微睡の中の出逢い

 ゆっくりと目を開く。僕は地面に仰臥していた。冷たくて硬い地面の感触を背中に感じる。どれほどの時間、僕はここに寝ていたのだろうか。時間はその軸を歪ませてしまって、正しく経過をたどることができない。地面に触れた部分から、身体が冷え始めている。ゆっくりと上半身を起き上がらせる。身体に違和感はない。まだ微かにアルコールの余韻を感じるが、身体の機能に支障をもたらすほどのものではなく、むしろ心地良さがある。陽光で温められたプールに全身で漂っているような心地よさ。意識は明瞭としていた。僕が置かれているいまの状況を認識しようと、感覚の触手を伸ばしている。
 ここはどこだろう。周囲を見回すが何らかのアイコンは見当たらない。それどころか何も視界に捉えることができない。吹雪の中でホワイトアウトしたように、右も左も純粋な白色が広がっている。何かがあって、それが覆われてしまっているというわけではなさそうだ。ただの純粋な白色。そこに隠されているものはない。目を凝らしたり、視点を変えてみたところで、何かが浮かび上がってくるということはなさそうだ。その真ん中で僕は地面に座っている。
 地面に手をついて、ゆっくりと立ち上がる。ゆっくりとしたつもりだったが、それでも頭が頂点に達したとき、僅かな立ち眩みを覚える。突然僕を襲い、そして何もなかったかのように通り過ぎていく。僕の意識の砂浜には、一筋の線が入れられる。とても曖昧な線だが、確実に存在している。やがてそれは意識の海から打ち寄せる波によって、消されるときが来るのだろう。それはすぐに訪れるかもしれないし、あるいはずっと後になって忘れたころ、古い友人が訪ねてくるように突然来るのかもしれない。
 辺りを見回すが、やはりそこには何も存在していない。厳密に言うと、存在していないように認識できる。おそらくこれは夢なのだろう。現実にこんな場所は存在しない。ある種の夢は、夢を見ている最中でも、いま夢を見ていることがわかるものがある。どうしてそうなるのかはわからないが、とにかく何らかの理由で、いま夢を見ていて、やがてそれは醒めて現実の世界に戻るということが、はっきりとわかる。とても楽しい気分にさせるものもあれば、悪夢のような、目が覚めたとき背中が汗でぐっしょりしているようなものもある。いま僕が見ている夢は果たしてどちらに該当するのだろうか。願わくば前者であってほしい。
 夢の中だからだろうか。思考が次々と変遷していく。ジャンルの異なるレコードが次々とターンテーブルに乗っけられている。年代もスタイルもバラバラ、出鱈目で因果律のようなものは確認できない。ジャミロクワイが流れたと思ったら、次はチャーリー・パーカーが流れている。その次はビーチボーイズあたりだろうか。嫌悪感を示す僕がいる一方で、その無秩序ぶりを楽しんでいる僕もいる。同じような曲ばかり聞き続けていたら、思考が凝り固まってしまう。その凝りを嬉々として蹴り破って歩んでいく僕。そこには何ら留保も後悔もない。壊してしまったものは仕方がない。また別のものを生み出せばいいだけだ。
 足を一歩踏み出して歩いてみる。地面だけは白ではなく、濃い灰色の細かい砂利が混じったコンクリートのような素材できているため、そこが地面であることが識別できる。上も下も全部白で覆われていたら、おそらく方向感覚や平衡感覚を失って、立ち尽くしていただろう。だが幸いなことに、地面だけは別の素材でできていたため、いまどこを向いているのかがわかった。もっとも向いている先には何もないのだけれども。
 しばらく進んだところで柵が見えた。何かの金属でできている柵だ。地面を構成している素材と似た色をしているが、まったく同じではない。その腰の高さ程の柵に近づいて、先を除くと、地面は丸く切断されてなくなり、白の世界が広がっていた。飲み込まれるような、底が見えない世界が広がっていた。地面は崖のように下までずっと続いている。どこまで続いているのかはわからない。何かをふとした拍子で落としたとしても、再びそれを目にする機会は二度と訪れないだろう。永遠に落下し続けることになるだろう。果たして永遠というものが存在するのならば。柵は左右に伸びている。これもどこまで伸びているのか、その終わりは見えない。
 方向を変え、柵に沿って進んでみる。足裏には地面の確かな感触を感じる。一歩一歩踏み出していく。先は淡い霧のようなものに覆われ、全くと言っていい程見えない。この先に何が待ち受けているのか。想像の範疇を超える、あるいは観念の規範外の存在、もし例をあげるとするならば、変わった口調をした小人が出てくるかもしれない。夢の中だから何が起こったとしても、それに異議を唱えることはできない。現実を規定する公理はここでは適用されない。だが何か予期しないものが出てきても、それは僕に害をなすものではないという確証があった。何故だかはわからないが、確証とはっきり言えるほどに。僕の頭の中で起こることが、僕を損なうようなことはないだろう。そこまでストイックではない。確かに日々口にする食べ物に、ある程度の気を配ってはいるが、深夜に目が覚めたとき、そしてそこから眠れなくなったときなどに、気の向くままに冷蔵庫の中身を食べたりすることがある。この例がストイックでないことの適切な証拠かどうかは疑問が残るが、とにかく自分で自分を追い詰めるようなことはしないだろう。それが求められない限りは。
 淡い霧の中を進むが、想像していた通り何も変化がない。三歩前の光景と、いまの光景を、ある部分でずらしてもぴったり重なる対称となるはずだ。比較するものが何もない。木もなければカラスも飛んでいない、まして標識なんてものがあるわけがない。たとえ標識があったとしても、そこに書く適切な言葉が見当たらないだろう。何もない空間を何て呼べばいいのか。砂漠のほうが、まだ傾斜や砂の模様などの変化があるだろう。風が吹いたり、気温が変わったりするだろう。所々に僅かだが植物があるかもしれない。ここにあるのは地面とその淵に沿って続く柵だけだ。無機的な地面と柵がどこまでも続いている。その柵の隣を僕はいま歩いている。
 喉が渇いてきた。アルコールを昨晩摂り入れ過ぎたせいだろうか。みるみるうちに口の中の水分が失われていく。どこかで水を飲める場所がないだろうかと思うが、そんなものはこの先ずっとないだろう。都合よく蛇口が設置されているとは思えない。僕はこの渇きと共に歩き続けるしかない。渇きを癒そうと考えない方がいいだろう。むしろこの渇きを楽しむ、例えば絶えまない生命循環活動の一種として、味わった方がいい。そこに何かしら義務あるいは役務のようなものを感じた瞬間に、それはひどく味気ないものになってしまう。楽しもう。いまの状況を。
 そう考え始めると、この不可思議な世界が温かみを帯びたような気がした。現実に存在する煩雑なもの一切を捨象した、ある種の涅槃に近い世界なのではないだろうか。蚕の繭のように世界全体が柔らかく僕を包んでいる。ここには音もない。響くのは僕の足音だけ。交通渋滞も曇天の朝もない。もっとも涅槃を体験したことはないから、僕の想像に過ぎないのだが。もしかしたら涅槃の境地に至っても交通渋滞があるかもしれない。
 ずいぶんと歩いた気がするが景色は変わらない。喉の渇きは現実味を一層増してきて、膜を破りそうにもなっているが、特に気にならない。疲れも感じない。この先をずっと進んだところで、地面と柵が永遠に続くだけなのかもしれないが、もしそうだとしても僕は歩き続けるだろう。文字通り永遠だとしても。シーシュポスの神話のようにはならない。一歩一歩味わい深く進んでいく。
 身体が汗ばんできたのを感じる。テンポ良く歩いてきたことで心地良い高揚感を覚える。周りの空気の温度が、一段階上がった。あるいは僕の中身の温度が上がったのかもしれない。身体の各機関は潤滑に機能し、全体を支えている。その一方で全体は各機関を包摂している。そこには超越的な調和が存在する。ある部分が機能不全に陥ったとしても、ただちに全体が機能しなくなることはなく、他の部分が補完的に役割を受け継いで、調和を保つのだろう。致命的な損傷を受けない限り、活動は続く。その活動が熱を生む。微かな熱かもしれないが、確かに存在する。主観的な意味においてはもちろん、客観的な意味においても。

 ずっと続く柵の遠くのところに、誰かが佇んでいるのが見える。地面と柵以外に、初めてこの世界でみる物体だ。ないしは初めて目にする有機体と言ってもいいかもしれない。像がぼんやりと浮かんでいるにすぎないが、確実に人の形をしている。これに導かれていたのか。僕はそこに向かって行く。
近づくにつれて曖昧な表皮は剥がれ、実体の確実性が増していく。少女だ。少女が柵にもたれかかって佇み、顔だけこちらを向けている。美しい少女だ。柵にもたれつつも芯がある姿勢を保ち、悠然と佇んでいる。身体の半分以上を占めていると思われる脚は、地面から上体を支えており、小ぶりな頭が上体の頂点に座している。その頭は印象的なショートカットの髪に覆われ、鋭利な断面を思わせる髪によって、周囲の空間と彼女を明確に分断している。ここからは彼女の領域で、それ以外は含まれないというように。ある種の冷徹さを思わせる。その髪とは対照的に、彼女の全身を包んでいる白いワンピースは、周囲と穏やかに融合しており、境界が曖昧なものとなっている。彼女を包みつつも、外的要素を彼女の中に取り込んでいる。彼女の内部で行われた融合が、表象として彼女の印象を示している。その融合過程はおそらく彼女自身も詳細にはわからない、一種の無意識下で行われ、結果のみがいまこうして顕現している。あるいはおおまかな指令だけ彼女が出して、あとはとても機械的に行われているのかもしれない。明確な因果関係が存在する化学反応式のように。いずれにせよその融合は彼女独自のもので、彼女の空気感とでも呼ぶべきものを形成している。
僕は彼女に近づいていく。まっすぐにここまで彼女に導かれてきた。道中は味気ない無機質なものだったが、そんなものはどうでもいい。彼女がここで僕を待っていて、こうしていま僕は彼女の元にきた。長い間彼女がここにいたような気もするし、少し前に電車が滑り込んできて、あたかもずっと待っていたかのような雰囲気を出しているような印象もする。僕の主観に過ぎないが、彼女はそういう部類の行為を得意としてそうだ。事実とは少し異なる解釈を行う。改変するとでも言うだろうか。(僕達のものの見方は全て解釈によって行われていることはそうなのだが。言いたいことが適切に伝わるように願う。)見方によっては悪意があるように見えるかもしれないが、むしろ害のないように物事を上手く取り繕うことに長けているとも言える。その行為によって誰かが気分を損なうことはなく、功利主義的に考えればプラスに働く。あくまで功利主義に則れば。それが果たしていいのかどうかはここでは問題にしない。
彼女が口を開く。

「こんにちは」

心地良い声だ。澄んでいるがほんの微かな濁りもある。それがいいアクセントとなっている。
「こんにちは」とりあえず僕はそう答える。
 しばらくの沈黙が漂う。僕の頭の中には尋ねたいことが割と多くあったが、彼女を前にするとそれらは打ち消えた。なんだかとても些末なことの気がした。そんなことを気に掛けていることが恥ずかしいとすら思えるような。だから僕は何も口を開かなかった。
 彼女も口を開かなかった。ただじっと僕を見つめている。とてもありきたりな表現だけど、吸い込まれるようなその瞳で。それ以外の表現が上手く浮かばない。彼女が身に纏う純白のワンピースと同じように、何かしらの方法で周囲の要素を取り込んでいるような瞳。掴んでは離さない特殊な引力が発生している。一度それに魅せられたら逃れようと思っても叶わない。離れられた気がしても、ずっと後にまで引き摺られるものがある。そんなものを表現しようとしても適切な言葉が浮かばない。ましてそれを目の前にして何かしらのアクションができただろうか。たとえできたとしても、それはとても陳腐なものだったに違いない。そんなものを彼女に見せるよりかは、ただこうして黙っているほうが適切な気がした。何も口にせず、ただ視線を交わし合う。言語化できないやり取り、表象として現れることのないやり取りを試みる。
 案外僕はそうしたやり取りが得意なのかもしれない。といっても誰かとその能力を比較した機会も、自分自身に問いかけてみた経験もない。
「僕はこうした能力があると思うんだけど君はどう思う?」
「そうだね、案外君はイケてると思うよ」
何かしら客観的な指標、あるいは基準はないけれど、何となく、ただ何となく僕は得意な気がした。あくまで人よりは。そこに確固たる自信があるわけではない。
 どれくらいの時が経過しただろうか。相変わらず時間はその背骨を歪めてしまっている。まったくしっかりしてくれよ。そんな愚痴を口にする余裕もなく、僕は少女との対面に熱中していた。時折の瞬きと、呼吸に伴う胸の動きを除いて動くものはない。全てのものが静止している。もっともここには僕と彼女のほか何もないのだけれども。
彼女の胸はどちらかというと小ぶりなほうだった。過度に自己の存在を主張するわけではなく、だけれども彼女の胸として存在していることに誇りを持っている。胸としてはそれだけで充分、いやむしろ誇りを持っていなければ、いくら大きな胸だとしても虚しいものだろう。図体だけ大きくて醜悪なデザインの車のように。(具体的な車種が頭に浮かんではいるが、ここで名前を出すのは差し控えたい。熱烈な自動車ファンによるバッシングは避けるべきだ。もっともその車種にファンが果たしているのかは疑問だが。)彼女もおおむね自身の胸に満足しているはずだ。そんな自信がうかがえる。
 静寂が漂う。純粋な静寂だ。そこに先立つものは存在しない。楡の梢が揺れる葉音も、夜啼き鳥の啼き声も存在しない。耳を厳密に澄ませば、僕と彼女の呼吸の音や身体活動の音までも聞こえてきそうだ。心臓の鼓動よりもっと微弱な活動音までも。たとえば僕の身体を組成している細胞の一つ一つが軋む音。この世で生がある存在である限り、何かしらの音は出しているはずだ。そうした音を遮るものはなにもない。いまにも普段は聞き取ることのできない音たちで溢れかえりそうな予感に襲われる。だがそれは所詮予感に過ぎない。それとなくこの静寂を覆う何かがやってきそうな気がするというだけで、いささか現実性に欠ける。といってもこの世界で現実性という言葉はあまりにも不釣り合いだが。
 彼女が一筋に結ばれていた口を開き、それと共に声が出される。

「また会ったね」

 また?いまそう彼女は言った?可能な限り素早く、過去の記憶を巡るが、僕と彼女は初対面なはずだ。「失礼だけど、どこかで会ったことがある?」
 彼女の端正な顔が少し曇る。だがすぐに晴れて、少なくとも僕には晴れたように見え、こう続ける。「そう…仕方ないわ。あなたが覚えていないだけで、わたしとあなたは仲が良かったの」
「仲が良かった?君と僕が?」
「ええ、なかなかにね」
 なかなかという表現がひっかかる。なかなかという言葉が交遊関係において、どの程度のものを指すのかもうひとつ理解できなかった。
「どうして僕はそのことを覚えていないのだろう」
「いろいろあったから」
「いろいろ?」
「そう。簡潔に事情を説明することは難しい程度に」
どうやら彼女にいまここでその事情を説明する気はないようだ。しばらくは曖昧な霧の中に置いておく気らしい。果たしてその霧を晴らす言葉は見つかるのだろうか。
「ここは一体どこなんだ?」
 彼女は微かに頷く。それに伴い綺麗にカットされたショートの髪が揺れる。穏やかな波のように。
「当然の疑問ね。でもごめんなさい。わたしには答えることはできない」
「君は答えを知っている?」
 彼女が首を横に振る。その後に沈黙が横切り、僕たちの前に佇む。だけどすぐに彼女の言葉がそれを打ち消す。
「わたしが思うに、そのことはあまり重要なことではないような気がする」
「…重要でない」
「ええ、いまわたしたちがどこにいるのかということは」そこで言葉を一旦区切って、さらに続ける。「それよりもむしろ、わたしたちがこうして再開したことのほうが、何か大切な意味を含んでいる」
 彼女の言葉を受け入れて、その内奥をじっくり咀嚼する。隅々まで養分を吸収するかのように。何か大切な意味を含んでいる。
 その意味について思い当たるものがないか、自分の内側を探るが、該当するものはヒットしない。もう少し具体的なキーワードが必要なのかもしれない。
「過度な詮索や、質問攻めはあまり好きではないけれど、もう少し解像度を上げることはできないだろうか」
 彼女は口の端を適切な角度へ上げ、適切な微笑みを浮かべる。笑顔の図鑑のようなものがあったら掲載されていたに違いない。そして多くの人がそれを眺めながら、練習する。自分が浮かべる笑顔が適切なものになるように。
「できればわたしもそうしたいのだけれど、それは適わない。制約が多すぎるの」
「制約?どんなものがあるのだろう」
「現実的なものやそれに準ずるものは、ここでも当てはまるわ。たとえば重力のような。でも聞きたいことはそうした類のことじゃないのよね。ただそれを説明するのにも別の種類の制約があるの」
「制約の制約のようなもの」
「そう、制約の制約。ただ現実世界におけるそれよりは可変的だけれど」
「ある程度の自由が利く」
「あなた次第でね。いまのままでは現実世界とあまり変わらない制約がある。もっとも見て分かる通り、空間的な制約は初めから最低限なものだけれど、それ以外の制約も、最低限に近い水準に持って行くことはできる。あなた次第で」
「ということは、ここは現実の世界ではない?」
「ええ、一般的な意味においてはね」
 何だか頭が混乱してきた。思考回路が正常の纏まりを失い、混じり合っている感覚がする。一般的な意味において現実の世界でない。それはいったいどういう世界、あるいは状態のことを指すのだろう。言葉の意味が、その形態から乖離していく。ラベルがペリペリと剥がされるように。剥がされたラベルが乱雑に重ねられ、元あった場所とは違う場所に貼られていく。ないしは空白の位置に放置されている。
 僕は深呼吸をする。新鮮な空気を肺の中一杯に取り込む。脳の必要としている箇所に酸素を供給していく。何度か深呼吸を行うが、需給のバランスはなかなか均衡に至らない。時間をじっくりと掛ける必要があった。
 然るべき時間を掛け、思考が一段落し、その稼働音が鳴りやんだ。PCの電源を落としたときのように。だが形を成した結論のようなものは出てきていない。未だ熟していないどろどろとした、言語化される以前のものが、僕の頭の中に浮かんでいる。その存在はとても仄かなものだ。神経を鋭く集中することでようやく確認することができる。だが存在は確認できても、それが意味するところまでは読み取ることはできない。何しろ液体のように流動的なものだから。たとえ一つの意味を読み取れたとしても、またすぐ次の瞬間にはまったく違う意味を成している可能性を含んでいる。
 
何を口にするべきか、適切な言葉が見つからない。

「それで構わない」

彼女は僕の考えを読んだように、短くそう言った。「言葉も決して重要ではないし、すべての意味を明らかにすることはできない。どんな言葉を尽くしても」
 僕は曖昧に頷く。「それじゃあ、一体なにが重要になってくるのだろう」
「さっきも言ったじゃない。わたしたちが再開したこと、それ自体が大事な気がするって」
「うん、それはわかった。あいにく僕には再開は当てはまらないのだけれど。つまりどうしても君と会ったことを思い出せないんだ。でもそこには何か訳があって、その訳はいま説明することはできない」
 彼女はきっぱりと頷く。「言葉は並べられても、説明にはならない」
「では再開したことに意味があるという、君の仮説に則った上で、次に僕たちは何をすればいいんだ」
 彼女は驚愕と少しの困惑の表情を浮かべる。どうしてそんなことを聞くのかと。まるで1+1が2になる理由を問われたときのように。少しの沈黙の後、こう言った。「そんなつまらないことを聞かないで」
 静寂が訪れる。彼女の言う通りかもしれない。一般的な男女の関係において、(僕と少女がそうした関係だったのかは定かではないが、おそらく違うだろう。何しろ彼女は十代後半の風貌で、僕は壮年の域に立ち入ろうとしているのだから、)二人が会ったときに男が女に対して、僕たちが会う意味はあるのかと尋ねているようなものだ。そんなことを聞いたら幻滅するばかりか、関係に致命的な影響を及ぼしかねない。修復不能なほどのダメージを。
「ごめん」
 滑るようにその言葉が僕の口から流れ出てきた。それで彼女の損なわれた気分を償うことができるのかはわからないが、とにかく何らかの言葉で彼女に謝るべき気がした。結果としてとてもシンプルな、何も装飾のないワードが出てきたが、他に適切なものが見つからなかった。でも過度な飾り付けは省くべきだ。オッカムの剃刀のように。
「いいわ、気にしないで。ただ野暮な会話はやめましょう。何のためにもならない」彼女がトーンを若干抑えて言う。
「そうだね、そうしよう。気を付ける」
「変に意識する必要はないわ。意識して会話することで損なわれる部分もあるかもしれない。あくまで自然体で」
「自然体…」
「そう、あなたの心が導く方向にただ純粋に従えばいい」
 その彼女の言葉を頭の中で繰り返す。心が導く方向に純粋に従う。随分懐かしい響きを帯びている。ずっと昔に行われていたがいまは廃れてしまった儀式を、再び取り戻すときのような。かつては僕もそのような儀式を信条として持っていた時期があったのだろう。いまとなっては思い出すこともできないほど昔のこと。存在していたことすら、朧気になってしまったもの。年を経るにつれていつの間にか色褪せてしまった。気付かないうちに。
「なんだか懐かしい気がする」
「懐かしい?」
「うん、ずっと昔に失われてしまったもののような」
「ずっと昔…まだあなたはそれほど年をとってないじゃない」
「でも少なくとも君よりは長い年月を過ごしているよ。この身体と共に」
 それを聞いて彼女は自身の身体と僕を見比べる。それとなく。どうやら僕は得られたものよりも、失ってしまったもののほうが多そうだ。それらを一つ一つ描写してもいいのだが、気が滅入りそうだからよそう。
 彼女がふっと視線を逸らす。大きな鳥が空を横切って、それを追いかけるように。
「少し歩かない?」
「いいよ、歩こう」
 彼女はくるりと反対を向き、そちらへ歩き出す。僕は追って隣を歩く。ゆったりと心地良いペースで二人並んで歩く。僕の肩ぐらいの位置で、彼女の整えられたショートヘアが、彼女の歩みに合わせて微かに踊る。ストレートではなく、若干の抑揚を持った髪は、少女と一体になって動く。別にそこには何ら意味はないはずだが、何かを象徴しているような気がしないでもない。たとえば少女のダイナミズムとか。
 僕たちは柵に沿って歩く。さっきまで僕が一人で歩いてきた柵の続きを。一人で歩くのと二人並んで歩くのとでは、同じ光景の中でもやはりどこかが違う。まして美しい少女と歩くのでは。決してルッキズムに陥るつもりはないが、忘れていた昂揚感がふと蘇る。
もし僕が少女と同じ年であったら、あるいは僕が若かったころに少女と出逢っていたら、おそらく、いやほぼ確実にアプローチしていただろう。成功するかは定かではないが、むしろ失敗する確率のほうが高いだろう。僕には取り立てて魅力と言える部分があるとは言い難い。平凡という判断軸があるとしたら、その軸の中心に近い位置にいるだろう。少なくともマイナスではないが、標準偏差を小さくさせているはずだ。それに比べて彼女は平凡という枠は優に超えている。何かお洒落なファッション雑誌(僕はこの方面にとことん疎いので具体的な誌名を出すことができない)を捲っていて、その一ページに彼女が載っていても全く違和感はないだろう。それどころか雑誌の格を数段階上げる働きをしているかもしれない。それでいて緊張感を相手に抱かせない、柔和な雰囲気も併せ持っている。どこか超然とした部分はあるが、それと共に親和な部分もある。その二つが併存するのか、するとしたらどのような方法でするのか、よくわからないが、彼女の中では見事に調和されている。その調和はおそらく言語化できる領域を飛び出している。
とにかく何が言いたいのかというと、僕と彼女は不釣り合いだろう。男女という性においては。まして年齢もかけ離れている。僕は人生における頂点をおそらくは通過し、今後は緩やかに低下していく段階に入った一方で、彼女の生はこれからだ。いままでは準備運動に過ぎない。これから待ち受けている生を存分に享受するために、心身を成熟させる段階を経ている。それを以てして臨んでいく。これも僕が失ったものの一つだろう。
「どこに向かっているんだろう?」僕は彼女に問いつつも、その問いには正解がないことはわかっていた。
「どこだっていいじゃない」少女は軽く飛び跳ねるような調子で答える。
「そう言うと思った」
「どこにも辿り着かないし、別の言い方をするとどこへでも行ける」
「どこへでも?」
「そう、どこへでも。その場に居ながらにして」
「それはどういうことを意味しているのだろう」
「意味とかじゃないわ。そんなしがらみは置いておいて」少女は微笑む。
「しがらみからの脱出…」
「そう、何も知覚しているものが全てではないわ。その奥に存在しているものがある。それは知覚できるものと表裏一体になっているかもしれないし、かけ離れたものかもしれない。いずれにせよ感じるかどうか」
「なんだかそんな内容の本を読んだことがある。昔のことで詳しくは覚えていないけれど」
「わたしもその本を読んだかもしれない」
「そうだね。もしかすると同じ本なのかもしれない。細かいことは忘れたけれど、とても面白いことが書いてあった」
「聞かせて」

 少女と二人並んで歩く。随分な距離を歩いた気がするが、空間の概念は捻じれている。どこまで行っても柵は続くし、歩いていたい気持ちが絶えることはない。これは僕が望んでいるからなのだろうか。僕が少女に会いたいと深層で望んだことで、何か超越的な力が働いて、彼女は僕の目の前に現れ、柵はどこまでも続き、尽きることはない。もしかするとその超越的な力とは僕自身なのではないだろうか。僕がこの状況を創り出しているのではないか。そんなことが頭をよぎる。
 だからと言って何かが変わるわけではない。おそらく状況を操作する権限は、僕の無意識の領域に委ねられているため、意識したところで干渉できるわけではない。深い闇の中に隠されており、光で照らし出されない限り、表出してくることはない。そして僕はその光の当て方を知らない。何かサーチライトのようなものがあれば便利なのだが、そんな都合のいいものは存在しない。ただ都合がいいとは言っても、もしそんなものが存在してしまったら、世界はおそろしく淡泊なものになるだろう。あらゆるものが言語、あるいは僕の知らない何らかの手段によってあらわすことができる世界。そんな世界よりかは、いま現在の姿のほうがいいのかもしれない。程よく闇に覆われている現在の姿が。

「なんだか、君とこうして歩いたことがある気がする」
 少女が僕の瞳を見つめこう言う。「ええ、実際にわたしたちはよくこうして歩いていたわ」彼女の瞳は淡い光を反射している。その光は彼女の中で増幅され、自身の色に染まっているようだ。
「そのときの気持ちが蘇った感じだ」
「それは嬉しいわ」
「そのときも宛てもなく歩いていた?」
「目的は定めず」彼女の瞳の光が揺れる。それは僕に何か、穏やかで温かいものを思い起こさせる。
「それは実に楽しそうだ」
「とても心地良かった。なんてことのない会話を交わし、過ぎゆく景色を眺める。途中で喉が渇いたらカフェに立ち寄ったりもした」
「残念だけど、ここにカフェは無さそうだ」
彼女が笑う。その笑いは僕の全身を柔らかく包んでくれる。「わからないわ。角を曲がったら小さなカフェがあるかもしれない。美味しいコーヒーを出して、セロニアス・モンクを流しているようなカフェが」
「君はセロニアス・モンクを知っているの?」
彼女が頷く。「あなたが教えてくれた」
どうして僕は少女のことを覚えていないのだろう。記憶の片隅に、僅かな残滓が引っ掛かっているが、それはとても小さな断片に過ぎず、物語全体を語ることはできない。所々大事な部分が抜け落ちてしまっている。いや正確に言うと、核の部分が消失し、後に残されたのは、それがかつて存在していた予感のようなものでしかない。口承で伝えられてきた英雄の昔ばなしのように。
こんなことは僕において、あまり起こることではない。いやむしろ今までに経験がないことで、大いに僕を乱している。ある人に関する記憶をほとんど忘れてしまうことなど。どちらかと言うと僕は記憶力が良い方だと自負している。基本的に一度会った人の名前は、次に会った機会でも覚えているし、一度行った場所は、よほど複雑な道程でない限り、地図を見ることなく辿り着くことができる。これは現実において、なかなか有用なものだと思う。人間関係ではプラスに働くし、駐車場に停めた車の位置で迷うこともない。そして女性を好みの店に連れて行くことができる。あるいは苦手な食べ物の注文を避けることも。
だが少女に関しては、そのほとんどの部分が欠落してしまっている。これはどういうことだろう。何か外的な作用が働いているのだろうか。記憶をしていては実際的な面で不都合なことがあり、蓋をしてしまっている。外に漏れ出ることがないように。ある種の防御反応なのかもしれない。僕自身が意図して蓋をしたのだが、そのこと自体にすら蓋をしている。ないしは強力な外部からの力が働いて、有無を言わさぬうちに閉ざしてしまったのか。だが上手いこと彼女に関することだけに蓋をすることができるのだろうか。またその蓋は、彼女と接しているうちに僅かだが開いているような気がする。その隙間から朧気な匂いが漂っている。
あるいは全て僕の意識の内で働いていること、として片づけられるのかもしれない。それならば雑の言い方をすると、何でもありだ。全ては僕の範疇だ。都合の良いように解釈できる。ある人は強く願うこと、そして訓練することで夢の中で自由に動くことができるようになると言っていた。仔細な方法は忘れた、というか互いに酒をかなり飲んでいたし、僕はまったく信じていなかったので、彼が熱く語る内容を聞き流していた。だがとにかく彼は夢の中で自在に活動することができ、望む人物を登場させることができるらしい。そして当然のことながら、自身の欲望に忠実に従っていたそうだ。あとは想像にお任せする。いずれにせよ、いま起きていることはそうした部類のことなのかもしれない。ここは夢の中で、彼女はその中に登場する架空の人物に過ぎない。現実には一切干渉することなく、全ては僕の頭の中で完結する。そこでは何が起こっても不思議ではない。たとえそこにどんなに深い闇が眠っていたとしても。
「それにしてもリアル過ぎる…」僕は思わず口にする。
「というと?」
「これは夢なのかと思ったけれど、それにしてもリアル過ぎる」
「あなたの仮説は棄却された?」
「完全にではないけれど、おそらくはそちらの方向に傾いている」
「夢でないとしたら、ここはどういう成り立ちをしていると思うの?」
「それがわからないんだ…」
 彼女は微笑む。無言のうちに彼女の答えが含まれている。
「でもそれは重要ではないんだろう?」
「ええ、その通り」そういって美しい笑みを浮かべる。「でもそうやって答えをはぐらかしてばかりいては不親切だから、ある程度の示唆は提供してあげる」
「ある程度の示唆」
「そう、わたしなりの解釈」
「聞かせほしい」
「ここは狭間のような部分だと思うの。こう考えて。認識でき得るあらゆるものは、複数の要素で構成されていると。その構成要素の素材なり配分なりが、異なることによって、ものの差異が生まれる。一つ一つの要素は色の違う粘土のようなもので、様々な粘土が混じり合うことによって、わたしたちが認識しているものができる。言い換えると粘土玉になることで、認識できるようになる。その粘土玉において、一つ一つの粘土はぐちゃぐちゃにこねられて、明確な境界というものはない。グラデーションになっていて、あやふやな部分がある。そうした部分が、いまわたしたちがいる場所なのだと思う」
「つまり現実と夢の間の部分ということ?」
「そういうこと。どちらの要素も含んでいて、どちらかであると完全に言い切ることはできない部分」
「なるほど」
 彼女の言葉を浸透させる。それは確かにある程度の示唆、いやかなり重要な示唆に思えた。だが少女の口ぶりからして、あくまで示唆であって、客観性あるいは普遍性を備えた答えではないのだろう。しかしそんな答えが存在するとは思えないし、いまの僕にはある程度の示唆で十分だった。それだけでも僕の思考は、収まるべきものが収まるべき場所に入った感覚があった。それに繰り返すがここがどこであろうと、あまり重要ではない。そう彼女は言った。
「だとすると君はいったい、どういう存在なんだろう?」
「あなたはどう思っているの?」
「そうだな。もしかすると観念的存在とかイデアとか」
「ふふ、残念ながら違うわ。わたしはどこかの団長ではないわ」
「言ってみただけだ。もし実際にそうだとしたら、君の示唆あるいは解釈は矛盾を孕んでいることになってしまう」僕は一呼吸置いて続ける。「君の示唆に則ると、君は現実的な存在と、観念的な存在の両方の要素を含んでいることになる。そのどちらかであるとは完全に言い切れない。そうだね?」
 彼女は頷く。
「こんなことはいままで経験したことがないから、あくまでこれは僕の憶測に過ぎないけれど、現実の君は別に存在するんじゃないのかな?」
「さあ、どうかしら。わたしはすべてを知っているわけではないの。どちらか言うと、あなたの立場に近いと思う。ただ来るのが少し早かったというだけ」
 僕はそれについて少し考える。確かに少女はすべてを知っているというわけではなさそうだ。彼女の言う通り、この世界における異邦人ということは僕と変わらない。ただ彼女は何かを知っているはずだ。少なくとも僕の過去を知っていると言った。そしてその過去において僕となかなかに親しかったと。
 もしかすると少女は僕との関係、僕の記憶にない過去の関係、これを知っているに過ぎないんじゃないだろうか。(それでも僕には結構な影響を及ぼすのだけれど。僕自身の知らない僕を少女が知っているというのは、あまり心地良いとは言えない。靴の中に小石が入って、ひっくり返すのだけれど、どうしても取れない感覚のようだ。)そうだとすると、ここがどこであろうと重要ではない、という彼女の主張は納得できる。彼女もこの場所の成り立ちについて詳しくは知らないし、あまり気にしてもいないように見える。
「だから君は、僕たちが再開したことのほうが重要だと言ったのか」
「…ええ、その通り。もう会えないかと思っていた」
「どうしたら君のことを思い出せるのだろう」
「それもわからない」少女の顔に光が翳る。「いまはこうして並んで歩くことしか思い浮かばない。話すことしかできない」
「…わかった」
僕は足元を見る。一切の変化がない地面が続いている。
「もっとうまい言葉があるのかもしれないけれど、君とこうして話しているのはすごくいいことだと感じる。それがどのようにいいことなのか、適切に表現できないのが、もどかしい」
「別にそんなものは必要ない、わたしたちの間には。感じられるだけで十分」
「そう言ってくれて嬉しいよ」
 俄かに彼女の手を握りたい感覚に駆られる。もし握ることができたら、それは素晴らしい気分を味わうことになるだろう。互いの感情を、手を通じることによって交わらせることができる。もっと直接的に繋がることができる。その内面に深く潜っていける。おそらく僕が手を取ったとしても、少女は拒否しないだろう。二人の間にはある種の親和性が漂っており、それをひしひしと僕は感じている。彼女から発せられたものなのか、あるいは僕自身から発しているのかわからない。いやおそらくは相互発生的なのだろう。互いに触発し合って、一つの親和性の像を形成している。
 もちろん内面における交流だけに留まらないだろう。あるいは手を握ることによる内なる疎通は、最終的な産物であって、身体的な繋がりがまず感じられるのかもしれない。見る限り彼女の白い手はきめ細かく、艶やかなものだった。それに触れることができたら。
 しかし僕に彼女の手を握る決断は下されなかった。寸前のところまで迫ったが、最後に何か強力なものが、僕を留まらせた。彼女の手を握ってはならないと。彼女の手を取った瞬間に、この場所が消滅してしまうような気がしたのだ。それは何の根拠もない、一種の直観のようなものだった。ただ何となく、少女と触れることで、何かしらの変化が生じ、そしてその変化はこの場所の消滅に至るという直観。僕たちの身体的な接触が契機となって歯車が動き出す。それは大きな力を生み出すだろう。そうした可能性が直観によってもたらされ、否定できない以上、僕は少女の手を取ることができなかった。もっとこのままでいたい。どこまでも歩いていたい。
「ありがとう、そう思ってくれて」彼女が美しい笑顔を表して言う。
「どうしてわかったんだ?」
「あなたの顔にそのまま書いてあるんだもの。わかりやすいわ」
 少し顔が熱くなった。考えていることが、フィルターも無しに表に出ていること、そしてそのことを彼女に指摘されたことによって。
「別にいいじゃない。何を考えているのかわからないよりかは、そうして素直に表現してくれたほうが嬉しい」
「それがあまりに率直ということはない?」
「わたしは気にしない。だからあなたも気にしないで。誰か見ているという訳でもないし。ここにはあなたと私しかいない」
「そういう問題ではないような気もするけれど、君がそう言うならそれでいい。確かにここには君と僕しかいない」
「何か不都合なことがあった?」
「いやそんなことはない。ただ何というか落ち着かないといか。もちろん君と一緒に居ることにある種の心地良さを感じている。だけど…」
「だけど?」
「僕以外の何かがそれを許さないんじゃないかな?君のような少女と僕が一緒にいることを」
「まったくもどかしいわね。わたしがあなたと居たいから、いまここに居る。それで十分じゃない?何かしら保証のようなものが必要なの?」
「いやそんなこともない…」
「あなたは他の人と居るときも、根拠を求めたりするの?」
 返す言葉が見つからない。現実の、つまりここではない通常の世界での僕の振る舞はどのようなものだっただろう。居心地の悪い空間、たとえば大して関係も深くないのに、義理のようなもので参加している空間においては、確かに居場所の根拠を探すようなこともあったかもしれない。窮屈な状態になって、無理に思考した結果の振る舞いは、ひどくぎこちないものに映る。自分にとっても、あるいは相手にとっても。そんな自分を認識した僕自身は、何か手を打てただろうか。おそらくやり過ごしていたに違いない。そうして自身を無視し続けた結果生じる、摩擦のカスは一つ一つは細かいものだが、着実に僕の中に蓄積されていった。いずれは臨界点を迎えることになるだろう。そうなる前に、初春にさらうような滑らかな風で吹き払う必要がある。どこまでも流れていく風によって。
「君は年下のようには見えないな」
「よく言われる。それはいい意味においてよね?」
「それはどうだろう」
 少女が笑う。綺麗な白い歯が隙間から覗く。それは僕に何故か非自然的なものを想起させた。
「君は僕以外のことにも、多くのことを知っているんじゃないかな?」
「それはどうかしら。他の人がどの程度ものごとを把握しているか、それを知る手段があまりないから」
「うん、それはそうだ。でも君と話していて感じるよ。君の背後あるいは内部にあるものを」
「どんなものを感じる?」
「感じてもそれは果たして言語化できるものなのかな?」
「そうね、少なくともわたしにはできないわ。自分の意識を認識するようなことは」
「僕にもできない。訓練でできるようになるとも思わない。でもそれで構わない。感じることはできるから」
「感じることはできる…」少女は噛みしめるように言葉を呟く。そこに何かしらの隠喩が含まれていることを確認するように。そしてこう言った。「その感覚を忘れないようにしないとね」

「そろそろあなたが戻るときが来たわ」
「戻る?それは夢から醒めて現実に戻るということ?」
「ええ、あなたは元の現実に戻り、あたしはあなたの前から一時的に見えなくなる」
「一時的にということは、また僕たちは会えるということだろうか」
「あなたが望めば会える」
「僕はそう望む気がする。たとえいまここでの出来事をすっかり忘れたとしても」
「ここで起こったことをあなたが忘れることはないわ。そう意図しない限り」
「つまり僕は望めば、ここでの出来事を現実においても覚えていて、また君と会うことができるということ?」
「そういうこと。選択はあなたに委ねられている」
「ならば僕たちはまた会うことになる」
「そう言ってくれて嬉しいわ」
「ずいぶん長いこと話をしていた気がする」
「そうね、そして長い距離を歩いた」
「どれくらいって聞くのは、きっと意味のないことなんだろうね」
「ええ、ここでは時空間の軸は意味を持たないから」
「どうすれば君と会えるかな?つまり望むことの具体的な方法についてだけど」
「詳しくはわたしにもわからない。漠然と思うことで何かしらの法則が働くとしか言えないわ」
「また曖昧な言葉が出てきたね。ある程度の示唆と言ったほうがいいかな」
「できることなら、わたしも具体的な方法を教えてあげたいのよ」
「でも君はそれを知らない」
「そもそもそんな方法が存在するのかどうかすら知らない」
「わかった。じゃあ僕は望み続けることにしよう」
「それが一番の近道だと思う。下手な方法を模索するよりも」
「ありがとう、君と話せて楽しかった。とても」
「こちらこそありがとう。また会いましょう」
 
その彼女の言葉を最後に、彼女の顔が歪む。いやこの場所全体が大きく揺れていた。そこに含まれるもの全てを混ぜる勢いで揺れる。自分が立っているのか座っているのか、わからなくなる。少女のワンピースの白い色が、渦を巻いて回転する。それは強風に煽られる旗のようだった。最後に少女の言葉が響く。

「また会いましょう」

 その言葉が実際に発せられたのか、あるいは攪拌された僕の意識の中で再生されたものなのかわからなかった。どちらだとしても、それもあまり重要なことではないように思えた。彼女の声が頭の中で響いている。そちらのほうが、何かしらの意味を内包している気がした。ゆっくりと視界が黒い幕で覆われる。波が砂浜を侵食していくように。そして僕は完全なる無の中に陥った。

目次