌いではないのだろう。続いて、不安を味わうという表現について思考する。
「あまり聞き馴染みのない表現だね」僕は尋ねる。
「どうかしら。わたし独自の表現だと思っても、案外どこかで使われていたりするわ」
「少なくとも僕は聞いたことのない表現だ」
 そして、こんなことも考える。
「なんだか、どこかで同じような会話をしたような気がする」
「デジャヴというやつかしら?」
「…うん。そのときも僕はこうして車を運転していた」
「そのときわたしは隣にいた?」
「どうだろう。何とも言えないな。いたと言われれば、そんな気もするし、そうじゃないかもしれない」
「わたしの存在はそんな曖昧なものなの?」軽い悪戯心をもった笑みを少女が浮かべる。
「いや、そんなことはない。でもデジャヴとはその程度のものじゃないかな」
「それもそうね。都合のいい記憶の改竄」
「取るに足りない記憶の断片」
 少女がちらとこちらを見る。瞳が艶やかな光を灯している。「それはあなた自身の表現?」
「僕はそう思っているけれど、君も言った通り、誰かのものを無意識のうちに拝借している可能性もある。でも少なくとも、この場において適切な表現の一つだと思っているよ」
 少女は何も言わず前を向く。急速に興味を失ったかのように。でもそれで僕が傷つくということもない。もっと直接的で意図を持った傷を受けたことも、これまであったし、少女が興味を失ったのは会話であって、僕自身ではないという確信があった。どこから根拠を得ているのかはわからないけれど。
目の前には生々しい暗闇が広がっている。そこを黒いアルファロメオが切り裂いていく。とても滑らかに、熟練した医師がメスを用いたときのように、暗闇は切り開かれ、その内部を明らかにする。ただしそこに何かあるわけではない。より一層の闇が横たわっているだけだ。丸いハロゲンヘッドライトが照らすのは、あくまで表層の部分、運転が可能となる範囲に限定されており、すべての闇を払うことなどできない。そんなこと夢想するだけ無駄だ。僕たちは常に闇と共に生きている。一時的に勢力を弱めることはできても、コインの表と裏のように一体となっており、引き剥がすことはできない。もしそんなことをしてしまったらすべてが一瞬のうちに無に帰すことになるだろう。取り返しのつかないことになる。取り返すだけの価値があればの話だけれど。
等間隔に街灯が佇む。貧相で頼りない灯りが、僅かに車道を照らす。語弊がないように言っておくが、功利主義的な観点、つまり効用云々の観点からに限って、貧相なだけであって、別の観点からするとそれは情緒的な灯りとなるのだろう。何もすべては効用だけで成り立っているわけではない。微かな光は、周囲の闇によって逓減されつつも、その温かい本質を真下の空間に伝えている。限られた空間だけを照らし、感性による認識の材料を僕たちに与えてくれる。そして大まかな道筋を表し、僕たちを導いてくれる。もっとも、いま走っているあまりにも直線的な道路には、カーブなんて当面見当たらないのだけれど、僅かに下っていき、やがてなだらかに登っていく様を示している。
「そろそろ着くと思う」少女はなんの予兆もなしにそう言った。
「どこへ?」
「まさかこのまま眠らずに走り続けるわけにはいかないでしょう」
僕はちらりと車内の時計に目をやる。確かにその通りだ。
「今夜、わたしたちが泊まるところ」
 何と言ったらいいのだろうか。少女は確かに魅力的だが、それは性的な魅力というわけではない。そこにはあまりにも大きい年齢の差があった。あるいは年齢差を感じているのは僕だけかもしれないが、いずれにせよ不思議な気持ちの持ち上がりを感じた。
「何か変なことを考えている?」彼女は僕の内奥での逡巡を読み取ったかのように言う。
「いや、何というか…君のような女性と同じところに泊まるというのは…」
「別に何も起こったりしないわ。道徳的にも審美的にも問題はない」
 その少し突き放すかのような言い方に、ある種の冷ややかさを覚えた。そして同時に加瀬にも通ずるような超然とした趣も感じた。彼女が問題ないと言ったら、あらゆる物事が解決するかのような。
「もう少し毅然としたらどう?」少女が窓の外の闇を見つめながら言う。闇の中に模様を探りながら。
「…まったくその通りだと思う」
「もしまた、互いのことをほとんど知らない女の子と、二人でドライブしているうちに、夜が更けたら?それもその女の子は、かなり歳が離れているように見える」
「そんなことはなかなか起こらないはず」
「でもいま、実際に起こっている。そして再度起こった時、またしても同じところに泊まると聞いただけでドギマギしちゃうわけ?」
「それはあまりにも君が魅力的だったから」歯が浮くような台詞で、少し反撃を試みる。だが彼女はそんなこと物ともせず、表情には寸分の変化も見られなかった。少なくとも僕にはそう見えた。もっとも、車内灯の仄かな光の下ではあったけれど。
「それは口説いているつもり?」
「もし君のような娘を口説くなら、どんな台詞が必要かな?」
 少女はしばしの間に沈黙する。やがてその麗しい唇がおもむろに開かれる。
「陳腐な台詞はいらない。変に華燭が加えられた台詞も、むずがゆくなるだけ」
「ならばどういうのが好みなんだろう」
 再度沈黙が訪れる。決して重苦しいものではない。あくまで思考の過程における、方向性の定まらなさを伝える沈黙だ。そして僕はそれを深く味わっていた。急かすつもりはない。
「よくわからないわ。結局のところ誰が言うかによるんじゃないかしら」
 誰かにはどこまでが含まれているんだろう。少なくとも現時点での僕は含まれてはいないはずだ。あるいは今後の関係の進展にもよるのかもしれないが。
 今後の関係の進展?
果たして僕はそれを求めているのだろうか。この美しい少女と深く、そして多義的に交わることを。そこには複数の類の問題が存在しているように思える。僕たちだけの力では解決することができない。解決の糸口を見つけようという気すら起きない程、複雑で大きな問題が横たわっている。
もし問題のいくつかが解決、少なくとも二人の間に支障をきたさない程度まで矮小化されたとして、そこから関係を進めたいと僕は思うのだろうか。相手の事情も大して考慮せず、闇雲に突き進むような年齢は、とうに過ぎた。若かりし頃のうだるような情熱。多かれ少なかれそうした経験を誰しもがしたことがあるだろうが、もちろん僕もその一人だ。そして結果、関係は見事に破綻した。
そうした情熱はもう持ち合わせていない。ある日突然消え失せたのか、あるいは徐々に収斂していったのか、どちらか定かではないが、いまはもう残滓しか見当たらない。その仄かな余熱をどこかに感じるだけだ。
「この状況に対して、未だに理解が十分及んでいない気がする」
 少女は軽やかに笑って続ける。「まだそんなことを思い悩んでいるの?」
「きっとそういう性なんだろう。どこかに一つの完璧な答えを求めてしまう」
「念のため聞いておくけれど、そんなものは存在しないことはわかっているわよね」
 僕は頷く。「完璧な女性など存在しないように」
「女性?」
「…何でもない。ただの気まぐれだ」
「あまり女に対してそういうことを言わないほうがいいんじゃないかしら。些末な一言で気を悪くする人もいるかもしれない」
「…ごめん。まったくその通りだ」
「軽々しく謝る必要はないわ」
「…いや、そういうつもりじゃないんだ。ただ、何というか、どういう言葉が適切で、どういった温度感で言うべきなのか、いまひとつ測りかねている」
「それはこれから測っていくものじゃない?夜はまだ長いのよ」
 僕はそれに対して、無言で答える。どう答えるのかわからなかったというよりは、何も答えないことが最も適切だと思ったからだ。時計は、頂点までの距離を随分と余している。
 鬱蒼と茂る木々の一群が、微かな街灯の灯りに照らされ、俄かに僕たちの視界に出現した。
「あそこよ」
 少女は顎で指す。言われると、確かに木々の一群の中に建物らしきものが垣間見える。建物の全貌は木々に覆われて確認することはできないが、高さはあまりないけれどもなかなかの全幅がある建物だった。ただ一切の灯りが漏れ出ていない。道路に沿った街灯を除いて、敷地一体がほぼ完全なる宵闇に覆われていた。言われなければ、廃墟に見えなくもない。世俗的な循環から取り残された廃墟。そして言わずもがな、静寂の膜にも覆われていた。
 僕は速度を緩め、木々の間に何ら主張もせずただ敷かれた道へ入る。あいにく僕は植物には詳しくないから、一目見て品種を言い当てることができないが、少なくとも僕があまり見たことのないもので統一されていた。幹は細くそして長く、葉は辺りを包まんばかりに茂っていた。おそらく日中には複雑な陰影を描いているのだろうが、いまの時刻にはわからない。ぼんやりとしたシルエットの群れが浮かんでいるだけだ。道に沿って等間隔で置かれた、地面に埋め込まれるタイプのライトを別にして、灯りが存在しないため、葉の色を見て取ることはできない。でも想像に過ぎないけれど、あまり溌剌とした色とは思えず、どこか陰惨とした要素を部分的に含む木のような気がした。
 木々の間を真っすぐに敷かれた道路は、車がすれ違うのにギリギリの幅を持って、訪問者を建物まで誘導していた。何か意図して雰囲気を醸成しようとしたのか、あるいは偶然の産物なのか、外界と隔絶する手続きを踏むトンネルの様を呈していた。ここを通ることによって、身に纏った騒音と色彩をシャワーで流すかのように。僕はその道をゆっくりとアルファロメオを進める。
 やがて建物がその一部を見せた。濃いグレーを基調とした四階建てのそれは、どこか無機的な雰囲気を周囲に放ちつつも、周囲の木々が緩和すること、すなわち有機的な雰囲気で包むことによって、二つの要素が上手い具合に調合され、総体としての調和を生み出していた。ほとんどの部分が直線で構成され、梁や壁面の装飾はない。所々切り取られたように窓が等間隔に点在している。ともすると単調な印象を与えかねないが、外観のほとんどの部分を木々で隠されて、垣間見ることしかできず、建物のみの印象を図ることはできない。玄関ポーチに掛けられた二つのランプを別にして、一切の灯りは漏れ出ていない。玄関の重厚なドアを始め、あまり多くはない窓に掛けられた精緻なブラインドによって、内部で行われている一切を秘匿している。決して漏らしてはいけない何かがあるかのように。
 大方のモダンテイストの建築物がそうであるように、ほぼ直線のみで構成された建物は、一切の過剰な装飾が省かれていた。おそらく壁紙に花の模様はないし、緑色のカーテンなんてものは備えていないだろう。玄関のランプが放つ柔らかい灯りが、ごく限られた領域を照らし出している。訪問者を歓迎するしるしは、他には見当たらない。ここでも看板や、無意味な公告は、深い部分に隠されている。誰の目にも触れることがないように。存在が膾炙してしまうと損なわれてしまう本質があった。
 工業的な雰囲気を持つ車寄せにアルファロメオを停め、エンジンを切る。ここまで僕たちを運んでくれたエンジンは、ようやく稼働を止めた。どこか熱い空気が漂ってくるような気もする。ドアを開け、僕と少女は地面に立つ。少女は勝手を知っているように、建物のほうへすいすいと進んでいく。僕も車にロックを掛け、その後に続く。
 暗がりの中で見る少女の白いワンピースは、それ自体が発光しているようだった。もちろんそんなことはないのだけれど、周りの闇に飲み込まれることなく、服自体が生命循環活動を行っているように、僕には思えた。そう思わせるのは、少女の流動的な素振りだったのだろうか。軽やかに彼女は歩く。
 建物の前に到着し、重厚なドアに手を掛ける。金属質な素材のドアだった。少女はそこに立ってやや思案する刹那があった気もするが、それは僕の思い違いかもしれない。僅かに内側に開かれたドアの隙間から、内部の光がようやく漏れ出てくる。淡い闇の中を一筋の灯りが走った。少女が先に光の中に飲み込まれて行く。
 内部には空間が広がっていた。これほどの空間がどのようにして一つの建物の中に収まっているのか不思議なほど、そこは広々としていた。入り口付近は吹き抜けになっており、天井は随分高いところに位置している。もちろんどこまでも空間が続いているわけではない。壁面は存在している。だけれども、照明がもたらす効果なのか、あるいは何かしらの心理的効果によるものなのか、その空間は実際よりも遥かに広く感じられた。
外観が濃いグレーを基調としているように、内部もモノトーンで統一されていた。白に若干のグレーを帯びた床、壁はそれよりも幾分濃いグレーとなっており、柱の部分には天井まで黒色が施されている。照明が当てられた天井は淡い白色となっている。下手をすれば物足りない印象、あるいは物寂しさを与えてしまう色彩だが、それぞれが効果的に配色されているうえ、ところどころに真鍮の装飾が施され、適切なアクセントが加えられている。
 空間の中には優美にラウンジチェアとサイドテーブルが配置されている。調度は全体的に統一されており、直線の中に有機的な曲線が用いられている。そして座り心地が良さそうだった。決して機能面を損なっていることはない。どこか有名なブランドのものなのかもしれないが、僕はそうしたことにもあまり詳しくないから、どこのブランドのもので誰がデザインしたものかなんて見当もつかない。そしてブランドのラウンジチェアというものは往々にして何食わぬ顔をしておきながら、驚くような値段のものが多い。ここにある幾つかのサイドテーブルとチェアのセットも、そういう類のものなのかもしれない。もちろん言うまでもないけれど、チェアとサイドテーブルの色は建物と同系色のものだった。どうやらここをつくった人物は厳密な基準を以って、家具の選択や配置を行ったらしい。基準から漏れ出た色彩の一切が省かれていた。そんな色彩は、始めから存在しなかったかのように。
この時間だからだろうか、チェアに座っている人は見当たらない。等間隔で同じ方向を向いて置かれたラウンジチェアが、その上に重々しい沈黙を迎えている。もしそれが別の空間、例えば病院の待合室なんかだと、いささか陰鬱に思えるのかもしれないが、この建物内においては、いまの状況が最適解のような気がした。誰も座っていないラウンジチェアと、用途を持て余しているサイドテーブル。ここに余計な要素を加算すると、たちまち不純物が混じって、歪なものになってしまうのだろう。
 室内には幾つかのペンダントライトが吊るされ、少し暗すぎる部分だったり、フォーカルポイントにはスポットライトが当てられている。適切な光度と光量のスポットライトが。ペンダントライトにはベルベットのシェードが付けられており、スポットライトの先には大柄な観葉植物やグランドピアノがあった。いずれもモノトニックなもので統一されており、過度な装飾は深い部分に秘匿されている。ある種の禁忌かのように。
スポットライトによって情緒的な陰影がもたらされたグランドピアノは蓋が閉じられている。綿密な手入れが定期的に施されているようで、埃や指紋はついていない。そのピアノによって、いままでどんな演奏がされてきたのかわからないけれど、気軽に触れてはならない、かなりの演奏スキルを求めているピアノに思えた。そうしたピアノ、高い自負を持っているピアノ特有の雰囲気を纏っていた。
 室内の奥の部分に設置されたロビーの中にも誰もいない。ロビーは淡いグレーのコンクリート調のもので、重厚な雰囲気を纏っていた。人が誰もいないだけでなく、周辺の観光パンフレットや案内の類も見当たらない。壁の間接照明が暖かく周囲を照らしている。
少女はロビーに設置されたベルを鳴らす。不思議なことに、その小振りなベルからはわりに荘厳な音が響いた。世の中のベルはたいてい陳腐な音を出すものだけれども、そのベルからは尊大な波紋が、静寂な空間に広がっていった。しばらくのあいだ、波紋は空間を揺蕩ったのち、速やかに収束していった。何事も始めから起きなかったかのように。
 どこからかこちらへ向かって人が近づいてくる気配があった。物音も足音も発さず、純粋な人間存在自身から発せられる気配が近づいてきた。空気を押し分けるようにして、気配はロビーの奥、それもかなり遠い位置から近づいてくるようだった。目で見たり耳で聞いたりできる一切のしるしを用いることなく、だけれどもこちらへ何かが向かってきているということは感じることができた。その証左に、少女はもう一度ベルを鳴らすということはしなかったし、僕も自然と心構えをすることができた。予感というものに近いのかもしれないが、それよりはもっと実現可能性、ないしはリアリティがあった。
 その気配は壁という物質的障壁をすり抜けて、僕たちの元へ届けられた。何かを介在することもなく、とても直截的に。そうしたある種のフィルターを介しないやりとりは、言語的であろうと非言語的であろうと、いささか気を張ることが要せられるが、いまも例に漏れなかった。あるいは暴力的とも言える圧倒的な獣性に、晒されることになる。それに対して何らかの抵抗を示すことはとてもじゃないけれどできない。ただ一方的に蹂躙されひれ伏すことになるだろう。
気配は徐々に大きくなりつつあり、文字通り肌で感じられるようになっていた。身体的感覚を通して、その人物は僕たちに近づいていることを示していた。
その対象を未だに視認できないことが、僕を言い知れぬ恐怖で包み込んだ。対象の視覚的情報を手にすることができれば、未知性から生み出される分の恐怖は幾分軽減されただろう。しかし気配はいまのところ、どこまで詰めても気配であって、それ以上の情報を得ることはできなかった。
果たしてそれは彼あるいは彼女が意図したところなのだろうか。ふと僕は疑問に思う。もし自身の意図ではなく、勝手に気配が自己を主張してしまっているとしたら、実際上においてかなり不便な状況が生じるのではないだろうか。声を出しているわけではないが、これほど自身の存在の主張を周囲に振りまいているなんて。例えば、散歩を拒否する犬を捕まえるときなんかには、犬に気配を察知され逃げられてしまう。散歩を拒否する犬というのは、往々にして気配を敏感に察知するものだ。
あるいは意図的に気配を出しているのだとしたら、一体どういった理由からなのだろうか。威嚇のようなものなのだろうか。取り留めのない考えが僕の頭の中を巡る。一部は僕の中の取っ掛かりとでも言うべきものに触れた感じがするが、その他の大半は誰に問えばいいのか、そして答えがあるのかどうか、まったく定かではない問いだった。意図されたものというよりか、もっと内奥の部分から持ち上がってくる類の問いであり、僕の頭の中に浮かんだ。そして微かな名残り惜しさをもたらして、次の刹那には再び深い部分へ消えていった。
 やがて気配が極大値に達すると、ロビーの奥の暗闇から小柄な初老の男が姿を見せた。僕は正直に言うと拍子抜けしたところを感じた。音を立てることもなく、気配を周囲に発することができるのだから、どんな人物なんだろうと、ある種の期待を抱いて心待ちにしていた。
ところがいま僕たちの前に立っている人間は、取り立てて特徴のない男だった。もちろんどんな人間にも特徴は存在する。だがその人物は、至ってありきたりな語彙のみで特徴の記述が完結してしまう人物だった。何か特殊に文学的な語彙を用いる必要はないし、もし用いたとしたらその人物の正確な描写ではなくなってしまう。
おそらく背は彼の年頃の男性平均だろうし、肉付きもその通りだろう。それ相応の歳の取り方をしていた。一般に言われるように、いままで経験したことが身体つきに反映されていた。いままでの食生活、余暇の過ごし方、あるいは性生活のようなものが。それらが総じて至って普通だった。
身に着けている衣服も同様だった。藍色の目地の細かいチェックのシャツ、灰色の折り目が消えかけたズボン、黒の無地の靴下に同じ色の革靴。ジャケットはなし。昼間の街を少し歩いただけで何人もすれ違うようなスタイルだった。
髪は後退の気配を見せてはいるが、印象を損なうほどではなかった。若干の白髪が混じっているが、おそらくは若いころからこのままだったのだろう。ごく平均的な長さに切られ、定期的な手入れが施されている様子が伺えた。
一つ特筆することがあるとすれば、その初老の人物は姿勢が物凄くよかった。背中に頑丈な物差しが挟まれているかのように、首が綺麗に上に伸びていた。この年の人にしては珍しいのかもしれない。いや、年齢を問わずこれほど姿勢が良い人はあまり見かけない。努力して姿勢を保っているのではなく、あくまで自然な立ち振る舞いの結果として、凛とした姿勢となっている。
彼は相変わらず足音を一切立てず、僕たちが立つ正面にやってきた。
「おかえりなさい」
 彼が初めて発した音は、空間をゴム毬のように跳ねた。(男性の声に対してゴム毬という表現は適切ではないかもしれないが、実際に僕はそう感じた。)
 
おかえりなさい?

僕はその言葉に不自然な響きを覚えたが、少女はそんなこと気にする素振りはなかった。彼女はただ小さく頷いた。それに合わせて彼女の短めの髪が波打つ。それは僕に何故か木漏れ日を思わせる。何故だかわからないけれど。
「こちらの部屋をお取りしております」
 老人の声はよく響いた。声の高さはありきたりだったが、そこには天然のアンプが内包されているようだった。幾分か増幅されて聞こえた。あるいは空間が反響をもたらしていたのかもしれない。
 老人は背後のキャビネットを開き、その中から一つの鍵を取り出す。これまでの建物全体の調度からの予想とは反し、鍵は古風な形のものだった。奥深くに差し込んで回す、純粋な解錠音がするタイプの鍵。そんな鍵がキャビネットの中に、何個も掛けられていた。
 少女は鍵を老人から受け取る。
「ごゆっくりお過ごしください」
 どうやら彼は、物事を最小限に留めて話すようだ。余計なことは一切含まれていない。
 少女はありがとうと言い、会話をそこで終わらせた。左に向きを変え、歩き始める。僕は彼女に続く。エントランス空間から伸びた廊下の一つに入るとき、僕はそれとなく振り返りロビーの中の老人を見る。しかし、彼はもうすでにそこにいなかった。現れたときとは対照的に、一切の気配を出すことなく、その場から消えていた。余韻も何もかも、ロビーの中には残されていない。
 廊下を進むとすぐにエレベーターについた。一基だけ備えられたエレベーターは厳密に扉が閉められていた。当然と言えば当然だけれど、僕にはその扉が開くことはないと思えるほど、重厚な扉はしっかりと閉じられていた。
 少女がボタンを押す。やがて扉の右上部にあるライトが点灯し、音もなくゆっくりと扉が開いた。もし他のことに気を取られていたら、扉が開いたことに気付かなかったかもしれない。僕たちは開かれたエレベーターに乗り込む。
 僕たちが完全に乗り込んだことをエレベーター自身が認識したかのように、特に何のボタンを押すことなく、乗り込んで向きを変えた瞬間、また音もなく扉は閉じられた。そしてほんの微かな振動を継起に、上昇を始める。もし振動がなかったら、エレベーターが稼働していることに気付かなかったかもしれない。
 そこで僕は初めて違和感を覚える。このエレベーターには一切のボタンが存在しない。開閉ボタンも、行き先階のボタンもない。だからもちろんのこと大きな鏡もないし、階数表示もない。言うまでもないけれど、ビートルズの『Help!』が流れているわけもない。
 だからといって、つまりいま乗っているエレベーターが、奇妙な部類のものだと気が付いたことによって、別に恐怖を覚えたわけではない。人によってはそうしたエレベーターに乗ったことで、強い恐怖、あるいはいささかの不安を覚えるかもしれない。世の中には想像もつかないほど多様な人がいる。僕も内部におけるざわめきを感じたが、それが動揺という形で表出することはなかった。
このエレベーターにはボタンがないけれど、目的の階まで安全に僕たちを運んでくれるという確信がどこかにあった。もちろんそれは少女が隣にいたことによって、得られた確信であった。一人で気付かずにこのエレベーターに乗ってしまったら、僕も強い恐怖、あるいはいささかの不安を覚えていただろう。人目を憚らず取り乱していたかもしれない。もっとも人目というのがその場に存在すればのことだけど。その意味では、少女が僕にもたらした恩恵は大きかった。
 音もなくエレベーターは上昇する。もしかすると下降していたのかもしれない。何しろ窓もないし、階数表示もない。そして最初の振動を別にして、一切の揺れを感じない。いま昇っているのか、ないし降りているのか判断しようがない。建物は見たところあまり高くなかったが、その地下に巨大な空間が広がっている可能性も否定できない。エレベーターの絶対的速度を測ることは難しい。外の景色や通過する階によって感じる相対的速度によって、エレベーターの速度を感じるものだ。そうした相対的速度の判断基準の一切を除かれてしまった場合、とても奇妙な感覚に陥る。いまどこに向かっているのかわからなくなる。小さな方位磁石だけで広大な砂漠を縦断するようなものだ。手掛かりは手元のささやかな針しかない。どこへ向かっているのか、向かう先に何が待ち受けているのか。
 どれくらいの時間が経過しただろうか。いつ停止したのかわからないまま、扉が音もなくゆっくりと開かれる。とても慎重に、分断されていた二つの空間を一つに繋ぎ合わせた。僕たちは外に出る。随分久しぶりに別の空間を訪れたような気がした。あくまで気がするという程度だろうけれど。
 そこは深い紅のフロアシートが敷かれた長い廊下だった。所々にまたしても重厚そうなドアがあった。天井と床に設置された間接照明が、仄かに柔らかく照らしている。もう少し色温度が高く、明るい照明であったら、幾分無機的な印象を与える廊下になっていたかもしれないが、橙掛かった色で光量が適切に抑えられた照明と、天井から吊るされた幾つかの鉢にシダが植えられていることで、見事な調和が生まれていた。溢れんばかりのシダを抱えている鉢は、テラコッタなんかではなく、金属的なものだった。
 少女が先にエレベーターから下り、僕はそれに続く。フロアシートがとても上品に足を包む。彼女は迷うことなく、右に曲がって進む。不思議なことに、次々と通過していくドアには、部屋番号らしきものが存在しない。プレートはドアに埋め込まれているのだが、そこに書き込まれるべきであろう数字がどこにも書かれていない。空白の真鍮製のプレートがただ埋め込まれているだけだ。
 だが少女はどんどん先に進んでいく。彼女には目的地がはっきりとわかっているようだ。どうやって個々のドアを判別しているのだろう。いま横を通り過ぎたドアと、さっきまで通り過ぎてきたドアの違いは、僕には判断できない。それは次々とやってくる電車のように。もっとも電車には然るべき車両番号が割り振られているはずだが、そんなものは乗客には知らされない。たとえ知らされたとしても気にも留めないだろう。そんな乗客の気分だった。
 少女が一つのドアの前で止まった。それはとても唐突に起こった出来事だったから、もし僕が他のことを考えていたら、例えばピアノを弾くときのビル・エヴァンスの姿勢なんかについて考えを巡らせていたら、少女にぶつかっていたかもしれない。それはそれで惜しいことをしたとも思ったが、そんなことはもちろん少女には言えない。もしぶつかったら、そこで多義的な交わりが生じていたのかもしれないけれど。
 手にしていた鍵を差し込む。思った通り鍵はカチリと純粋な解錠音を立てた。少女がノブを下げると、重厚そうなドアは徐に内側に開いた。ドアは実際にあらゆる面において重厚だった。
 少女が中に入る。どうやらここが目的の部屋だったようだ。プレートに数字がなかったように鍵にも数字、あるいは何らかのしるしもなかったのに、どうやって彼女はこの部屋が該当の部屋だと判断したのだろう。まさか当てずっぽうで入ったのではあるまい。何かしらの妥当と言える根拠を以って部屋に入ったはずだ。もしかするとその根拠はとても不純なものだったのかもしれない。しかしどうやっても僕にはそれがわからなかった。
 鍵を壁面に設置された窪みに置くと、センサーが感知して自動で照明が付いた。古典的な見かけの鍵だけれど、機能においては申し分ないようだ。おおよそ5メートルほどの廊下の先にリビングスペースとベッドスペースの二つが広がっている。二つの空間はそれぞれ十分な広さを備えている。具体的な間取りはわからないが、世間には潤沢なスペースを持ちながらごちゃついた部屋もあれば、対照的に驚くほど空間を有効的に利用した部屋もある。部屋の見かけ上の広さなんて、どうにでもなる。もっともある程度の技術と考慮が求められるけれど。僕の信条に則って、具体的な数字を以って部屋の広さを表現することはしないが、この部屋は十分のスペースを持っていた。
 リビングスペースとベッドスペースの間には、床のカーペットの違い以外、特に目立った仕切りはない。言うまでも無く、モノトーンを基調とし、真鍮のアクセントを除くと、余分な色彩は取り除かれていた。それらは決してあってはならないものとして。リビングは天板が大理石のダイニングテーブルと、チェアが2個置かれていた。それらは金属製の細い脚を有しており、鈍い金色の装飾が僅かに施されていた。テーブルの上部に吊るされたペンダントライトによって、辺りの空間だけでなく、天井までほんのりと照らされていた。もしかすると厳密に長さを測って吊るされているのかもしれない。最適に空間を照らし出す長さを算出した上で。
 ダイニングセットの隣には、リクライニングチェアが2個とローテーブルが置かれていた。見た感じとても座り心地がよさそうな代物だったし、実際に座ってみると包み込むような感じを与えつつも、しっかりと芯がある座面だった。
 ベッドスペースにはクイーンサイズのベッド(おそらくクイーンだと思うけれど、僕の部屋のベッドはこれよりも幾分小さいものだから、並べられない限りキングとクイーンの違いが曖昧ではある。だから便宜上クイーンとした。)が中心に置かれている。ヘッドボードは黒に塗装されたラタン調のもので、天然素材が醸し出す独特の空気が、単調な印象を与えかねないスペースに、ひとしおのアクセントを加えていた。
サイドテーブルにはテーブルランプが置かれている。曇りガラスを素材とした乳白色のシェードと、細い金属のアームで構成されており、昔どこかの家具店で似た形状のものを見掛けたことがあったが、その小振りなサイズからは想像できないほどの値段が付けられていたことを覚えている。そしてその家具店ではスタン・ゲッツが流れていたことも。スタン・ゲッツを流して、小振りだけど高価なテーブルランプを置いている家具店。あそこを訪れたのはいつのことだっただろうか。
 この建物全般に言えることだが、内装に対して深い理解を持った人物が、一貫してインテリア配置を指揮したのだと思われる。高級なものばかり集めても、それでいいというわけではない。大抵の場合、高価な家具は強力な主張、あるいはデザイン性とでも言うものを持っているから、厳密な基準を設け、その範囲内に収めなければ、どこかちぐはぐなものになってしまう。例えば色合いや素材といった基準を。ここにはそれらの基準を遵守でき、要求に応える家具を揃えている場所を熟知した人物がいたはずだ。
もしかするとロビーのあの小柄な老人かもしれない。ふと僕はそんな考えを思い浮かべる。彼は自身が人に与える印象を熟知していた。そしておそらくは明確な意図を持って、コントロールしていた。だから実体が与える印象を考慮して、効果的に配置することができても不思議ではない。むしろそうしたことは彼の得意分野と言えるだろう。

いずれにせよ、いま僕と少女は二人きりで部屋にいる。かなり細やかな気を配られた部屋に。だがおそらく部屋の特性よりも、二人きりであるということのほうが、かなりの意味合いを持つだろう。僕はそうなることを望んでいたし、少女はそれに現実的な形で応えた。
少女はリビングスペースに進み、部屋の内部を大まかに点検した。ブラインドをずらし外の様子も確認したが、そこには深い闇の他は何も存在せず、ただ少女の顔が映り込んでいただけだ。やがて彼女は部屋の内容に納得したようで、リクライニングチェアに座る。
「そんなところで突っ立ってないで、あなたも座ったら?」
 僕はダイニングチェアの一つを引いて腰を掛ける。それはどこか外延的なチェアだった。一回一回そのチェアに座るという経験が、蓄積されていくような。
「君はここに来たことがあるの?」僕は尋ねる。
「ええ、定期的に訪れているわ。ここは洗練された時間を与えてくれる」
「確かによくできた建物だと思う。それに上手い具合に秘匿されているから、人で溢れていないことも好ましい。君に言われなければ通り過ぎていたよ」
「あなたが知らないことを、わたしだけが知っているということもある」少女は涼しげな声で言う。
「むしろそうしたことのほうが多いんじゃないかな。僕はきみについて、はっきりとしたことをあまり知らない」
「何か飲まない?奥のキャビネットにウイスキーが幾つかあるわ」
 僕は立ち上がって、キャビネットへ向かう。真鍮の取っ手を掴んで開くと、中にウイスキーの瓶が眠っていた。知っている銘柄も幾つかあったが、知らないもののほうが多かった。その中からカティサークを選んで手に取る。少女が隣にきて、棚の下の段に並べられていたグラスの中から二つをとった。少女からは太陽を思わせる匂いがした。その微かな匂いが鼻腔を撫で、僕はそれをさりげなく味わう。彼女は氷を取りにキッチンに向かう。
 二人でチェアに座って、氷を入れたグラスを並べる。カティサークを注ぐと、煌めくような黄金色の液体が、グラスを浸した。そして僕たちは何も言わずにグラスを軽くぶつける。享楽的な音が響き、液体は波を打った。
 少女はグラスを審美的な角度に傾け、カティサークのオンザロックを一口で飲み干した。世の中には審美的なグラスの傾け方があり、顔色一つ変えずにオンザロックを一口で飲み干してしまう少女がいると、改めて僕は思い知った。その事実に驚きつつも、どこかに歓びを覚え、僕は少しグラスを傾ける。
「最初の一杯だけはこうやって飲むの」グラスをサイドテーブルに置いて、少女は言う。「身体をアルコールに慣らしてから、じっくりと味わっていく。そうするとなんだか美味しく飲める気がする」
 そう言ってカティサークを新しく注ぐ。「あまりお酒の飲み方でとやかく言いたくないけどね。自分の内側に秘めておいて、静かに実践すればいいだけであって、人に教授するべきではないのはわかっている。男の人はお酒が強い女を好まないし」
「そんなことはない。少なくとも僕は好きだよ」そこそこの本意を以って僕はそう思った。
「珍しいね。それはわたしに合わせたお世辞ではなくて?」
「僕はお世辞なんか言わない」
「ふふ、聞いてみただけ」そう言って彼女は、ほんの少しだけカティサークを口に含めた。
 それに合わせて僕もグラスを傾ける。彼女のように審美的とはいかなかったけれど。
「君とこうして飲んでいると、とても落ち着く。なんというか、ものごとがあるべきように進行している気がする」これは本気でそう思っていた。
「まだほんの少ししか経っていない。随分気が早いのね」
「そういうんじゃないんだ。なんて言ったらいいのかな…」
「完璧な言語なんて存在しない」とグラスを傾けて少女が言う。
「…そうだね。うまく僕の気持ちが君に届いていない気がする」
「なにか食べたくなってきた。そう思わない?」
 少女は僕の言葉を聞き流してそう言った。でも確かに、空腹が俄かに持ち上がってきた。今日一日で、何かろくなものを口にしただろうか。
 少女はベッドスペースに向かい、ヘッドボードの脇にある電話を手に取って、番号を押した。仮初の沈黙が漂う。僕はその間に一日の出来事を振り返ろうとするけれど、回線が錯綜していてどうにも上手くいかない。昨日のことが今日のことになり、さっき起こったことがどこか別の場所での出来事のように思えてくる。軸と軸が混じり合い複雑な模様を描いているだけでなく、それぞれの軸もまた弛んでいる。一つ一つの模様は近視眼的には確認できるけれど、俯瞰的に見るとたちまち全景は滲んでしまう。水に浸されたメモ用紙のように。そこに一体何を描こうとしていたのだろう。疲労によるものか、あるいはカティサークの酔いによるものか。それほど疲れたつもりもないし、飲んだつもりもないのだけれど。
「なにか食べるものを持ってきてくれない?お腹がすいちゃった」電話が繋がったようで少女の声が届く。実体を伴わない彼女の声は直截的に、でもとても上品に僕の耳を撫でた。相手はおそらくさっきの老人だろう。
「ええ、それで構わないわ」彼女の声はやはり不思議な響きを有している。とても効果的に鼓膜を震わせ、心地よい揺らぎをもたらしてくれる。でもどこにも気取ったところはない。
「ビーフシチューとカルボナーラのどっちがいい?」少女がボリュームを上げて僕に尋ねる。どうしてその二つの料理が選択肢として同列になっているのか、いまひとつ理解できなかった。何しろ材料も工程も保存可能期間も全く異なるはずだ。まあ随分遅い時間だし、料理を提供してくれるだけでありがたいのだろう。それに二つとも僕の好きな料理だった。
「カルボナーラで」僕は答える。彼女の声に比べて、それはありきたりな響き方をした。
 少女が電話口に料理名を告げる。「それとスナックもちょうだい」と付け加える。お願いと言って、受話器を元に戻す。
 リビングスペースに戻ってきて、チェアに腰を掛ける。「それで、何の話をしていたっけ?」
「僕の気持ちが君にうまく届いていないのではないか、という話」僕は答える。
 少女は暫くの間思案する。だがすぐに口を開いた。「あなたはそのことに不満を抱いているの?」
「…どうだろう。言われてみると、はっきりとした答えを出すことはできないのかもしれない。いままでうまく気持ちを伝えることができたという経験は、ほんの僅かしかない。それも完璧とは程遠い形で」
「もちろん完璧にではないだろうけれど、少なくともわたしは、あなたから親密な気持ちは受け取っている。とても好意的な気持ちを」
「そのことに対して、きみはどういう感情を抱いているのかな?」
「とても喜んでいると思う」と少女は言う。声の響き方に、より一層特殊な要素を含ませながら。おそらく少女が意図したというよりかは、少女の感情の有機的な反映によるものだろう。
「思う?随分と曖昧な感じだね。でも君の僕に対する心象が、おおむね良好なものであってよかったよ。少なくとも僕からの一方的なものではなかった」
「あるいは不公平かもしれないけどね」少女は口角を僅かに上げて、悪戯っぽい表情を浮かべて言う。「とにかく、これであなたの不満は少しは解消された?」
「いくらかは」僕は頷いて言う。
 時間がとてもゆっくりと流れていく。もっとも僕も少女も、時計をろくに見ることはなかったから、客観的な妥当性はないけれど、すべてのものごとが僕たち二人だけを残して、どこか遠いところへ去ってしまったような気分に陥った。でも世俗的な流れから取り残されて寂しいなどと言う感情は微塵も湧かなかった。むしろ本来の在り方に回帰したようだ。ここには僕と彼女だけがいる。
「おかわりはいる?」
 僕のグラスが空っぽになりかけたのを見て、少女が言う。女性に酌をさせるのは僕の信条に反したので、僕はボトルを手に取って自分で注ぐ。グラスは再びカティサークで満たされた。
「わたしが注いでもよかったのに」
「いやなんとなくね。僕のささやかな信条に反したから」
「ふふ、おかしいのね。他にもそうした信条はあるの?」
「あるよ。例えばシャツは必ず左半分からかけるとか」これは僕の第一の信条だった。
「そうすることに何か意味はあるの?」
「意味なんかないさ。ただそうしたことの積み重ねだと思うんだ」
 少女はよくわからないといった顔をして、グラスを口に運ぶ。別に僕だって意味なんてわかっていない。ただアイロンをかけるときは左からだったし、ウインカーを操作するときは薬指で操作する、というだけのことだ。
 そのとき部屋のベルがなった。ロビーにあったものほど荘厳ではなかったが、世間一般のベルの概念からはいくらか逸脱した響きを持っていた。少女が立ち上がろうとするのを制して、僕が玄関に向かう。
 ドアを開くとそこに居たのは、さきほどの小柄な老人ではなく、とても背の高い色白の青年だった。真っ黒の髪はその白い顔に垂れ、あまり表情を読み取ることができなかった。彼の手はキャスターに掛けられており、その上のトレイにはカルボナーラが二皿と、深い皿に入れられたポップコーンが乗っていた。それらの料理を乗せた皿は淡いグレーの色をしていた。
 青年は何も言わずトレイを持ち上げ、僕の方に差し出してきた。僕はありがとうと言ってそれを受け取る。部屋の中に一歩下がると、青年が扉を閉め、応酬はそれで完結した。いささか無愛想な気もしたが、青年は料理を部屋に届け、僕はそれを無事に受け取った。何も不足したものはないはずだ。僕はトレイを慎重にサイドテーブルへと運ぶ。
 二つのチェアの中間に置かれたサイドテーブルにトレイを運ぶと、少女が手を伸ばしてポップコーンを何個か掴んだ。長い間それを待っていたかのように。掴んでから口まで運ぶ動きは洗練されており、一切の無駄がなかった。僕はその様子を眺めながらチェアに座った。
「お酒、特に濃いウイスキーなんかを飲むと、ポップコーンを無性に食べたくなるの。そういうのってわたしだけかな?」
「あまり聞いたことはないな」カルボナーラに添えられたフォークを手に取って僕は答える。
「すごくお似合いのセットだと思うけどな」ポップコーンを食みながら少女が言う。
 リクライニングチェアに身を預けたままでは食べにくいので、僕は起き上がってカルボナーラをフォークに巻き付けて口に運ぶ。それはよくできたカルボナーラだった。塩気とチーズのバランスは最適だったし、麺はモチモチしていた。そして胡椒も適切に振りかけられており、ベーコンの焼き具合はおそらく完璧な部類だった。
 ポップコーンを食べる美しい少女と一緒に、美味しいカルボナーラを食べるというのはどこか奇妙な光景だった。二人で一緒にパスタを食べるというのはありそうだが、少女は自分のカルボナーラには手を付けず、ひたすらにポップコーンを食べていた。ときどき細い指についた油を舐めていた。その仕草はとても様になっている。ジャン=リュック・ゴダールの映画で、アンナ・カリーナが煙草を吸うシーンのように。
 やがて深い皿の三分の一程のポップコーンを食べきってから、ようやくフォークを手に取ってカルボナーラを食べ始めた。
「わたしの顔に何か付いている?」
 どうやら彼女の顔を見つめ過ぎたようだ。そんなこと僕は意識の片隅にも浮かばなかったけれど、確かに気づかないうちにフォークに巻き付けたはずのパスタは、その先端から解けていた。
「君はとても美味しそうにものを食べるね」
「ありがとう。そう言ってくれて嬉しいわ」そう言ってフォークを口に運ぶ。「あなたは人を褒めるのが上手いのね」
「そんなことは初めて言われたな。いままではむしろ、反対の意味合いのことを言われることのほうが多かった」
「本当に?もしかするとそう言った人は見る目がなかったのかもね」
「どうだろう。本人たちに聞いてみないことには何とも言えない」
 そう言って僕は、深い皿に三分の二ほど残されたポップコーンを手に取って食べる。特有の食感と共に仄かな塩気が口の中に広がる。おそらくあの絶妙な噛み心地はポップコーン特有のものであって、他の食べ物では味わうことはできないだろう。世界のどこか辺境の村にはもしかしたら、似た食感でもまったく異なる食べ物が存在するのかもしれないけれど。少なくとも僕の見識の範疇ではポップコーンに特有だと思う。
「どう?ウイスキーと合うと思わない?」少女が僕の目を覗いてくる。その目には循環の息吹が見受けられた。
「初めてウイスキーと一緒に食べたけど、なかなかいける」
「でしょう。何もポップコーンが合うのは映画館で飲むコーラだけではないの」
「知らなかった」

 そのとき突然、ある風景が僕の脳裏に差し込まれた。それはあまりにも唐突のことであり、何か明確なトリガーがあったわけでもないから、僕はいささかの戸惑いを覚えた。
 僕たちは夏の初めのある日、森の中を巡る細い道を、黄色のフィアット500Cで走っている。よくイメージに浮かぶ黄色のフィアットよりも、幾分濃い黄色をしていた。色彩論的な黄色の中でもかなり濃い部類に入ると思う。キャンパストップの屋根が大きく開くタイプで、爽やかな空気が垂れ込める森の中を、屋根を開けて走っていた。心地良い空気の群れ群れが頬を撫でていく。ささやかな挨拶を交わしていくように。僕はその感触を純粋に気持ちいいと感じる。とても触り心地のいい生地のクッションに、顔をうずめたときのように。
 隣には当時付き合っていた女性が座っていた。それがいつのことだったか、つまり僕のこれまでの人生において、どの部分でその人と付き合っていて、付き合っていた限定的な期間のどの地点のシーンなのか、まったく思い出せない。思い出そうとしても、何一つ記憶の取っ掛かりが見当たらない。少なくともここ最近のことではない、随分と昔の出来事であるとしか言えない。別に忘れようとしたわけではないけれど、その後に積み重ねられていった経験の束によって、次第に薄められていった。記憶は深い深い底に眠っていた。
 でも完全には消滅しなかったようで、いま僕の頭の中に、そのときの光景が唐突に浮かんできた。黄色のキャンパストップのフィアットに乗って森の中を走る光景が。
 空を薄く覆う木々の間から漏れてくる陽光は、どこまでも優しく、周囲の色彩に生命の予感をもたらしていた。風は大地の匂いを含んで、直截僕たちの元へ運んでくる。苔むした地面からは木々が何本も伸び、天然の観察者として屹立している。それらの木々の間を貫いて、道路はときどき緩やかなカーブを描いて、伸びている。おそらくは目的地のないドライブだった。
 そうした風景の中を走りながら僕たちがどんな言葉を交わしたのか、そんなことはもちろん覚えていない。何か意味があることを話していた気もするが、それは当時の時間軸においてであって、今となっては記憶の古びた一層でしかない。当時における意味合いが、現在もそのまま保証されているわけではない。
 どうしていま、そんな光景が再生されたのだろうか。長い間ずっと何処か奥深くに保存されて、その存在すら忘れかけていたものが、こうして蘇ってきた。かなりの彩度をもって。
僕は随分と長い間、その映像がもたらした余韻に浸っていたようだ。少女が不思議そうに僕の顔を覗いていることに気が付いた。
「どうしたの?」
「いや、何というか…僕の中の古い映像が蘇ってきた」
「どういうこと?」
 そう聞かれても、上手く説明できる自信はない。
「昔、経験した一コマが突然再生されたんだ。君にもそういうことはない?」
「しばしば、というほどでもないけれど、あることはあるわ。何がきっかけとなるのかはわからないけれど。どういう映像が浮かんできたの?」
「黄色のコンバーチブルのフィアットに乗って、森の中を走る映像」僕はそのままのことを言う。言葉では表現しきれない数々のものが、抜け落ちてしまったような気もするが、これが最も適切に伝えることができる方法だった。
「なかなか素敵な光景じゃない」少女が空になったグラスに、新しくカティサークを注ぎながら言う。「それはあなたが実際に体験したこと?」
僕は頷く。「細かいところは随分と曖昧になってはいるけれど、確実に僕が体験したことだ」
「それが、どうしていま思い出されたのかしら?」
 僕は首を振る。「まったくわからない。いままでずっと何処か遠くで保管されていたものが、突然浮かび上がって来たんだ」
「もしかするとスコッチウイスキーとポップコーンの組み合わせのせいかもしれないわね」少女は笑みを浮かべながら言う。その笑みは僕の脳裏に浮かんだ映像の女性と、どことなく似ているような気もした。
「…まさか」僕は皿の中に入れられたポップコーンに手を伸ばし、口に運ぶ。特有の食感が口の中で弾けるのを感じながら、塩気が広がっていくのを味わう。
「記憶って案外適当なもので、何食わぬ顔してひょいって顔を覗かせることもあるわ。その契機がポップコーンであったとしても、別に不思議ではないかも」
「どうだろう。あまりポップコーンに対して思い出はないな。映画館で気が向いたときに買うくらいで」
「それは結構もったいないことをしているわ。映画を見ながら食べるポップコーンもいいけれど、それだけで済ましてしまうのはナンセンス」少女が皿に手を伸ばす。
「君は随分ポップコーンに対して肩を貸すんだね」
「あなたにも何かそうしたものが一つくらいあるでしょ。わたしの場合、それがポップコーンだったってだけ」少女が柔らかく咀嚼しながら言う。「それで?」
「いや、その先はない。ただ運転している光景だけが浮かんだんだ」
「ふーん、そのあとあなたはどこへ向かったの?」
「僕だけじゃなかった。その当時付き合っていた女性と一緒だった。たしか二人で森の中にあるカフェに向かったと思う」映像を端緒に、記憶の影がおぼろ気に姿を見せてきた。
「いいじゃない。森の中にあるカフェ」
「うん、木漏れ日が差し込む森の中に、ロッジ風の建物があって、水琴窟の音が鳴っているんだ。苔むした庭にあるガーデンチェアに座って、コーヒーを飲みながら、僕はヘミングウェイ、彼女は確かプルーストを読んでいた」
「失われた時を求めて?」
「おそらくそうだったと思う。もう随分前のことだから、はっきりとは覚えていないけれど」
「いい思い出じゃない。それが色褪せないでずっと保管されていたわけね」
「ああ、でもどうしていま唐突に思い出したんだろう」
 少女は僕がどこへともなく投げかけた問いに対して、何も言わず首を僅かに横に傾けることで答えた。さあ、わたしにもわからない、とでも言わんばかりに。実際に彼女はそう口に出しており、僕がそれを聞き取らなかったのかもしれない。
 僕はカルボナーラをフォークに丹念に巻いて口に運ぶ。塩気が混じって最初とは違う味にも感じたが、それはむしろチーズの濃厚さを際立てていた。僕たち二人はパスタを食べ進める。フォークと皿が触れる音と、二人の小さな咀嚼音以外に音は存在しない。この建物は防音装置も十分なようで、本当に他の音が消え失せてしまったかのような感覚に陥る。部屋は深い砂の中に覆われているようだった。
 やがて僕はパスタを食べ終わる。温かい充溢感を覚える。グラスにカティサークを新たに注いで、まだパスタを食べている少女にこう尋ねる。
「君のことを少し教えてくれないだろうか」
 少女はパスタを口に入れたまま、少し驚いたような顔をする。どうしてそんな表情を浮かべたのかはわからない。あるいは僕が穿った見方をしただけかもしれない。ただ、僕は何か的外れなことを口にしてしまったような気分になった。少女は口の中のパスタをゆっくりと飲み下してから口を開く。
「わたしのどういうことを知りたいの?」その顔には既に、先ほど浮かんだ驚いたような表情はなかった。やはり僕の思い過ごしだったのだろうか。
「例えば年齢とか」
「十八歳」事もなげに彼女は言う。
「十八歳?本当に?」
「そんなことで嘘をついて何になるの?わたしは純粋な十八歳よ」
 純粋な十八歳。その言葉の響きに不思議な印象を覚えたが、それよりも彼女が口にした事実に耳を疑った。
「とてもそんな風には見えない」
「よく言われるわ」そう言って少女はフォークを置いて、代わりにグラスを手に取る。「ねえ、わたしってそんなに老けて見えるのかしら」
「…いや、決してそんなことはない。決して。ただ何と言うか」
「なに?」
「どこかそうした評価軸では測れないものを、君からは感じる。年齢というある種の通俗的な評価軸ではどうしても測れないものを」
「…それはどう受けて止めたらいいのかしら」
「少なくとも僕には君を貶す意図はないよ」
「そう。ならいいわ」そしてグラスの中身を口に入れる。「他に聞きたいことは?」
「そうだね。とてもつまらない質問でもいいかい?」
 少女は仕草でどうぞと示す。
「世間一般の十八歳なら、学校に通って受験勉強をしてという流れだろうけれど、君はそうしたことはしないのだろうか」
「ええ、まったく興味がないから」グラスの中身を見つめながら言う。そこに何かの示唆を見出すように。「そんなことして一体何がしたいの」
「…それは僕も未だによくわかっていない。ただ何となくみんなが受験するか受験をし、みんながどこかの企業に入るから僕もそうして、そんなことをやっていたら現在になっていた」
「そのことについてあなたはどう思っているの?」
「間違ったことをしたとは思っていない。でもそれが正解だったのかはよくわからない。他の選択肢ももちろんあっただろうけれど、いまとなっては仮説にすぎない」
「そこに辿り着くことはできない」少女がゆっくりとグラスを回しながら言う。それに合わせて氷がぶつかる小気味いい音が、ほんの一時だけ響く。
「ああ、その通りだ。どうやっても、たとえどんなに切実に願ったとしても、辿り着くことはできない」
「いまのあなた自身に満足している?」
 僕は答えをしばらくの間保留する。答える代わりに、空になりかけたグラスに新しく氷を足す。氷はやはり小気味いい音を立てた。
「それはとても難しいことなんじゃないかな。僕はそう思うよ。いま充実しているとそのとき思っていても、後になってみると案外そうでもなかったりする。あるいはその逆もあり得る。いずれにしても、一つひとつゆっくりと積み重ねていくしかないんじゃないかな」
「それがあなたのいま時点での答え?」
 僕は無言で頷く。そしてグラスにウイスキーを注ぐ。すぐには飲まず、グラスを口に近づけたまま匂いを味わう。どこか懐かしい断片が、ウイスキーに付随して時間軸を超えて運ばれてきた。
「話が幾分抽象的になってきた気がする」僕は呟く。誰に対してということもなく。
「あら、そうした話は嫌い?」
「そんなことはないけれど、君の実際的なことを知りたい。君のことを尋ねたつもりが、いつの間にか僕が一方的に話している」
「わたしの実際的なこと…」
「そう、僕はまだ君の年齢くらいしか知らない」
 少女は手を伸ばし、ポップコーンを掴んで口に持って行く。「隠したり、もったいぶったりするわけではないけれど、特にこれと言って話すことはないの」
「まったく?」
 少女は頷く。
「君は兄弟はいる?」
「姉がいるわ」
「何歳上?」
「三歳」
「そのお姉さんとは仲はいい?」
「ねえ、なんだかこれって誘導尋問みたいじゃない」
「たしかにそうかもしれない。このまま続けても構わない?」
「あなたがそう望むのなら」
「じゃあ、もう少しだけ。好きなものは?」
「当たり障りのない質問ね」
「そうだね。でも他に何か気の利く質問が見当たらないんだ」
 少女は軽く首を横に振る。やれやれと言うように。「映画を見るのが好き」
「どの映画が一番のお気に入り?」
 しばらく考え込む。「難しい質問ね。そのときの気分にも左右されるわ。ハードな気分に浸りたいときは『ゴッドファーザー』とか。ボヘミアンなときは『パルプ・フィクション』とか。たまにだけど陰鬱なものを見たいときは『セブン』」
「だから君はポップコーンが好き?」
「そんなに安直ではなくて複雑な過程があったけれど、結論としてはそうよ」
「ぜひ君と一緒に映画を見てみたいな」
「あら、それはデートのお誘い?」
「そう捉えてもらって構わない」
「なんだか回りくどい言い回しをするのね」
「たぶん僕の癖だろう」
 そこで僕はいったん会話を打ち切って、グラスを手に取る。少女もそれに倣う。随分と飲んだ気もするが、厳密に数えていたわけではないから何とも言えない。ただ口に含ませているだけの時間も多かった気もする。少女の顔には一切と言っていいほど、変化は見られなかった。赤みを増すようなこともないし、呂律もしっかりしている。
「たしかプロジェクターがこの部屋にあった気がする」少女がグラスをサイドテーブルに戻して言う。立ち上がって壁の一面に備え付けられた開き扉に向かう。その扉は黒の金属調の素材でできていたが、もしかすると実際に金属で構成されていたのかもしれない。容易には中身を開陳しないような雰囲気を帯びていた。少女がノブを掴み扉を開く。
 扉の先はウォークインクローゼットだった。衣服を掛けられるのは一部で、そこに空っぽのハンガーが何個かぶら下がっており、その他はラックとなっていた。ラックもほとんど物は置かれておらず、空白を携えて何かが置かれるのに。見たところ埃は溜まっておらず、入念な清掃がここにも行き届いていることがわかった。
 少女はクローゼットの中に踏み入り、中を見回す。僕はその様子をリクライニングチェアに深く腰掛けたまま眺める。
「あったわ」手を上に伸ばして、少女は少し背伸びをする。予想していたよりも幾分小型の機械を手に持って、彼女がこちらに戻ってくる。プロジェクタ―と言ったら、丸まったチワワくらいの大きさはあると思っていたが、最近のものは片方の掌に乗るサイズにまで小型化および軽量化されているようだ。
 電源を差し込み、起動ボタンを押し、やがて光が壁に投影される。
「何が見たい?」少女が僕に訊ねる。
「うーん、そうだね。初めて訪れた瀟洒な建物で、綺麗で若い女性と、ウイスキーを片手に鑑賞するのにふさわしいものかな」
「ふふ、随分要求が多いのね」
「そういう映画はあるだろうか」
「『』なんてどう?」
「申し分ない」
 画面上で『』が選択される。レコードを選ぶときのような情緒、たとえばジャケットを見て収録曲を確認して、以前流したときの思い出なんかも加味したその上で初めて選ぶ、といったものはなかったけれど。画面が暗転して、小型のプロジェクタ―が微かに稼働音を上げる。
 以前『』を見たのはいつだっただろうか。これには個人差が大分あるのかもしれないが、僕の場合映画を誰と見たのかは覚えているけれど、いつどこでのことなのかは、曖昧になってしまう。そうした情報は僕の中ではあまり重要な位置を占めないのだろう。もっとも誰と見たかは鮮明に覚えているから、その人と親密に過ごした時期というのも、付随して思い起こされるのだけれど。
 いずれにせよ、『』を鑑賞した記憶というのは、いまここで上書きされていくはずだ。様々な関連する要素も含めて。例えば、情景や時間や酔い具合といったもの。でもそれで以前の記憶が損なわれることはない。それは僕の中で大事にしまわれており、何者も干渉することはできない。時の流れによる風化作用によるもの以外は。
 時々、それらは互いに混じり合うことがある。暖流と寒流がぶつかるみたいに。でも本質の部分は決して露呈することはないし、失われることもない。丁寧に大切に保管されている。ぶつかって混成された記憶は、僕を大いに戸惑わせることになるが、別にそれで日常生活に支障が出るわけではない。ただどこか物寂しい思いをするだけだ。人はそれを何と呼ぶのだろう。
 映画が始まる。

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