まるで二つの薬を提示されているかのように

 目が覚めると、そこはいつもの天井だった。ほぼ毎日見ている光景、無意識のうちにへばりついた光景。何の特徴、あるいは染みもない白い天井。どうやら僕は自宅のベッドで眠っていたようだ。久しぶりに深い眠りの中に入り込んでいた感覚がある。まだ眠りの予兆が若干、帯を引いて残っているが、目を開いているうちに正常に覚醒の段階を進んでいった。
 昨夜、加瀬と名乗る男と二人で飲み、そこからの記憶がすっぽりと抜けている。僕は一体どうやって家に帰り着いたのだろう。記憶にあるのは、心地よいアルコールの感覚に浸っていたことと、秘匿されたようなバーの雰囲気だけだ。いつ店を出て、加瀬と別れたあとどうやって帰って来たのか。
 ひとまずベッドから出て立ち会あがる。かなりの量の酒を飲んだはずだが、その名残りはない。いつになく頭はすっきりとしている。口の中は乾いていたが、酒を飲んだあと特有の嫌な感覚もない。記憶と共にアルコールもどこかへ消えてしまったのだろうか。
カーテンまで歩いていき、勢いを持って開く。家に戻って来た覚えすらないのに、律儀にカーテンは閉められていた。遮るものがなくなった窓から、留保なく陽光が差し込んでくる。その眩しさに一瞬目を細めるが、次第に慣れ、恵みを全身で享受する。意識がもう一段階覚醒し、全身を血液が巡り、その感覚をはっきりと覚える。隅々にまで意識を行き渡らせる。窓の向こうに見える青空と同じく、そこに不純物はなかった。怠りなくすべてが循環していた。
キッチンに行き、蛇口を捻り、コップに水を注いで飲む。水が渇いた喉を潤していく。そのままコップを飲み干すと、もう一度注いで二杯目を飲む。渇きはある程度癒されたが、完全ではなかった。ただそれ以上飲む気にもならなかったので、キッチンを出て洗面所に向かう。
鏡の中に映る僕を見た瞬間、美しい少女との一連のやり取りが、頭の中に蘇って来た。特に何が契機となったかは定かではないが、僕が鏡の中に映る人物を僕と認識した瞬間、それは猛烈と言っていい程の勢いで、どこからか僕の頭に降って来た。よく訓練された特殊部隊のように。あれは果たして夢だったのだろうか。あるいはそれに類するものか。それにしては細部まではっきりと思い出すことができるし、彼女もここは狭間のような場所だと言っていた。だが現実ではないことは確かだ。逆に言えば、それくらいしか確信を持って言えることはない。すべては僕の妄想として片づけることも可能だ。
でもあまりにもリアリティがあったし、彼女は「また会いましょう」と言った。その言葉をそのまま受け取る程、僕も若くはなかったけれど、彼女の言葉を信じてもいいような気がした。あくまで気がするというだけであって、確信のない希望のようなものだった。彼女には、相手にそう思わせる何かがあったのだろう。少なくとも僕はそういうものを実際に抱いている。それが彼女の言っていた望むということなのだろうか。僕には具体的な示唆が与えられていない。自分で何かしらの手掛かりを掴むことが求められている。それに会うとしても、あの場所でなのだろうか。あるいはこの現実においてなのだろうか。言うまでもないことだが、いま鏡の前に立ってその中身を見つめている僕は、確かに現実に居ると認識している。
考えれば考えるほど、訳がわからなくなってきた。全貌の見えない迷路に入り込んでしまっていた。その迷路に出口があるのかわからないし、そもそもどうやって入ったのか覚えていない。気が付いたら四方を壁に囲まれていた感覚だ。導くのは「望む」という行為。それはある種の成功哲学のようなものなのだろうか。強く望めば現実化するといった類の。
ひとまず入り組んだ思考を洗い流すために、蛇口を捻って水を出し、その冷たい水で顔を洗う。何度か水を手で掬って、顔に柔らかく当てる。棚に並べられたタオルのうち一つを手に取り、顔に残った水滴を拭き取る。また一段階意識が明瞭になった。
洗面所を出て、またキッチンに戻る。食欲はあまり感じなかったが、何も食べないとそれはそれで厄介な空腹感にあとで襲われるので、とりあえず口に入れられるものがないか、冷蔵庫を開けて探る。先週買ったハムと、野菜室には若干しおれたレタスがあったので、それを取り出してパンで挟んでサンドウィッチを作る。出来の良いサンドウィッチとは言い難いが、それで十分だった。少なくとも数時間は空腹感から免れることができる。それに料理に凝り出せば、際限がなくなる。上等なサンドウィッチにしようと思ったら、いくらでも手間と時間あるいはお金を掛けることもできる。あまりそうしたことには、僕は興味が湧かなかった。
サンドウィッチを食べ終わり、それを乗せていた皿を洗って、ポットに水を入れて沸かす。沸くまでの間、音楽を流して、それに耳を傾ける。ソニー・ロリンズのザ・ブリッジを聞き終わったところで、少女が僕にセロニアス・モンクを教えてもらったと言っていたのを思い出し、彼が演奏するラウンド・ミッドナイトを流す。ピアノソロだけのシンプルなバージョンだ。最低限のリズムをとるドラムやベースすら介在しない。彼のピアノだけが曲を奏でている。どういった経緯で僕は彼女に、セロニアス・モンクを教えたのだろう。CDを彼女に貸したのか、あるいは曲を一緒に聞いたのか。あの年代の女性にモンクは響いたのだろうか。少女はそれについても何も言ってくれなかった。ただ少なくとも、僕が教えたというジャズピアニストの名前を憶えていて、そのことを僕に伝えてくれた。
その曲の途中でポットが沸騰したので火を止めて、コーヒーフィルターに入れた粉末コーヒーにお湯を注ぐ。じっくりと時間を掛けて抽出させる。フィルターからマグカップに向かって、滴り落ちていく。その様子を仔細に観察する。そこに何かしらのヒントが含まれていないかと。「望む」という行為の具体的な方法が、記載されたマニュアルがないかと。
当然のことながら、コーヒーにそのような示唆が含まれているはずもなく、マグカップは満たされ、純粋なコーヒーが出来上がった。フィルターを取り外し、少しマグカップを揺らしてから口に入れる。なかなかのコーヒーだった。(ここで、芳醇な香りが鼻腔一杯に広がり云々といった、コーヒーに関する描写を入れてもいいのだが、使い古された表現しか浮かばないし、使い古されるほど使用された表現は、とても味わい深いものであるが故に使い古されているわけであって…とにかくそのコーヒーは美味しかった。)
時間を掛けて、じっくりと味を吟味しながらコーヒーを飲んでいく。ゆったりとあらゆる物事が停滞しているかのように感じる。せわしない潮流から隔絶された、人目に付かない溜まりに入ったかのように。何者にも脅かされず、また損なわれることもない。聞いたことのない声の鳥が窓の外で啼いている。初めて聞く音色だ。いままでその鳥はどこに居たのだろうか。あるいは僕がその鳥が居るところへやって来たのだろうか。
マグカップを持って、ソファに移動する。あまり座り心地が良いとは言えなかったが、僕はそのソファが気に入っていた。過度に反発することなく、座った人を総体として受け入れてくれる。大きさも部屋のサイズに適していた。そのソファに座ってコーヒーを飲んでいると、自然と感覚が研ぎ澄まされていった。ピントが適切な位置に調整され、余計なものが捨象されていく。そうすることでコーヒーはより味わい深いものになるし、流れる音楽はより感慨深いものになる。対象からより本来的な触発を受け取ることができる。あくまでそう感じるだけであって、客観的な証左はないけれど。
マグカップをソファの脇のテーブルに置き、座ったまま上体を伸ばしてみる。腕と背中を限界まで上に掲げる。背骨の一つ一つの間隔が拡げられていく。普段押し付けてくる力へ反発を試みる。身体機能が怠りなく活動していることを確認する。

コーヒーの香りに浸っていると、昨日のことが頭によぎってくる。見知らぬ長身の男に連れられて入ったバー、そこで交わした会話、アルコールの心地良い酩酊感、そしてその後の長い夢、そこに出てきた美しい少女。彼女はあの場所を、夢と現実の狭間のような場所と推測していたが、ここでは便宜上夢と表現しておく。一連の出来事が昨日の晩のうち、あるいはさっき僕が目覚めるまでの短い間に起こった。にわかには受け入れがたい事実だ。そもそも事実かどうかすら確証はない。何を以てして事実とするのかは、厳密な定義づけを要するのかもしれないが、とにかく僕はそれらの出来事を、実際に僕の身に起こったこととして捉えてみようと思う。そうすることで何か不都合なことが持ち上がるわけでもないし、むしろ彼らとの会話、そこから得られた相互の疎通の感覚を、現実に基づかないものとして棄却することは惜しい気がした。お気に入りの服にハンバーガーの中身のトマトをこぼしたときのように。(まったく適切な例えとは言えないが、これは実際に僕がデート中に経験した感覚である。お気に入りの服にこぼしてしまったということと、ハンバーガーを損なってしまったという二つの事実。)とにかく昨日のことは、意識の上下ないしは内外を問わず、僕の身に起こったこととして受け入れてみようと思う。

ふとあることに気が付く。

会社はどうした?

その瞬間、全身に冷たい水をかけられた感覚に陥った。そしてすぐに身体中の汗腺が開き、冷や汗が滲み出てくるような気がした。とても嫌な汗だ。ゆっくりと下へ伝っていくのを感じる。今日は何曜日だった?少し非現実的な出来事が立て続けにあったことで忘れていたが、世の中は平常に運行している。僕の意志に関わらず、すべてのものを乗せて。昨日が水曜日なら、今日は木曜日だ。わりと結構な時間を要してそのことを思い出す。時計を仰ぎ見ると、普段家を出る時刻をとうに過ぎていた。慌てて立ち上がり、マグカップをソファ脇のテーブルに置きっぱなしにしたまま、クローゼットへ向かう。すっかり頭から抜け落ちていた。僕はあくまで日常に居るということを。というか僕が居るから日常と呼べる。それはちょっとのことでは動じることなく、何食わぬ顔をして過ぎていく。そしてその日常はとても退屈だということを。まるで壊れたレコードプレーヤーが、同じ位置で針がずっと回っているように。何度も何度も同じ溝を通り過ぎる。昨日も今日も、おそらくは明日も。その溝からは歪な音が奏でられる。とてもじゃないが聞いていられない。救いを求めるある種の叫びのように聞こえる。その叫びは誰の耳にも届かない。虚空の中に消滅してしまう。誰か聞いてくれる人はいないのか?
目についたシャツを取り出し、そのまま頭からかぶる。もちろんアイロンなんて掛けられていない。だがこの程度ならなんとか許容されるだろう。丸めて置いてあったネクタイを手に取り、結わこうとしたそのとき、玄関のチャイムが鳴る。それは不自然なほど軽やかな響きを持っていた。
誰だこんなタイミングに。とてもじゃないけれど構っておられず、チャイムを無視して準備を遂行する。本格的に時間が迫って来ていた。まさに押し寄せて僕を飲み込もうとしている。しばらくしてもう一度鳴らされる。先程と同様の響きを持っていた。いまの僕の状況に似つかわしくないその音に、イラつきを覚える。
「おはようございます」
 薄いドアの向こうから男の声が届く。その声は吹き抜ける風のような心地よさを帯びていた。ある種、浮世離れした感じもする。そして僕には聞き覚えがあった。
 支度を一度中断し、玄関に向かう。ドアの覗き口から外を見ると、あの男が立っていた。昨日の男だ。僕はゆっくりとドアを開ける。この季節特有の匂いを含んだ風が、部屋に流れてきた。
「おはようございます」加瀬は僕に向かって、改めて言う。「起こしてしまいましたか?」
「何の用かな。いまはすぐにでも会社に行かなければならないから、また日を改めてくれないかな」自然と僕は早口になっていた。
 加瀬は少し驚きの色を顔に浮かべる。「あれ、覚えていないんですか?」
「何を?」
「昨日、あなたが言っていたじゃないですか」
 そう言われて、思い当たるものがないか探ってみる。しかしそんなものは、どれほど時間をかけて入念に探ってみても、見つかりそうもなかった。奥深くに秘匿され、その存在すら忘れているようだった。おそらくアルコールのせいだろう。
「悪いんだけど、昨日は飲み過ぎて記憶が曖昧なんだ。とにかく今度にしてくれないか」
「うーん、そう言われても…何も覚えていないんですね」
 僕は目線で首肯する。そして今すぐにでも家を出なければいけないこと訴える。
「ここで立ち話を続けるのは何ですから、中に入ってもいいですか?」話をするつもりなどないのに、僕の無言の訴えを無視して、加瀬は言った。そして僕の返事を待たず、超自然的とも思えるある種の力で、家の中に入って来た。昨日のことを仄かに思い出す。この男のこうした力に、僕はついていったのだと。一見すると不条理に思える事でも、有無を言わせず人を信じさせる力。この男に従うべきだと思わせる力。これは方向、あるいは意図を誤れば、とても危険なものになり得るのかもしれない。柔らかい雰囲気を纏っているこの男の、どこからそのような力が発せられているのだろうか。
 加瀬は僕の家のリビングの中へ進み、真ん中に立つ。家の中で見ると、改めて背が高く感じる。一九〇センチ近いその体躯に、天井が迫って見える。
「男の一人暮らしにしては整然としていますね」部屋の中を見回して言う。
 この男を帰していますぐに会社に行くべきと唱える自分と、この男の言動にしばらく付き合ってみるべきだと唱える自分が、拮抗している。当然のこと、ここでの当然とは、社会通念的なものを意図するが、社会通念に従うなら会社に行くことを選択する。しかしそうした社会通念に従い続けた結果がいまの僕、というのも紛れもない事実だ。進むべき道というものが提示され、その道から逸れないよう生きてきた。一見するとその道は安泰なもののように思える。道を最後まで何事もなく進むことが幸せだと。誰が言い始めたのかわからないが、そうした認識が巨大なマスの間で共通の認識とされている。
 その認識の甘美な幻想を醒ますのが、この男なのかもしれない。

「そんなとこに突っ立ってないで、まあ座ってください」
 
自分の家なのに、という思いが浮かびかけるが、そんな思いは些末なものとしてすぐに消えていく。やはり加瀬にはどこか、人を盲目的にさせる要素が含まれている。
僕はソファに腰かける。ソファはいつものように、僕を総体として受け入れてくれた。そしてそれと共に、時間に追われているという感覚も、半ば諦めのヴェールに包まれて、薄らいでいった。そこはかとない背徳感で織られたヴェールに。
加瀬は僕の様子を確認してから、ダイニングチェアに掛ける。テーブルとチェア一式は友人が引っ越しをする際に不要になったものを譲ってもらったのだが、自分で選んだわけでもないのに僕の感性を無性に揺さぶった。一言で言えば僕のセンスとマッチしていた。無駄な装飾を一切省いたデザインで、機能性も申し分ない。そのテーブルの向こうに座った加瀬は言った。
「いい匂いがしますね。コーヒーを飲んでいたんですか?」
 僕は頷く。なかなか本題、僕の家を平日の朝に訪ねてきた理由を話さないことに、腹立たしさのようなものを覚えるが、加瀬はそれも見抜いた上で、枝葉のような会話をしているような気もした。この会話も、ある時点で必要となるものなのかもしれない。
「もしよろしければ、一杯もらえますか?」
 僕は座ったばかりのソファから立ち上がり、キッチンへ向かう。おそらく加瀬は拒否されることを微塵も考慮していなかっただろう。口ぶりからそう伺えた。だが特に不快な気はしなかった。そんなことを思いながらポットに火をつける。
 先程と同様の手順でコーヒーを一杯入れる。フィルターからマグカップにコーヒーが滴り、やがてマグカップを満たす。芳醇な香りが部屋を塗り替える。天井の隅に至るまで。僕がコーヒーを淹れる一連の動作を、加瀬はそれとなく見ていた。ダイニングチェアに腰掛けたまま。人に見られているという意識は、どことなく僕を落ち着かなくさせたが、身に染みついたコーヒーを淹れる動作は乱されることはなかった。いつもの手順に完璧に則ってコーヒーは淹れられた。
 マグカップを加瀬の前に差し出す。彼はそれをしばらくの間じっと見つめていた。そこに何か興味深いものが持ち上がるのを待っているかのように。もちろんそんなものは、発生するわけがないのだが、彼は毎度確認する癖があるようだ。発生しないことを確認した上で初めて口にする。ウイスキーもそのように飲んでいたのを、僕はふと思い出した。一口だけ口に含んで、じっくりと口の中で味わい、長い時間を掛けて喉の奥へ通していった。何段階もの厳格な手続きを踏んで飲み込まれていった。そして満足したように、マグカップをテーブルに戻した。
「とても美味しいコーヒーです」
「それはよかった」
「あなたは飲まないんですか?」
「僕はさっき飲んだばかりだから、いらない」
 加瀬は無言の相槌を打ち、カップを手に取り傾ける。
「それよりも、一体何の用だろう。平日の朝から」彼が長い時間を掛けてコーヒーを飲み込むのを待ってから、僕は尋ねる。
「すみません。でもなるべく早いほうがいいかと思って」
「何が?」
「昨日、あなたがおっしゃったことを実行するのが」
「申し訳ないんだけど、さっきも言った通り、昨日のことをほとんど覚えていないんだ」
加瀬が微かに純粋な笑みを浮かべる。そこに揶揄や嘲虐は含まれていなかった。少なくとも僕はそう受け取った。「昨日はずいぶん飲みましたものね」
「あれほど飲んだのは、久しぶりだ。でも不思議なことに、まったく尾を引いていない」
「記憶と引き換えに?」
「そう、記憶と共にアルコールもどこかへ消えてしまった」
「でも大丈夫です。記憶なら僕も関与していましたから。そして僕は細部に至るまで記憶しています」どこか誇らしげに彼が言う。笑みを添えて。
「それで昨日、僕は何を言ったんだろう」
「簡潔にまとめると、昨日あなたは助けてくれと、おっしゃいました」
「助けてくれ?」
「ええ、そうです。直接的な言葉をおっしゃったわけではありませんが、要旨をまとめるとそういう意図の言葉をおっしゃいました」
 僕はそれについて思案する。助けてくれ。その言葉にあまり現実性を感じられない。言葉の意味は理解できるが、そこに実体というか、重みが伴っていない。吹けばどこかへ飛んで行ってしまいそうな、埃のような軽さしか認められない。あくまで僕が発したという事実を加味した上での場合に。
「本当に僕がそう言った?」
「にわかには信じられませんか?ボイスレコーダーがあれば、客観的な証拠をお示しできますが、そんな野暮ったいものは持ち合わせていませんので」
「…僕がそういうことを口にするとは、あまり思えない」
「ですが、一つの事実として、確かにあなたは救いを求めていました」
「……」
 真っ向から加瀬の言葉を否定できない。明瞭な意識の下で、そうした言葉を口にしたことはないが、果てしなく広がる意識の裏側で、救いを求める感情が醸成されていった。そう考える事はできる。むしろそうした方が、物事の適切な解釈を行えるかもしれない。昨日加瀬と出逢う前、駅のホームに突っ立って、そこから線路をじっと眺めていた、という事実の解釈。あのとき、平時ではとても浮かんでこない、何か毒々しくもあるが、別の角度から見ると澄み切ったような感情が、僕の中で渦を巻いているのを確かに感じていた。それはやがて僕の体内を突き抜けて、僕自身を乗っ取ってしまいそうな勢いがあった。通常の思考回路をすべて塞ぎ、窒息させられてしまう。
「そう仮定したとして、つまり僕が実際に救いを求めていたとして、どうして君に求めたいしたのだろう。君と僕は昨日出逢ったばかりじゃないか」
「うーん、それについては何とも言い難いですね。あなたにしかわかり得ないことです。あなたでもわからないとなると、他者である僕には手の尽くしようがありません」
「それはそうだ。ただどうしても納得がいかないんだ。自分の行動について」
「自身の行動に対して、十全なる理解を得られることは少ない、と言ってしまえばそれまでですが、そんな突き放した言い方をするのは楽しくないので、このように考えてはいかがでしょう。誰でもいいから助けを求めていたが、そんなところに話しやすそうな男が現れたと」
「それは、あまりにも荒唐無稽だ」
「別にいいじゃありませんか。それで何か不都合が生じるわけでもありません。強いて言うならあなたは記憶を一部失っていますが」そう言って加瀬はマグカップを手に取り、コーヒーを飲む。その一連の仕草は、どこか通常の時間軸とは異なるものが感じられた。そしてそれによって、ある種の優美さが生み出されていた。
「柔軟にいきましょう。型に嵌った考えをしていても、その型通りの人形が出来上がるだけです。とても扱いやすい従順な人形が。だけれどもその人形は重大な欠陥を抱えています。これ以上は話の本筋から逸れるのでまた今度にしましょう。いまはあなたの話です」加瀬は指を僕に向けて指す。「あなたは救いを求めていました。型にぎちぎちに固められて、身動きを取ることができず、そこから抜け出すことを求めていました。おそらくご自身の力だけでは能いません。それほど複雑かつ巧妙に仕掛けられているものです。多くの人はそのことにすら気が付きません。あるいは破綻して初めて気が付くことができます。あなたは幸運にもこうして気が付くことができました。ただ自分ではそこからどうすることもできない。そこでちょうどいい具合に、僕が現れました。あなたの前に。僕はあなたにほんのちょっと手を貸します。抜け出すことができるように、その手法を」
「それで君は見返りに何を求めるんだい?」
「見返りですか?そんなものはいりません」
「何というか、そんな話をすぐに受け入れられるほど、僕は純粋じゃない。というか僕に限らずともそう言うだろう」
「そうなんですよね。どれだけ凝り固まっているのだか。ここで口座番号とか尋ねたほうが、高度資本主義社会では適切ですよね。」加瀬はその単語をやけに強調して言った。高度資本主義社会。「何とも面白味のない制度ですが、あいにく僕達が生きている社会がその制度を採用してしまっているので、仕方ありません。完全に解放されるには、社会そのものの根幹を変える、あるいは跡形もなく粉砕する必要がありますが、それには相応の力が必要になってきます。一見魅力的ですが、他者すら巻き込む、というか僕たち遍く構成員を巻き込むことになり、強権的とも取れます。マッチョイズムですね」ここまで述べると、またカップを手に取り、時間を掛けてコーヒーを飲み込む。そしてカップをテーブルに戻す。静かにカップがテーブルに触れる音が響く。その音は波紋となり、部屋のなかの空気を震わせる。
「それでは楽しくありません。そこで僕たちは、現実に片足を突っ込みつつ、もう片方の足で自由に飛び回ることを目指すことにしました。表向きは普通の社会生活を営んでいますが、裏では銃をぶっ放します。もちろんその銃は人を傷つけることはありません。ただ打ちたいがために打たれる銃です。銃でなくても構いません。マスタングでぶっ飛ばしたければ、そうします。一切のしがらみから解放されて、眠っていた双翼を自由に伸ばします。心が望むままに動きます。すべての物事が僕たちの中を、円滑に流れていきます。遮るものは何一つありません。そうして、何食わぬ顔で生活を送ります。どうですか?魅力的に聞こえませんか?」
「…あまり現実的とは思えないな。実際にそれが適えば、確かに魅力的だが、あまりに現実と乖離している」
「何をおっしゃるんですか。現実と乖離することこそ、僕たちが目指していると言ったではありませんか。あんな陳腐でつまらないものにしがみついていては、枯れてしまいます。もちろん完全に乖離することはできません。それはある種の狂乱を意味しますから。そうではなく、ある面では従順なフリをしておきながら、またある面では狂騒曲を奏でるんです。全身を身内から強烈に、それでも心地よく揺さぶる曲を。誰にでも響くものではありません。暗鬱な現実にとっぷり浸かってしまっている人には響きません。ごく少数の共振してくれる方を見つけて、取り込んでいきます。僕たちはそうして拡大しようとしています。お金が絡んだ瞬間に、切ってもらって構いません。そんなものには一抹の興味もありません。あ、嘘です。言い過ぎました。僕たちが暮らしていけるだけのお金しか興味ありません。これが適切でした。とにかく、お金なんかよりも本質的なものを沢山知っているので、必要最低限しかいりません。どうです?あなたもこちら側に来ませんか?」
そう言った加瀬の目は、妖しく輝いていた。彼の目の内に存在するプリズムは、彼自身の生命エネルギー、あるいはバイオリズムとでも言うべきものを摂り入れ、体外に放出していた。その溢れ出てきた粒子は、じっと見つめた人を陶酔されるものを含んでいた。とても凡俗な言葉では表象しがたいものが、その中から覗いていた。それは、獲物を見つけた肉食獣の目のように、燦々と煌めき、照準をしっかりと僕に見据えていた。
その光が一瞬隠れ、コーヒーに目を落としてこう言った。
「少し熱くなってしまいました。その一方であなたが淹れてくれたコーヒーは、残念なことに冷え始めています。それなりの時間が経過してしまいましたね。
強要するつもりは全くありません。来たい人だけ来ればいいのです。来たくない人は、そちらの現実で生き続けてもらうしかありません。どうぞご自由に。
こちらへ来たい人は誰でも拒まないと言いたいところですが、一つだけ要件があります。他者に危害を加えないことです。ミルの原則を流用させていただきました。危害を加えることさえなければ、心の赴くままに、楽しい方向へ流れていきましょう。
どうしますか?選択はあなたに委ねられています」
二種類の薬が提示されていた。もちろん現実にはそんなことないのだけれど、映画のワンシーンを僕に想起させる状況だった。実際の人生において、こんなことが起きるとは。
この人生から抜け出して、どこか別の人生、あるいはまったく異なる条件で生きてみたい、と茫漠と考えたことはある。ある種、いま僕が生きているこの人生を諦めた部分もあった。だってこんなに面白くないんだもの。つまらない仕事をするために、会社へ行き、つまらない人たちと話して、家に帰って寝る、これをただひたすらと繰り返す日々。永遠を思わせるほどの時の流れ。いつになったら解放されるのだろうか。当然のことだけど、いま面白くない原因を探れば、その大半は僕にあることは承知しているが、それでもこれはないだろ。
果たしてどうなる?この男の言うことに従ったら。もしかすると、この現状を打開してくれる、言うならば解脱へ導いてくれるのかもしれない。それはすごく耳ざわりが良く聞こえる。だがその代償は?当然何らかの方法で、然るべき対価を払う必要が生じるのだろう。何もこちらから提供せず、それにもかかわらず恩恵を享受できるというのは、詐欺にも聞こえる。この社会ではそんなことは許されていない。何かしら、それもおそらく大いなる対価を払わなければならないだろう。この男は、そういった説明はしていない。だとすると、やはり関わるべきではないのだろうか。
「詳細を説明したいのはやまやまですが、時間があまりありません」僕が思考の渦に入ったのを読み取ったように、加瀬は言った。そして腕を上げて腕時計を確認する。そこには時刻が示されていた。「微かにでも魅力を感じたのでしたら、いえ、心が揺れ動いているのでしたら、取り敢えずついてきてください」そう言って立ち上がる。
 
選択はあなたに委ねられています。

 少女と同じことを、加瀬は言った。そのことにいま、ようやく気が付く。おそらく少女と再会するための具体的な方法、あるいはそれに類するものが、いま僕に提示されているのだろう。僕は座っていたソファから立ち上がる。何か大きな力が僕を後押しした。それを確かに感じた。
「いいですね。じゃあ行きましょうか」

 家の外に出ると、雲の染み一つない青空が、頭上に広がっていた。どこまでも広がっているようにも見えるその空を、二羽の鳥がたわむれるように飛んでいく。とても高い位置を飛んでいるため、細かい色や形はわからないけれど、彼らは地上の僕たちを気にも留めずに、ただ自由に空を駆けていく。
 柔らかい顔が僕の頬を撫でる。どこか自然の匂いを含んだ風だ。この近くに、自然といえるほどのものがあるとは思えないが、僕の知らないところには存在しているのかもしれない。そこから匂いを乗せて、人々に届けて回っているのだろうか。目に見えない暗渠がすぐ近くに存在していても、なんら不思議ではない。(そもそも暗渠がどういう匂いを発するのか、よくわからないけれど)
 家の前の通りに赤のボルボ240エステートが停まっている。20年以上前に生産中止した車だが、綺麗な状態を保っているように見える。窓ガラスはくすんでいないし、ヘッドライトも黄ばんでいない。見たところ車体に傷一つついておらず、定期的に磨かれていることがうかがえる。加瀬がその車に近づいて、ポケットから鍵を取り出して、ドアに差し込む。
「乗ってください」
「これは君の車?」
「ええ、そうです。僕の相棒です」
 直線のみで描かれたボディの240に加瀬が乗り込む。その鋭利な角を持ったボディは、見事に空間を分断していた。彼の体重を受けて、サスペンションが揺れる。僕も助手席のドアを開けて、乗り込む。ドアを閉めるときカシャンと、いまの車には失われてしまった音が響いた。
 車内も時の経過を思わせないほど、美しさをそのままに維持している。どこか時間軸の狭間のような場所で、大切に保管されていたのだろうか。もちろんギラギラした液晶メーターや巨大なディスプレイなどは備えていないが、走るための機能は十分に持っていた。  
加瀬がキーを差し込んで、イグニッションを回すと、車体がぶるっと揺れ、それと同時にアナログの針が何本か一斉に動く。エンジンも粒度の高い音を車内に響かせている。隅々まで手入れが行き届いているようだった。ギアを入れ、サイドブレーキを解除して、とても穏やかに車が動き出す。それはあまりにも丁寧な動き出しだった。
加瀬の運転はとても丁寧だった。まず第一に車体が停止したことを感じさせないほど、慎重にブレーキが踏まれ、動き出すときもほとんどと言っていいほど揺れがない。なにか特殊な訓練、たとえばショーファーカーの運転手としての訓練を受けていたのだろうか。もちろんそんな車に乗車したことはないから、ショーファーカーの運転手がどのような運転をするのか完全に僕の推測に過ぎないが、おそらくこういった運転をするのだろう。幾重もの膜に車が包まれていて、その中で車が動いているようだ。
オーディオ装置からはナイル・ロジャーのグッドタイムが流れている。彼の曲を詳しく知っているわけではないが、この曲のフレーズはなんとなく覚えがある。
 車は僕の家の近くの狭い道々を抜け、やがて多くの車が行き交う通りへ出た。
「どこに向かっているんだろう」僕は加瀬に訊ねる。
「空港です」
「空港?」
「ええ、そうです」
「何のために?」
「それはもちろん、飛行機に乗るためです」
「飛行機?」
「ええ、あなたが昨日そうおっしゃったので」
「僕が?」腑に落ちない部分はいくつかあったが、ここまでくるとすべてを受け入れるしかないような気もした。このあとどんなことが起こったとしても、それは昨日の僕が言ったことだ。当然今日の僕はそれを処理しなければならないはずだ。そしてもちろん何を言ったのかはよく覚えていない。
「なんだか夢に騙されているみたいだ。いまここに起きていることが、すぐには受け入れられない」
「飲み過ぎには注意しないといけませんね」加瀬がにこやかに言う。僕はそれに曖昧に返す。
 彼も僕と同じペースで飲んでいたはずだが、見たところ記憶の乱れが起きているわけではなさそうだ。僕の発言をしっかり覚えていると、加瀬は言う。アルコールを受け入れる体質なのだろうか。あるいは加瀬も記憶が曖昧で、そんな男たちがいま二人で旧式のボルボに乗ってドライブをしている、なんてことも考えられないだろうか。何のために?
「あ、そうそう。航空券を手配したついで、というわけではないですが、しばらく会社を休むとの連絡もされていましたよ」
「は?」
「携帯を見てみてください」
 そう言われ、僕はズボンのポケットからスマホを取り出す。もう随分と長いこと使っているものだ。機能は最新のものと比べると、だいぶ陳腐化しているのかもしれないが、別にそんなものは構わない。いくら写真が綺麗に撮れようと、僕には何の恩恵もない。
 メールアプリを開くと、確かに昨日の真夜中過ぎ、つまり今日の未明に一通のメールを会社宛てに送った履歴があった。

「しばらく休みます」

 こんなメールが社会通念上、許されるのかは甚だ疑問に思う。件名も差出人の名前も、それどころかおそらく必要とされる詳細な理由説明の諸々が、一切省略されている。と言うか会社を休むときは、どんな方法でどんな内容のものを伝えるのが適切なんだ?思えば多少の体調不良であれば、無理して出社していたし、そもそも有給以外で休んだことがなかった。
「まあ、あれだけ酔っていれば仕方なかったんじゃないですか?」加瀬がフロントガラスを見つめたまま言う。おそらく僕はメールを送信する際、文面を加瀬に見せたのだろう。もう少しましなメールが送れたんじゃないか、とは思うが、後の祭りだ。
「いずれにせよ…つまり方法はどんなものであったとしても、あなたはしばらく会社に行く必要はありません」
「それを僕はどう受け取ればいいんだろう」
「さあ、正直なところわかりません。あなた次第です。でも一つだけ言っておくと、そのメールを送ったときのあなたの表情はとてもよかったです」
「なんだか複雑な心境だ」
「その気持ちはわかります。下手すれば解雇になるかもしれませんもんね。ただあなたには会社に行くよりも、何かもっと大事なことがあると僕は思いました」
 僕は加瀬の顔を見る。その横顔もやはり均整が保たれていた。おそらく最適な高さの鼻梁を持っている。
「それは一体どんなことだろう」
「あなた自身がそれは一番よくわかっているんじゃないんですか?そのための航空券でもあります」
「つまり僕は旅行のようなものを求めていたと」
「ええ、あなた自身が求めておられました」
 旅行。最後に旅行、あるいはそれと呼ぶにふさわしいものに、行ったのはいつだったろうか。僕の中の時間軸を遡って探ってみる。学生時代はよく思いつきで出掛けてりしたが、最近はめっきりだ。いずれお金が糸目をつける必要がないほど稼いだら、自由に出掛けようと思っていたが、お金を稼ぐようになった代わりに、何かもっと根源的なものが失われてしまった。僕を根底において支えていた何か。
「もしこのまま、その航空券を使って、旅行のようなものに行ったとして、そこに何があるんだろうか」
 加瀬はしばらく思案する。だがすぐに彼は考えを表現するに、適切な言葉を見つけたのだろう。少し薄い唇が開かれる。「もしかすると、あなたは既に予感を感じているのではないですか?何かしらの変化をもたらしてくれるものが、存在していると。その変化はすぐに顕現するものではないかもしれません。ただ徐々に侵食していって、いずれは大いなる影響をもたらす。
だからこうして、いま僕と空港に向かっている。本気で仕事にしがみつきたいと思うなら、僕の誘いを断って会社に行っていたでしょう。違いますか?」
「どうだろう。確かに何かしら、心を高ぶらせてくれるものを感じている。上手く表現できないけれど」
「それでいいと思います。導いてくれるがままに向かうほうが」
「なんだか君に言われると、本当にそのような気がしてくる」
 加瀬が横目で僕のほうを見る。その目は悪戯好きな子供のような煌めきを宿していた。
 車は空港に繋がる高速道路へ入った。最新の車と比べると、いささか無骨な感じがするが、それでもスムーズに速度を上げ、車列の中に合流していった。加瀬の運転はやはり、どこまでも丁寧なものだった。平日の朝のため、乗用車はあまり見かけないが、多くのトラックがやや緩慢な速度で流れていた。前後の間隔を絶え間なく変化させつづけ、全体として長大な川の流れを成していた。その隙間を時折、バイクが縫うように駆けて行く。まるで波に乗る俊敏な小型船のように。
 これほど多くのトラックは、どこを目指しているのだろうか。その荷台に充溢した荷物は誰の元へ届けられるのだろうか。それはある種の哲学的な問いのようにも思えてくる。本当に僕たちはこれだけの物を必要としているのか、といった。あるいはそういう皮を被った、もっと実際的な問題、たとえば経済学的な問題なのかもしれない。コールドチェーンの過剰なほどの拡大や、ドライバーの長時間拘束ないしは報酬の相対的な低さ、といった。こうした実際的な問題は往々にして、複数の面の問題が複雑に絡み合って構成されている。何か一つのパースペクティブを以って挑んだとしても、その複雑な絡まりがほどけることはない。むしろ余計に入り組んだものになってしまう可能性も含んでいる。ましていま僕がぼんやりと思案したところで、何か打開的なアイデアが持ち上がるわけではない。それはあくまで事件に群がる野次馬のようなものに過ぎないのかもしれない。まあ、何も考えないよりかはいいか。
トンネルが連続する区間に入り、その都度加瀬は前照灯をつけ、抜けると消した。前後のトラックもそれに合わせるかのように、ヘッドランプを灯す。トンネルに入ると、ディーゼルの凄まじい音に囲まれ、鼓膜を絶え間なく震わせた。おそらく僕の耳だけでなく、トンネル全体でこだましているのだろう。どこか地底から吹き上げる風のようだ。あまり心地良いものとは思えない。
一定の間隔で灯されたライトが、現れたかと思うと背後へ抜けていく。ごく僅かな間だけ、僕たちの視界を訪れ、またすぐに去っていく。何の挨拶もなしに。そしてすぐに次のが訪れる。その繰り返しがひたすらに行われる。残像だけが僕の脳裏に置いていかれる。
僕は視界が明るくなっては暗くなる、その隠微な起伏に包まれるなかで、不思議な思いに駆られる。もしかするとこのトンネルは永遠に尽きることがないのではないだろうか。幾台かのトラックとボルボを含んだその時空だけすっぽりと切り抜かれ、ある種の平行時限のようなところへ配置され、ある一定地点に到達すると、また始めに戻される。レコードの針を戻すかのように。その作業は僕たちに気付かれることなく、密やかに行われる。何者かの手によって。僕たちは到底その手を認識することはできない。感性の形式の範疇の外側に置かれたものだから。だけど、ふとした瞬間、たとえばコーヒーを飲みながらレアチーズケーキを食べた瞬間なんかには、手が存在していることを再認させられる。
 最後に長いトンネルを抜け、その区間が終わると、太陽が目を刺した。その光は、明暗を繰り返した直後の目には刺激が強すぎた。僕は思わず目を細める。
もうすぐ空港の一帯に入る。

「君の年代にしては、ずいぶんな車に乗っているね」僕は思っていたことをようやく口にした。もっと早く、加瀬がキーを差し込んだとき、なんかに聞けばよかったのかもしれないが、彼の動作には隙がなかった。ごく当たり前のように車に乗り込んだし、ボルボも摂理に適ったかのようにそこに存在していた。だから尋ねる余地がなかった。
「…よく言われます。最近の車にはまったく興味が持てなくて」正面を真っすぐに見つめたまま言う。
「僕もだ。どんどんおかしな方向に向かって行ってしまっている」
「ですよね。ライトの主張が激し過ぎてて。あんなに威嚇する必要があるんですかね」
「不思議なことにああいう意匠が、いまの時代には受けているんだろ」
「もうひとつ理解できないです」加瀬は物憂げに首を横に振る。
 ボルボは右側の車線を一定の速度で走行する。クルーズコントロールを使用しているのかと錯覚するほど、正確に速度は維持され、ぶれることがない。次から次へと左側をトラックが抜かれていく。周りの車と比べると、随分な速度を出しているはずだが、メーターは助手席からはよく見えないし、ある種の保証のようなものがあった。加瀬がいくら速度を出して運転したところで、身の危険を感じるようなことはないし、まして速度違反で覆面パトカーに捕まることはない。それほどごく自然にスピードを出していた。無茶な走りは決してしない、あくまで紳士的な速度超過。そしてボルボもそれに応えていた。
 また一台のトラックを悠然と追い抜かす。一切の残滓、あるいは躊躇いを思わせることなくトラックは後方へ速やかに下がる。加瀬はエンジンを改めて吹かすこともせず、ただひたすらに一定の深さに踏み込んだまま走る。道路が若干の傾斜を持っていれば、それに合わせて適切に踏み込む位置を変える。視覚的にその動作を確認することはできないが、エンジンの変調で感じることはできる。その度に心地良い吹きあがりを感じる。
 道路は時折のカーブを除き、基本的には街の外れを真っすぐに貫いている。河川や線路などの障害物に合わせ、トンネルに入ったり架橋をくぐったりする。様々な線が入り乱れているその様は、精緻な織物を思わせる。ある線が近づいてきて、しばらく並走したかと思うと、また離れていく。そして新たな線がどこからかやってきて交わる。それが繰り返されることで街の一つの模様が形成される。そしてその一つ一つの線の中を、僕たちという要素が複雑に行き交う。それらは線と同じく、時に混じり合い、あるいは反発したりしながら、その相互の交流の中において、摩擦によって熱が生じるように、一種のエネルギーが発生する。もちろんこのエネルギーのようなものは、一つの言葉で形容できるものではなく、様々な種類が存在している。善悪といった二元論的考えを持ち込むことはあまり好きではないが、そうした分類も可能である一方、実際はありとあらゆる次元の断層が存在し、それらが統合されることで、一つのエネルギーとなる。
 僕はどこへ向かっているのだろう。形而上学的な問いとして捉えることもできるが、いまのところもう少し実際的な答えが欲しいところだ。何しろ空港に向かっているということしかわからないし、そこからどこへ向かうかが重要なはずなのに、そのような手掛かりは一切与えられていない。どこまでも宙づりの状態だ。

加瀬は左の車線に移動し、やがて出口へと分岐する方向へ進み、ボルボは広大な空港の領域に入る。先程まで僕たちの周囲を囲んでいたトラックは消失し、代わりに乗用車や大型のバスが増える。それらのバスは、街に点在する主要駅からやってきたり、あるいはターミナル間を移動するために、空港内を循環していた。平日の朝の時間帯にもかかわらず多くの人が乗っていた。空港内の事情にはあまり詳しくないからはっきりとはわからないけれど、もしかすると平日の朝だからこそ利用する人もいるのかもしれない。例えば休日や連休しか利用しない気の抜けた連中を避けるために。おそらく気の抜けた連中は、平日の朝には空港ではない他の然るべきところへ行き、余暇として空港を訪れるのだろう。こういっているが、もちろん僕もそうした連中の一員だ。
立体駐車場に入り、加瀬はボルボを停車させる。思ったよりは車が停車していた。案外世の中は気の抜けた連中ばかりというわけではないのかもしれない。ないしはそれを上手く隠しているのかもしれない。
 加瀬の後についていき、空港の建物の中に入る。あの空港特有の匂いが鼻腔を満たす。厳密に温度が調整された空気の中に、人々の非日常に対するある種の昂揚感のようなものが入り混じった匂い。やがて奥に行くにつれてそこに免税店のパフュームも加わることになるのだろう。どことなく、よそよそしい感じ、あるいは人工的なものによるある種の不自然さと受け取ることも、もちろんできるが、それがかえってこの場所の特異性を成しているのかもしれない。ありきたりな言葉で表現すれば、日常から乖離する入り口ないしは出口。汚れ一つ落ちることは許されず、照明を正確に反射する床。高い天井から放たれるその光は、駅やデパートなんかで見られるものとは一味違った、鷹揚さを醸していた。人々が出入りするたびに開け放たれるドアから吹き抜ける外気。その人々が引っ張るスーツケースに沁み込んだ数多の匂い。多くの場所を巡るほど、そうした匂いは蓄積され、芳醇なハーモニーとなるのだろう。僕は加瀬についていきながら、それを味わう。
 加瀬はカウンターで然るべき手続きを速やかに済ませ、吐き出された搭乗券を手にする。おそらく彼はそうした手続きを熟知していたのだろう。そこには無駄な手順や戸惑いはまったく見られなかった。
「この便に乗ってください」
 彼が手渡した航空券には、僕たちがいる空港のコードと、国内と思しき空港のコードが記載されていた。それとそれぞれの発着時間。記載された空港コードについてしばらく思案し、一つの空港が僕の脳裏に浮かぶ。
「これは…××かな?」
「ええ、そうです。行ったことありますか?」
 錆びた歯車が軋む音をたてて、ゆっくりと動き出した感じがした。それはずいぶんと長い間放置されていた歯車で、僕も存在を忘れていた。どこに置いていたのかも、どうやって動かすのかも。その歯車が××という場所の名前を聞いて、ぎいぎいと動いた。どうしてかはまったくわからないけれど。
「ずっと昔に一度だけ行ったことがある…」そのときのことを思い出そうとする。だがその記憶は深い霧の中に遠く佇んでいるだけで、僕はそれを表層に引っ張り出すことはできなかった。
「そうでしたか。あなたがそこを指定しましたから」
 僕は加瀬を見る。正確には少し上を見上げた。そしてゆっくりと言葉を唇から紡いでいく。一言ずつ丁寧に味わうように。「やはりそうか…でもわからない、どうしてここなのか」
 記憶を失うほど酩酊した状態で、どこに行きたいと聞かれた場合にどう答えるべきなのか。どのくらいの人が実際にそうした状況に遭遇し、そして翌日にはその場所への航空券を手にしているのか、統計があるわけでもないから正確な数字はわからないけれど、大半の人はもっと納得できる場所を選ぶのではないだろうか。例えば南国のリゾート地だったり、有名な観光地だったり。誰かに経験談として語るときに、こうした場所の方が説得力というか現実性が増すだろう。あるいはとてもじゃないけれど行く気になれない、遠隔の地へ行くことで、立派な冒険譚を成り立たせることもできたはずだ。地中海に浮かぶ島々に点在する修道院を巡ったり、大陸をぼろぼろのレンタカーで縦断したりと。だが××はそうした部類のうちどれにも当てはまらない。その場所は南国ではないし、むしろ寒冷地に属し、飛行機のフライトも多大な時間を要するわけではない。旅行という概念の中で考えると、近場に入るのだろう。それでもそれ相応の準備は求められるはずだが。
 僕はそのことに思い当たる。何も準備をしていない。持ち物すら碌なものがない。近所に散歩に行くような装いだし、もちろん着替えや泊まるに際して求められるもの一切を持っていない。僕は普段からあまりものを持ち歩かないが、泊まる(そういえばそれすらも知らない。あるいは日帰りなのかもしれない)にあたっては、それなりのものが必要になる。まあ現地で調達できないこともないが、促されるままに家を出て、ボルボに乗り込み、そして空港にやってきた。行き先も知らずに。
 そのことを加瀬に伝える。「それならご心配には及びません。現地で用意していますし、ホテルも手配してあります」
 思った通りと言えば、その通りだ。ここまで怠りなく僕を運んできたのだから。当然泊まるところはすでに準備されているのだろう。それにこの男のことだから、昨日のバーのようにある種秘匿されたような場所を選んでいるのだろう。あくまで僕の主観的意見に過ぎず、そこに妥当性はないけれど。でもだからといって先程の疑問が揮発したわけではない。
どうして××なのだろうか?
ずっと昔に一度だけ行ったことがあるくらいで、何か特別な思い出があるわけではない。むしろ時間的経過による曖昧さの靄に隠されつつあった。現地でどんなところに行ったのかはっきりとは覚えていないし、どのような感想をその当時抱いていたのかすら覚えていない。そもそも、それなりの印象を僕に与えていたのだったら、一度だけではなくその後も何度か訪れていたはずだ。だがそれには能わなかった。強いて言うなら、悪くはなかったけれどもう一度行こうとはなかなか思わなかった。××以外にもそのような場所はいくらか思い浮かぶけれど、いま僕が選んだのは××だった。そこに何か深刻な意味はあるのだろうか。それともただの僕の気まぐれだったのだろうか。
即座に解決できそうもない問いを奥に抱いたまま、航空券を受け取る。
「君は来ないのかな?」僕に一枚手渡されて、航空券はそれだけだった。
「ええ、僕はここまでです」加瀬はわりにはっきりと言った。そこに名残り惜しさのようなものはあまり含まれていなかった。
「…何というか。君は来るものだと思っていた」
「行きたいのはやまやまですが、のっぴきらならない事情もあるので」
「のっぴきらならい事情?」あまりその言葉に馴染みはなかった。
「ええ、ですからここを離れることは難しいのです」
「…そうか」
 コンパスの針が俄かに乱れたような感じがした。加瀬の有無を言わせないある種の超越的な力で、ここまで導かれてきたのに、それが失われてしまった。いい年の男がこう言うのはなんだけれど、だだっ広い大地に一人で放り出されたようだ。一枚の航空券だけ渡されて。
「ご心配には及びません。あなたは一人ではありません。現地にガイドのような者がいますから」
「ガイドのような者?」
「ええ、厳密なガイドの定義には当てはまらないかもしれないですが、適切なガイドだと思いますよ」
 その加瀬の言葉をゆっくり咀嚼する。だがそこに含まれている深奥の意味はいまひとつ解読できなかった。加瀬は僕のそうした様子を的確に読み取ったようで、続ける。
「要するにあなた次第ということです。あちら側から主体的に導くということはありませんが、あなたの呼びかけ、つまり感受性を鋭くさせることによって、どのような途中経過を踏んでいくにせよ、結果として望むようなところへ行きつくということです」
「…うーん、いまひとつわからないな」
「あまり難しく考えないで下さい。ここまで僕についてきたように、心地よいと感じる方向、流れを感じる方向に、躊躇せずに向かってください。そうすれば少しずつかもしれませんが、ものごとは動き始めます。流れに逆らわないように。そしてお気づきかもしれませんが、いまも少しずつ動いています。それをさらに加速させるかどうか。」
「もしかすると、そのガイドのような者というのは、人間ではない?」
 それを聞いて加瀬は笑う。とても自然に。「いえいえ、きちんと人間のかたちをしたものです。もちろん中身も」
「そうか、君のことだからなにか不思議なもの、上手く言い表せないものが来るのかと」
「ハハハ、流石に僕でも人間でないものを、ガイドとして手懐けることは難しいと思います。もっとも試したことがないからわからないですけれど」
「それは安心したよ」
「ガイドというよりは付添人として考えたほうがいいかもしれませんね」
 その二つの言葉の定義の厳密な違いも、もうひとつ理解できなかったが、言わんとすることはわかった。
「あなたから何かしらの働きかけを行わない限り、動くことはないと思います。あるいは希望するところへは着かないかもしれない。でもあなたが進めば、それを適切に手助けしてくれるでしょう」
 そこまで加瀬は言い切って、では行きましょうかと言って、チェックインカウンターのほうへ向かう。僕はそれに続く。周囲にはチェックインに向かうなだらかな人の流れができていた。僕と加瀬は自然に加わる。複数の便が短い間隔で離陸するせいか、付近は混雑していた。平日の朝にも関わらず。そして平日の朝に見合う格好の人が多かった。大きなキャリーケースを携え、堅苦しいスーツで身を固め、足早に移動している。まるで何処かへ戦いに行くように。それも複数の側面において重大な意味をもつ戦いに。その中に荷物一つ持たない、丸腰のラフな格好の男が紛れ込む。別にそれで気後れするわけではないが、周りと違う空気を纏っていることは、隠しようのない事実だった。
 フライトを知らせる電光掲示板(正式な名称を僕はよく知らないが、おそらくあなたがいま想像しているものと相違ないはず)には、様々な都市名が書かれていた。訪れたことのある都市もあれば、行こうと想起したことすらない都市もあった。だがそんな都市でも航空便が存在しているということは、それなりに行く人の需要があるのだろう。誰も訪れる人がいない場所には、飛行機は行かないはずだ。資本主義の原則に従う限りは。あるいは飛行機が行かないから、人が行こうと思っても行けないのかもしれない。あまりにも周囲と隔絶されているために。それは果たしてどんな場所なのだろう。もしかすると猫が支配する街かもしれない。
入り口のガラスドアの向こうでは相変わらず、多くの車がせわしなく動いていた。停まって人と荷物を降ろして、挨拶もそこそこに慌ただしく去る車もあれば、誰かを待っているのかしばらく静止したままの車もあった。そうした車たちは一見無秩序に、個々が思うがままに走行しているようにも思えるが、暗黙裡に共通の原理に従って動いている。そうでもなければカオスが顔を覗かせることになるだろう。どのようにしてそうした原理が創造されたのか、そして遍く周知されるに至ったのか、そんなことは僕が知っているわけもないけれど、別に知らなくてもいまのところ世界は回り続けている。実際に空港の前の道路では事故は起きていない。案外、知らなくても不都合が生じないことは多いのかもしれない。特定の誰かさえ知っておけばそれで十分で、その分僕たちはスペースを空けておくことができる。他にもっと重要なことを考えるためのスペースを。
電光掲示板に目を移すと、先ほどまで一番上にいた便が消えて、その下に控えていた便が一番上にやってきていた。そしてもちろん一番下には新たな便が加わっている。この一連の作業は空港が活動を一時的に停止するまで、おそらくそれは深い時間帯になるのだろうが、続けられるはずだ。ほんの少しだけ休息をとって、日が昇ると、あるいは太陽でさえ地平に眠っている時刻から再び活動を開始する。一日だって怠ることなく。そんなことを考えているうちに、また一つ便が消えて新たな便が加わった。今度の都市も僕が行ったことのないところだ。
カウンターに到着し、そこに形成されていたそれなりの人の列に向かう。加わる前に加瀬は立ち止まり、滑らかに振り返り僕たちは向かい合う。
「最後にもう一度言っておきますが、あまり難しく考えないでください。ここまでやってきたように、流れを感じてそれに従ってください。もしかすると流れが隠されているように思えるかもしれませんが、絶対に失われることはありません。それは確信を持って言えます。ただ乏しくなってしまっているだけです。それを丁寧に読み取る必要があります。そうした感受性のようなものを、あなたはまだ失ってはいません。ひとまずの第一歩はあなた自身を信じることです。そこから始めてください」
 そこまで加瀬は一息で述べると、何か言い残したことはないか思案する素振りを見せた。どこまでも完璧な、いま僕は思案していますと、相手に伝える素振りだった。そして実際に僕に伝わっていた。しかし目当てのものは、現時点では見つからなかったようだ。もしかすると、原型ないしは予兆を感じ取ったが、それを言語化する手立てが見つからなかったのかもしれない。最低限、言葉にしてくれないと、意図を受け取ることはできない。言葉にしたって完全な手段ではない。
あるいはいずれかの時点で、加瀬は伝えるべき内容と、手段を見出すかもしれないが、そのときそれを伝える余地は残されているのだろうか。つまり、またどこかで僕たちが会ったとして、改めて当時の意図をやり取りすることは、(もちろんすべての物事に意味を求めるほど僕はつまらない人間ではないけれど)あまり意味があるとは思えない。あらゆるものは流動するし、そこには僕たちの考えも含まれている。朝出かけたときはビーフシチューを食べたいと思っても、帰るころには無性にダンキンドーナツが食べたくなったりする。とにかく何が言いたいかというと、過去の最適解はあくまで過去のものであって、必ずしも現在の最適解であるとは限らない。そしてその時々の最適解を見つけられるかどうか、それもまた僕の与り知らないことの一つだった。当時を振り返ることができる時点になって、初めて最適解か否か判明するものかもしれないし、その時点になったら当時のことなんて何とでも言える。少なくとも最適解だけを選び続ける人なんていないと思う。それこそ平行世界の全てを見ることができる者だけが成せる所業だ。
 短く簡潔に挨拶を済ませ、僕は列の方に向かう。吐き出す人よりも流れ込む人の方が多くて、緩慢にしか進まない列に。少し素っ気ない挨拶だったかもしれないと思ったが、衆目の前で熱い抱擁を交わすこともできなかった。また彼と会うことはあるのだろうか。それについて加瀬は何も言わなかったが、というかそれ以外のことについてもあまり語られていないけれど、いくつかの側面においていささか重大なことに思えてならなかった。僕たちはまたどこかで顔を合わせるのかどうか。
 その時、加瀬がアッと声を上げ、後ろに言葉を繋げる。
「くれぐれも彼女の瞳には気を付けてください」
 それはどういう意味なんだろう、と聞こうとしたが、折り悪く団体が僕の後に加わったことと、列の流れが加速したことで聞くことができなかった。僕の疑問符は空中に取り残された。どこに行きつくこともなく。

 飛行機のあまり心地いいとは言えない座席に、埋もれることもできず、ただ腰かけ、機体の揺れに合わせて身体がぎこちなく振動するのを感じながら、さきほどの加瀬の言葉を反芻する。
 くれぐれも彼女の瞳には気を付けてください
 それはどういう意味なんだろう。届く相手を見失った疑問は、宛先不明の手紙のように僕の元に帰ってきた。だが何かしらの手掛かりが付与されたわけではない。ただ放ったものがそのまま戻ってきただけだ。だからあくまでその言葉のうちに見出すしかない。手掛かりのようなものを。
彼女とはガイドのような者を指すのだろうか。文脈から判断すると、それが適切な推測だろう。だとするとガイドのような者は女性ということになる。そのあまりにも簡単な定式、彼女ということは女性という式から何か導かれるだろうか。ゆっくりと思考を回転させてみるが、その回転が適切な示唆を読み取る閾値まで達することはなく、思考もそれを感じ取りやがて回転を落としていった。強いて言えば僕にそのような知り合いの女性はいないということだ。
 ならば次の部分はどうだろう。瞳には気を付けてください。多様な解釈ができそうだが、そもそも僕は瞳に対してどのような態度が気を付けていることになるのかわからなかった。見つめすぎると石に硬化するのか、あるいは何かしらにおける虜になってしまうのか。例えばだけれど、心臓に指鉄砲を撃ち込まれて。
もう少し手掛かりを与えておいて欲しかったと僕は思う。どこに辿り着くこともないトートロジーがただひたすらに頭の中で繰り返されていた。先ほど離陸した飛行機はぐんぐんと高度を上げ、地上の諸々から距離をとっていく。地上を蠢くものはみるみる矮小になっていく。空港近くに横たわる工業地帯の工場群も例に漏れることはない。くすんだ赤と白を纏い、所々に落ちることのないだろう茶色の錆びが走った煙突が何本か、飛行機に向かって手を伸ばしているが、それも虚しく飛行機はすり抜けていく。
 高度を上げてもやはり雲はどこにもなかった。今日はその存在定義が丁重に包まれて、クローゼットの奥にしまわれたようだ。澄み渡る青が広がり、そこには海のように波の三角鋲もなく、鋭いけれどこか慕情を抱かせる太陽の光を届けていた。おそらくだけれど風もあまり吹いていないのだろう。黎明期の陰部にも似た乱気流に飲み込まれたときのように、機体ががたがたと軋むこともない。ただ速やかに高度を上げ、地上からは確認できない微かな白い靄を切り裂いていく。
 そのとき窓の外を一匹の黒い蝶が、あの蝶独特の動きをしながら、刹那的に横切ったような気がした。僕は生態学というものにはあまり明るくないから、蝶が実際にどの程度の高度まで生息可能なのかはまったくわからないけれど、上昇中の飛行機に匹敵する高度で、蝶がふらふらと舞うことはかなり難しいことなのではないかと思う。あの柔らかい羽にそれほどの飛行能力があるとは考えにくいし、そもそも餌もなければ気温も低い上に、天敵の鳥しかいない上空を飛ぶ意図がわからない。けれども窓の外を横切った小さな黒い物体は、蝶だと僕の感性と知性は認識した。どうしてかはわからない。ただの黒いビニールの断片かもしれないし、そちらのほうがいささか現実的な考えだが、あれは蝶だった。
 下を見ると、地上はもうすでに消え失せ、それに代わって淡い海が広がっていた。淡いと言っても何処か南国のそれのように目を見張るようなものではない。あくまで地上から眺めたときの鈍い重苦しい色よりかは、幾分淡く見えるというだけだ。まるで見られることを想定していなかったものを偶然目にしてしまったときのように、背徳感に包まれる。入念に秘匿されていたはずなのに、何かの手違いかあるいは何者かの故意によって露見してしまった。その相対的に淡い海の中を、小さな木片のような船が何艘も浮かんでいる。ただ通常の木片がせわしなく流れるのとは異なり、その木片たちはどこまでも緩慢にただ浮かんでいた。それだけを目的としているかのように。
 機体の角度が通常に近づき、揺れがほとんど感じられなくなり、しばらくするとサインが消える。僕は窓の外を眺めるのをやめ、座席のリクライニングのレバーを捻る。座席は操作に寸分の狂いもなく倒れる。突然鋭い眠気が僕を襲った。便宜上、眠気という言葉を使ったが、それはどちらかというと意識の切断に近かった。プラグを突然抜き取ったみたいに。とても抗えそうもない類の眠気だった。どうして突然そのような現象が持ち上がったのかよくわからない。いままで特に眠気は感じていなかったが、サインが消えたことが契機になったのかもしれない。それにより緊張の糸がほぐれたのだろうか。瞳に帳が降りてきて僕は深い砂の中に沈んでいった。とても滑らかに、そして奥深くへと。

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