僕たちはスツールに並んでウイスキーを飲む

 けたたましい音で覚醒する。その情緒も、留保も、容赦もない音は、僕の鼓膜を嫌と言うほど殴りつける。あまりにも暴力的に。意識をまどろみの中に残したまま、緩慢に腕を伸ばし、そこにあるだろうと思しき位置に振り下ろす。一度目が空を切り、しばらく後の二度目の振りで、その音がようやく止む。部屋の中に静寂がもたらされる。やがて羽虫がそこら中に飛び回るような、何とも形容しがたい、僅かな音を感じ取る。どうやら世界はいつも通り廻っているようだ。
 ベッドの中で布団を被ったまま、なかなか動くことが出来ない。いつまでもこちらの世界に残っていたい。この弛緩と温和で満たされた世界に。だがそういうわけにはいかない。そう頭の中で何度も唱えた後、ベッドから脚を出し、起き上がる。ゆっくり立ち上がり、窓際に近づき、カーテンをひと思いに開ける。そこから差し込む光は鈍く、空は蓋をされたように重い雲で覆われていた。一面の濁りきった灰色だ。まったく、今日も曇りか。
 台所に行き、戸棚の中からコップを取り出し、水を注いで飲む。乾いた身体に染み渡っていく。その潤いはほんの一時的なものに過ぎないが、それでもないよりは幾分ましだ。洗面所に辿り着き、蛇口のノズルを捻る。気怠そうな音とやや遅れて水が流れ出る。鏡に写る顔を覗くと、思わず本当に自分の顔かと疑いたくもなってしまう。壮年も前期から後期に差し掛かり、それ相応の弛みが滲み出てきた。瞼は重く垂れさがり、頬もかつてに比べると肉を帯び始めた。かろうじて、しわはまだないが、それもおそらく時間の問題だろう。目尻の辺りがだいぶ怪しくなってきている。水を流しつづけ、しばらくそんなことを思う。こんなものか。
 なかなか温まらない水に耐え兼ね、不快な冷たさのまま顔を洗う。いつ洗濯したのか、定かではないタオルで顔を拭き、クローゼットに向かう。アイロンがしばらくあてられていないシャツと、抽斗の一番上にそのまま畳まれたズボンと、危なげにハンガーに引っ掛かっているジャケットを取り出す。今日も食事をしている時間はない。それらを着込み、バッグを掴んだところで、ネクタイを締め忘れていることに気付き、クローゼットに戻る。さすがに昨日と同じだとまずいか。奥の方から引っぱり出したものを巻き付ける。くたびれた靴に足を突っ込み、扉を開く。その隙間から冷ややかな空気が流れ込んでくる。目に付くあらゆるものを損なわせようとするように。襲来に備えて、身を内側に縮こまらせる。外に出ても相変わらず薄暗い。どこか埃っぽいような、閉所を思わせる臭いが立ち込めている。何もかもがまだ眠っているようだ。
 駅に向かう道を進む。あの街へ続く電車、それが来る駅へと。多くの人が同じ方向に向かう。似たような服を着て、似たような表情をした人々が。空だけではなく、地上までも薄暗い。その地上でうごめくもの一切も含めて。自分もそのうちの一部でしかない。群棲動物のほんの僅かな一部でしか。僕達を含むその群れは、一体何に群れているのだろう。僕たちの根底にある原理は、誰によってもたらされ、誰のために動いているのだろう。そうした疑問を、そこはかとなく抱きつつ道を進む。街へいくために。
 駅に向かう途中、コンビニに立ち寄る。電車を降りた後のほうが大きいコンビニがあるが、それに比例して客の数も多い。時間がひっ迫する中レジ待ちをすることほど、うんざりすることはない。そうした理由から、電車に乗る前に買って、駅に着くころには食べ終わる、それがここ最近の朝食のスタイルだ。まあいずれにせよ、うんざりすることには変わりないか。棚にいくつも並べられた、サンドイッチを一個掴み取って、レジに行って会計をする。そんなことをしているうち、さっき抱いていた考えなどは跡形もなく霧散し、漫然とただ目の前のことに取り掛かる。これが終われば、すぐに似たようなものがやってくるのだろう。そしてそれも、いずれは過ぎ去っていく。すべては繰り返しだ。そこに意味などない。あるいは遠いどこかで、意味を成しているのかもしれないが、少なくともいまここで、僕にとっての意味は見いだせない。そんな観念上の産物に、一体どんな価値があるのだろう。
 コンビニを出て、ビニールの包装を破る。細かいかけらが、冷たく無機質な風に吹かれて飛んでいく。サンドイッチを取り出し、ビニールをジャケットのポケットに突っ込む。冷えたサンドイッチにかじりつき、味わうことなく流し込む。そしてその次も。駅に向かうにつれて、人の数は多くなる。この時間だから、みんなあの街に向かうのだろう。陰気なジャケットとズボンでめかしこんで。人の流れはとても早い。少しでも気を抜くと、次々と追い越され、すぐに取り残されてしまう。そして陰険な眼差しを向けられるか、あるいは阻害する者として無視される。そうならないように、流れに逆らわないように、気を配りながら群れの中を進む。
 改札を通り過ぎて、ホームに上がる。街から遠ざかる方には人が見えないが、これから街へ行く方には人の海ができている。電車が来るたびに引き、そしてすぐに寄せる海。その波打ち際に加わり、電車を待つ。向こうに見える看板の上に、一羽のカラスが留まり、こちらをじいっと見つめてくる。そして一度鳴いたかと思うと、その大きな黒い翼を広げ、薄暗い雲に向かって飛び立っていった。余韻がしばらく周囲に漂う。
 やがて電車がやって来る。その中身は、ぎりぎりまで水位を上げられたプールのようになっている。これ以上、水位を上げたら溢れてしまいそうだが、不思議なことに氾濫することはなく、常に臨界点を越えないようになっている。どうやって調整が行われているんだろう。今もまた、どうやっても入らないと思われる所に、どんどん人が飲み込まれていっている。底なしの沼が、大きく口を開いている。その渦の中に僕も飛び込んでいく。電車の中は空気までもがひしめいて、鬱屈としていた。外はあれほど気温が低いのに、むせ返るほどで、一刻も早く抜け出したい思いに駆られる。狭隘な空間に身体が押し付けられ、その循環活動が一時的に低下し、意識に薄い膜がかかる。そんな中身に一片の憐れみさえも与えることなく、アナウンスが鳴り響きドアが閉まる。そして気怠そうに電車は動き出す。徐々に速度を上げ、人の頭の隙間から垣間見える僅かな風景も、それに伴い過ぎ去っていく。やがてホームが終わり、線路の向こうが詳らかになる。そこにはどこまでも背の低い建物が続いていた。時折、周囲より一段と高い建物が生えて、単調な景色の中にある種のアクセントをもたらしている。だがそれでも、全体としてそれが与える印象は単調の領域を抜けきっていない。どれも同じような大きさの、同じような色の屋根を持ち、その下ではやはり同じような淡泊な営みが行われているのだろう。それがどこまでも広がっていた。その上を数羽のカラスが飛んでいる。真下に広がる光景など歯牙にもかけずに、ただ悠然と。

 会社に着く。下のロビーには、エレベーターを待つ長い列ができている。何回も何回も上がっては下りてを繰り返しているが、それでもやって来る人の量に追いつくことはできない。新たにロビーから来た人は和を乱すことなく、ただ自分の番が来るのを待っている。別の入り口から入って来た同期の一人が、僕に声を掛けてきた。
「おはよう、元気か」
 朝から溌剌さを滲ませた声がよく響く。ややうんざりとした気持ちが顔を覗かせるのを覚えながら僕は答える。「ああ、なんとか」
「なんとかね」彼が一瞬思案する。純粋な沈黙が訪れる。僕の発現の意図を掬おうとしているのだろうか。「何かあったのか?」彼が尋ねる。
「いや、何もないさ」僕は会話を打ち切るためにそう答え、実際に会話はそこで失われた。
 エレベーターがまた開き、僕と彼を含む人の列がそこに乗り込む。遍く階のボタンが灯され、人が限界まで乗り込んだのを見計らって、ドアが閉められる。音もなくエレベーターは上昇し、また音もなく精密に停止する。その動作に寸分の狂いもない。階を通過するごとに人は下りていき、空間がある程度緩和されたころ、同期が口を開く。
「本当に何もないのか?」
「ああ、大丈夫だ」僕はそこに、もしあったとしてもお前には話さない、と心の中で付け加える。
「そうか、ならいいんだ」彼が答える。僕の真意に気付いたのかどうかは、その声からは判別できない。基本的に鋭敏な男だが、都合の悪いことにはその感覚の蓋が閉じられることがある男でもある。いや、できると言ったほうがいいだろうか。いずれにせよ、この男に対してはなるべく多くを語らず、少ない要素を乗せることにしている。シンプルなシフォンケーキのように。
 エレベーターは滑らかに上昇し、それに伴い地表が遠ざかっていく。景色が縮小されていき、視野が拡大されていく。地上を蠢く雑多なものがどんどん、視覚において些末なものになっていく。もう慣れたものだが、改めて考えると不思議な感覚だ。林立するビルの隙間からは薄暗い空が覗いている。途切れることのない雲の底がそこに波打っている。
「そろそろだな」彼はどうやら会話を続ける気のようだ。
「何が?」僕はそれにひとまず応じる。無視したい気分だったが、そういうわけにもいかない。
「ほら、もうすぐ期末だろ」
「ああ、そうか。待ち遠しく思っているのは、お前くらいだよ」沈む気持ちを隠して言う。
「そんなことないだろう、お前だってあるかもしれないだろ」
 僕はゆっくりと首を振る。「さあ、どうだろうね」
「いいと思うんだけどな」そこにおそらく悪意はないのだろう。
 エレベーターが急速に速度を落とし、オフィスが入った階に止まる。僕はボタンを押し、同期に先を譲る。そこに一歩踏み入った途端、騒がしい音が充満し、気持ちの切り替えを無理やりに要求する。奮い立たせなければいけない。今日もやらないと。挨拶をし、通路を通り抜け、同期と別れて自分の部署に向かう。始業時間が近づいていることもあって、もうすでに多くのデスクは稼働している。そこに挨拶をしつつ、僕の席に辿り着く。コートを脱いでラックに吊るされたハンガーの一つにかけ、椅子に座る。沈むような気分をなんとか奮い立たせ、PCの電源ボタンを押す。ファンが稼働する音が微かに響き、モニターが起動するのを待つ。この一連の動作まで無意識の下で行われたが、すでに多くのものが損なわれた気がする。これから待ち受けている、無味と退屈と諦念が支配する時間に備えるために。耐え忍ぶために意図して無意識の領域に押しやったのか、あるいは無意識の領域にあることで、耐えがたい苦痛となっているのか。そのどちらとも判別がつかないが、いずれにせよ、結果として僕の人間らしさとでも言うべきものが損なわれているのは確かだ。そこからの解脱を志したこともあったが、いまではそんな気力は霧消して痕跡すら残していない。そんな残滓のような状態がいまの僕の現状だ。
 モニターにようやく光が灯る。ロックを解除して必要なソフトウェアを起動し、タグを開く。一通り並べ終わったところで始業開始時刻を迎える。今日もまた始まった、この時間が。昨日からの続きに取りかかる。ただひたすらに画面を見つめ、その中の数字をいじる作業。渡されたものの中から、修正が必要な部分を見つけて、それを適切に修正し、また次に流す。一つ終わればまた次のものが流れてくる。一つが完全に終了する前に、すでに次のものが顔を覗かせて待機している。それが絶えることはない。たとえあるとしたら、それはこの場所が崩壊したときだろう。そんなことあるのだろうか。
どうでもいいような考えが、次々と頭の中に浮かび、そして沈んでいく。僕はそれに一片の意識を払うこともなく、ただ通り過ぎて行くのを見ている。いや、無意識のうちに意識の一部は持っていかれているのだろう、気付かないうちに。ほんの僅かだが、確実に損耗は生じているのだろう。それがあまりにも細かく、そして頻繁に行われているため気付かない。そうして徐々に蝕まれている。気付いた時にはもう遅い、取り返しのつかないことになっている。
「ねえ、ちょっと」僕に声がかけられる。意識を戻し顔を上げ、その声が上司のものだと確認する。席を立ちあがり、上司のデスクの元へ向かう。背は曲げられ足取りは深い。こういうとき、こういう口調の場合は、たいていがろくなことじゃない。業務の遂行においては重要なことなのかもしれないが、僕のなかにおいては違う。
「ここなんだけど」上司がモニターを僕のほうに向け、指をさす。僕が関わった部分だ。
「これで本当に大丈夫?」モニターから僕のほうへ視線を移し、そう尋ねる。
「ちょっと確認してみます」
「うん、頼むよ」
 会話がそこで打ち切られる。僕が席に戻ろうとすると、「あ、ちょっと待って」と呼び止められる。振り返ると、一枚の紙を抽斗から取り出し、それを僕に手渡してくる。
「この前の話だけど、結局なかったことにしてくれないか」
「え、どうしてですか?」その言葉が僕の中から飛び出してくる。
 上司は微かな当惑と躊躇を顔に滲ませ、「他のやつが入ることになった」と言う。
 すぐにはその言葉の意味と、上司の意図をくみ取ることができなかった。この人はなにを言っているんだ、なぜこの人はこんなことを言うのだろう。どうして僕はそんなことを言われなければならないんだろう。いや、結局は上司のその上が言っているのだ。僕がそこに達しなかっただけに過ぎない。どうすることもできない。そう僕が結論づけるのに時間はかからなかった。いままでにも似たようなことを経験してきたから。一度これと言われたことを覆すことは、相当な労力が求められるうえ、成果が保証されているわけでもない。
「それは決定ですか…?」半ば諦め、半ばすがるような気持ちで聞く。上司は何を口にすることもなく、ただ頷く。沈黙が漂う。とても重く、簡単には追い払うことのできない沈黙が。
「そうですか…」ようやく沈黙を裂いて呟く。
「すまんな」
 謝意など微塵も湛えていない言葉を背中に受けて、僕は席に戻る。そして深く深く沈み込む。沈んでいく先に底は見えない。どこまでも深く、そして暗い。光が届くことなど想定されていないであろう世界が覗いている。どうしてこうなんだろう、どうすればよかったんだろう。答えを求めて辺りを見回すが、それらしきものは存在の予感すら漂わせていない。そこにあるのは純粋な闇と、濁りきった僕の心だ。
 気を緩めると、目の奥から熱い感覚が湧き出てきそうになる。一度堰きが切られると、自分ではどうしようもできないことはわかっていた。止めどなく溢れ続け、枯れ果てるまで終わらない。いや、枯れるときなど訪れるのだろうか。なんとかそれを抑えようと、水筒に入った水を飲む。カラカラに乾いた喉を冷たい水が流れて行く。このまま僕の深部まで浄化してくれ。そんなことを願うが、叶うことはない、永遠に宙に浮いたままになる願いだろう。意識をいまに戻そうと集中する。ふとすると霧消しかける集中をかき集める。しかし乾いた砂で構造物を作ろうとするときのように、なかなか形を持って現れない。手に取る傍から崩れていく。そして跡形もなく消え去ってしまう。仮初の集中でさえ取り戻すことに失敗した僕は、ただ光る画面を見つめている。そこには数字が踊っている。
 周りでは各々のデスクで、各々が作業に取り組んでいる。キーボードをタイプする音で空間が充満している。そこら中から発せられるその音は、重奏を奏でている。決して心地良いものではない、ただの機械から発せられる、ある種の圧をもった音だ。一つ一つの音は僅かなものだが、束になると威勢を有して、その他の音を徹底的に吸収してしまう。そんな音だけが、ただひたすらに響き、鼓膜を震わせる。誰もが画面に向き合っている。その中に何かとても大事なものがあるかのように、それを探し求めているかのように。果たしてそんなものは存在するのだろうか。あったとして、それは何をもたらすのだろうか。画面は光り続ける、とても宿命的に。
 そばにあるブラインドからは、鈍い光が差し込んでいる。外は曇天だ、そのことはここへ来る前にうんざりするほど突き付けられた。分厚い雲が空を覆い、光を隔絶している。地上に届けられる僅かな光はあまりにも弱々しく、心の渦を吹き飛ばすことはできない。暗く重苦しい空気が佇んでいる。いつから晴れていないんだっけ。確か今月に入ってからずっとこんな天気が続いている。一時でも晴れれば、太陽が顔を覗かせれば、気分はましになるはずなのに。まったく……
 作業は遅々として進まない。画面の中の数字を、その表面をただ意味もなく見つめる。それが表しているはずの意味を読み取ろうとするが、淡い集中が阻止してくる。上から下に数字がただひたすらに流れて行く。ターンテーブルの上でひらすらに回るレコードのように。針を使って繊細に読み取る必要があるのだが、どうもそれができない。音が鳴る事はなく、無心に回り続ける。乾いた機械音だけが虚しく響く。終わりが来ることはあるのだろうか。
 天井には蛍光灯が均等に配置され、無機質な灯りを発している。その脇にあるエアコンからは、無遠慮な温風が吹き付ける。一応は空気が循環されてはいるのだろうが、どうにも澱んだ感じが拭えない。そこら中の空間に不快な溜まりが漂っている。そんな空気を一日吸い続け、身体組成が構成されている。機械に囲まれ、機械が作る空気を吸い、機械のために貢献する。
画面の中の数字は僕の目の前で踊り続ける。
ときどき通路を人が通り過ぎる。会議室に向かうためか、あるいは何か確認を求めているのか。各々の目的を遂行するために慌ただしく通り過ぎる。その中には僕の同期も何人か含まれていた。会社によく貢献したと評価された彼らの元には、すでに何人かの部下が付いていたりした。その部下たちを束ね、さらなる会社への貢献を要求されている。そんな彼らは常に会社にいた。日が昇ると会社に来て、日が落ちても居続け、日付が変わってようやく一部が帰る。中には帰らない連中もいた。そうしてよく貢献した者が評価された。評価された者が上へ行った。
間断なくどこかで電話が鳴り続ける。何かの要求を突き付けてくる電話だ。それは会社内で完結することもあれば、外部から思いもよらぬ要求が舞い込んでくることもある。あるいはこちらの要求に返答を返すものかもしれない。電話が繋がっている先の線は複雑にこんがらがり、四方へ伸びて行く。その中を声が通り過ぎて行く。何度も何度も。
修正が必要と思われる、それらしき箇所が見つかった。何度も確認したはずだったが、どうやら数字が一つ違うものが入っていたようだ。正常のものの中に一つ異物が混じる、たったそれだけのことで、完全に動かなくなる。いや、動くには動くのだが、意図した動きではなくなる。意図した動きをしなければ、数字は存在の意義を損なう。だから一つ残らず、完璧に仕上げなければならない。そこに外部性が介在してはならない。
数字を一つ修正したところで昼休みの時間になる。ようやくこの時間。唯一の安らぎがもたらされる。すぐに行くとエレベーターが混雑するため、少し時間を置いてから席を立つ。エレベーターに乗りビルの外に出るまで、誰にも声を掛けられないことを望んだが、それは儚く消えた。オフィスを出た瞬間に、朝会った同期とぶつかった。
「お、一人か?これからどうだ?」相変わらず、溌剌さをほのかに含んだ声を掛けてくる。部署は違えど上長とのコミュニケーションを断ることは、評価に関わってくる。今更僕の評価などあってないようなものだし、僕もどうでもよく思っていたが、上手く断る理由なんて存在しない。一人で過ごしたかったが仕方ない。やすらぎの時間のはずなのに、鬱屈とした気分が漂う。エレベーターホールで待つ。周りには誰もいない。二人の間に会話は生じない。オフィスのほうから微かなざわめきが届く。それ以外に一切の音はない。あるいは何らかの象徴も。

「それのただひたすら繰り返しだったんだ」僕は男に向かって話す。初めて会った男に、躊躇いもなくついていったバーのスツールの上で。
男が開けたドアの先は、ほのかな灯りを放ち、黒を基調とした内装に、数脚のスツールとカウンターがあるバーだった。カウンター以外には、一人掛けのソファとテーブルのセットが何組か置かれている。どれも落ち着いた色合いをして、過度の想像の介入を許していない。数々のワイングラスが掛けられ、灯りをじんわりと反射し、空間を心地よく整えている。地下に位置するその場所は、あまり広いとは言えないが、天井が高く、また余計な家具や調度品が置かれていないので、閉塞感は感じさせない。必要なものだけが必要な場所に置かれている。それも適度に。全体の色彩系統が統一されているからだろうか、調和がもたらされている。客は他に数名入っており、物静かに各々の時間を満喫しているようだ。カウンターでは男女が並んで座り、隠微な会話を交わしている。その横の一人掛けのソファでは男が一人、黙々と本読んでいる。本の題名は隠されてよくわからないが、男が本から視線を移すことはない。時折、気付いたようにテーブルに置かれたグラスを傾ける。カウンターの奥では三十歳前後の、バーテンにしてはおそらく若い部類の男が一人、佇んでいる。天井に設置されたサウンドシステムからはビル・エヴァンスが流れている。とても有名な曲だ。曲名はたしか「ワルツ・フォー・デビイ」
僕をここまで連れてきた男は、バーテンと顔見知りのようで、軽く挨拶を交わし、滑らかな動作でスツールに腰かけ、ジョニーウォーカーのロックを注文する。僕もその横に座り、何にするか尋ねられ男と同じものを注文する。そのスツールはとても座り心地がよかった。
「いいところでしょう」男は軽く横目で、僕のほうを見ながら言う。
それには確かな同意を覚えたため、頷いてそのことを示す。
男は微笑みながら続ける。「こんな煩い街にありながら、静かな空間を提供してくれる、なかなか貴重な場所です」
僕は僅かに周囲を見回す。二つ離れて座る男女は、囁くように話し合い、笑いをささやかにたたえ、ソファに座る男は相変わらず音もたてず頁を繰っている。時々響くグラスを置く音や、バーテンが移動する靴音以外、耳に触れるものはない。そのなかにビル・エヴァンスの演奏が流れている。
ジョニーウォーカーのロックが二つカウンターに並べられる。男はそれを手に取り、穏やかに乾杯と告げ、グラスが重なる音が鳴る。黄金色の液体が煌めきながら揺れる。熱いものが喉を通り抜けて行く。
「さて、何から聞きましょうか」男はグラスをカウンターに置いて言う。男は僕をじっと見つめる。その目の奥に柔らかな光が灯っている。「いや、その前に僕の簡単な自己紹介でもしましょうか。見知らぬ男にあれこれ言ったりするのは気が引けるでしょうから」男の声は澄やかに通る。「名前は加瀬です。今年で二十五歳になります」
 一回り近く年が離れていること、そして男が持つある種の超然として落ち着いた雰囲気により、もっと上かと思っていたことで、驚きがよぎる。「ずいぶんと若いんですね」僕はそれをありのままに伝える。
「もっと上かと思いました?よく言われるんです。そんなに老け顔かな」
「いや、そうじゃないです。なんというか落ち着きを纏っているから」
「纏っている、素敵な言い回しをされますね」加瀬がにこやかに言う。均整を持った顔に人為的な綻びが走る。相手を好意的な気持ちにさせる笑みをする。
 加瀬がグラスを持ち上げ、一口含む。「小さな会社で総務とか経理とか、そういったこと全般をやっています。従業員はあまり多くないが、面白いところです」加瀬は正面の壁を見つめていたが、ゆっくりと視線を僕に移し、言葉を続ける。
「そんなところでいいですか?あまり僕の話をしても面白くないから、それに語るべき内容もあまり持っているわけではないので」
 僕もグラスを傾ける。再び熱いものが喉を巡る。ここ最近飲む機会が少なかったので、アルコールを体内に入れるのはずいぶんと久しい。だからといって別に喜ばしいものでもなかったが、心地よい刺激を感じる。
「どうしてあんな場所で突っ立っていたんですか?」加瀬が顔を微かに傾けながら尋ねる。
 僕は返答に窮す。どうしてだろう?僕自身でもわからない。
 それを加瀬は読み取ったのか、あるいはあらかじめ、そうだと予想していたのか、ささやかな微笑みを浮かべ、
「無理に答えなくても大丈夫です。急かすつもりもないし、僕も時間はある。ゆっくり行きましょう」と言う。
加瀬がグラスを手に取って眺めながら言う。「自分で言うのもおかしな話ですけど、僕は人の話を聞くことが得意なんですよ。苦手でないといったほうがいいのかな。自分のことを語るよりも、人のことを聞くほうが、何というか性に合っている。その人の内実に迫れるというか、言葉の内容以外にも読み取れることが多くて、結構楽しいんですよ。でも残念なことに人の話を聞くことが億劫で、自分ばかり話してしまう人というのも、一定数存在しますよね。しかも厄介なことに自分でそのことを認識できていない。まさか自分がとは微塵も感じていない。実に残念なことです。でも安心してください。僕は大丈夫」そういって加瀬は笑う。
初めて会った人間にそんなことを言われても、通常そういった部類のことは、ある程度の判断のための時間を要するはずだが、どうにもこの男のことが読めない。第一にこの男の目的は何なのだ。この男が、有無を言わせないある種の超然とした雰囲気を醸していたから、理由も問わずただ着いてきたが、果たして正解なのだろうか。何か良からぬこと、この世に卑しくも存在している醜悪な欺瞞行為にでも、巻き込まれるのではないか。そんなことが頭をよぎる。
あるいはこの男はルイス・キャロルの小説で言うところの白ウサギのようなものかもしれない。白ウサギが導く世界、そこで発生する出来事が意味をもたらすのであって、白ウサギ自体は船頭に過ぎない。道の辿り方を知っているだけで、いやそもそも導くつもりすらなかったが、結果として導き、そして世界に没入することになった。偶然と誤謬に満ちた因果関係によって。そこに必然性は存在しない。
でも白ウサギについていかなければ、物語はそこで終わってしまう。二つの選択肢が提示され、選択次第では速やかに物語が終結する。そこで起こったことは起こっていないこととされ、元の世界で元の生活に戻る。いわば時間と因果関係の修正が、それらを超越した存在によって行われ、何もなかったことになる。一方でもう一つの選択、白ウサギについていく選択を取ると、時間の不可逆性と原因と結果の必然性が失われた世界に没入することになる。(失われたのはこの世界における法則であって、別の世界の法則に移り変わっただけかもしれない。線路が切り替わるように。)
「自分のことを断言する人間を、僕は信用しないようにしています」と僕はぼそりと言う。
 それを受けて、一瞬驚きのようなものが加瀬の顔に浮かんだが、すぐにそれは姿を消し、軽やかに返す。「あはは、なるほど聡いですね。うん、確かにその通りだ。でも世の中には奇特な人間というのも存在しますよ」
 加瀬がグラスをカウンターに置く。僅かにその音が室内に響く。スピーカーからは次の曲が流れる。曲名は知らないが、どこかでフレーズを聞いたことがある印象的なモダンジャズだ。ピアノがゆったりと踊り、物静かなドラムがリズムを刻む。
「あなたはどうなんですか?あなたのことをどう思っています?」加瀬が尋ねる。
「どう思う……どうなんでしょう。難しい質問ですね」グラスの中身を見つめながら僕は言う。
「ええ、とても難しい質問です。もし何ら留保もなく答える人がいるとするならば、それは無知か、よほど自意識が高い人間です。簡潔に答えられないあなたは、おそらくはそのどちらにも当てはまらない」
それならそんな質問、端からするなと思うが、口には出さない。「それはよかった」僕は簡潔に返す。
「あなたのことを知りたいけれど、僕も適切な疑問詞を持っているわけではないし、直接的に聞いてもそれは難しいでしょう。そういうときに尋ねると、簡潔に表現できて、かつ相手の傾向を知ることができるもの、それが趣味の話です。便利なものだ。あなたの趣味は何ですか?ってなんだか口説いているみたいになってますね」加瀬が微笑みを込めて言う。笑みを絶やさない男だ。
「このところ会社に行って帰るだけの生活だったから、特には」僕は返す。本当にこれと言ったものが浮かばない。自分で言って惨めな気持ちが顔を覗かせる。
「うーん、そっか。それ実際に女性に言ってはダメですからね。僕だからともかく、興ざめになりますよ」そう言って加瀬は少し思案する。「昔、はまっていたこととか、なにかあるでしょう」
「そうだな、学生時代にはジャズに少し触れていました。本当に少しだけど」思いついて僕は言う。
「へえ、ジャズですか。いいですね。聞くのが好きですか?それとも実際に楽器を演奏していました?」
「アルトサックスを」
「サックス、最もセクシーな楽器ですね。あくまで僕の個人的な意見ですけど」
 僕は頷いてグラスを手に持つ。グラスを傾け、ジョニーウォーカーのロックを緩やかに流し込む。喉を心地よい刺激が通り過ぎる。カウンターに座る男女がフォアローゼスの水割りを注文する。バーテンが棚からフォアローゼスのボトルを取り出し、作り始める。そこらの飲み屋にはない銘柄まで揃えているらしい。久しぶりのアルコールが全身をゆったりと巡る。
「今は吹かないんですか?」加瀬が尋ねる。
「もう随分触れてないな」大学を卒業し、会社に入ってからサックスを吹いていなかった。吹く環境がなくなったし、そもそも吹く時間と気力を搾り取られ続けてきた。大学時代は自分のものを所有していたが、いつだったか手放してしまった。とても安い値段で。サックスの煌びやかなボディと、それを取り巻く豊富なキイが頭に浮かぶ。そしてベルから飛び出してくる表現色に溢れる音。
「ジャズサックスか、ジョン・コルトレーンくらいしかわからないな」加瀬がつぶやく。
「サックスと聞いて、ジョン・コルトレーンの名前に結びつけることができるなら、充分じゃないか」
「そうですか?もっといろいろな名前が出てくるとカッコいいなって思うんですけど。ほら、小説みたいに。ちょっと発想が陳腐かな」
 加瀬がそう答えたのが、少し僕には面白かった。確かに陳腐かもしれない。だがどうやら加瀬は少々ジャズに通じているようだ。それもそうか。この雑多な街の中で、静かにピアノを流すバーを知っているのだから。高度資本主義の中における、数少ない安寧の地。複雑に行き交う欲望を尻目に、穏やかに流れる川のせせらぎのような。
「どこでこの場所を知ったんですか?」僕は気になって、加瀬に尋ねる。「静かでいいところだ」
「でしょう、気に入ってくださったなら嬉しいです。昔から、彼と知り合いだったんです」そう言って加瀬は、カウンターの奥に立つバーテンを見る。バーテンもこちらを見て、ささやかな笑みを浮かべ、ほんの少し頷く。そしてこちらに近寄る。
「なかなかいいところですね」僕は彼に向かって言う。
「ありがとうございます、よかったらまたお越しください」純度の高い声で彼が答える。
 僕は頷く。簡素なやり取りだったが、内奥は充実していた。それでいい。余計なもの一切が捨象されている。そうしたバーテンと店の雰囲気に魅せられた、少数の人のみが訪れる場所、ものや情報が充溢した世間から逃れられる場所。訪れる客も場所の雰囲気に一体化し、全体が形成されていく。どこか知らない世界のようだ。ソファに座る男は頁を静かに繰る。
「なにか注文しますか?」加瀬が僕に尋ねる。
「そうだな、同じものを」僕が言うと、バーテンが頷く。

 留保なくアルコールが吸い込まれていく。それに伴い口も軽やかになり、様々な話が飛び交った。と言っても、ほとんど僕の話だったが。それでも加瀬は、嫌な顔を微塵も浮かばせない。まるでア・プリオリに聞くことを求めているかのように。要所でとても適切な相槌や返答をし、適切な疑問文を放つ。それも心地良い長さの疑問文を。最初、加瀬は疑問文を放つことが苦手と言っていたが、僕にはあえて初めはそうしているかのように感じられた。飛行機が徐々に速度を上げて離陸するように、会話のテンポも滑らかに淀みないものになっていく。僕も一度に言いたいことを全部言わずに、加瀬が疑問文によってそれを尋ねることを待っていた。加瀬は見事に打ち抜いていく。寸分も違わず正確に。たまに若干僕が意図するところと逸れる部分もあったが、僕がそれとなく示す、あるいは加瀬がそれを感知することによって、適切な方向へ修正されていった。気持ちがいいラリーが行われる。これは訓練されて、その結果習得された技術なのだろう。多大なる努力が費やされたのかもしれないし、あるいは生得的な素地があり、その上に適切な補正が加えられたに過ぎないのかもしれない。いずれにせよ、その訓練は如実な成果を出していると僕には思われた。
 会話の大半は僕の身の上話だった。大学を卒業し、会社に就職し、そこを辞めた話。端的に言えばそれだけの話だが、その話をするために十年以上費やしてきた。十年かけて紡いだ物語が一行で完結してしまう。なんということだ。話しながら改めて思う。もちろんそこには多少の起伏が織り込まれていた。例えば十年の間には結婚をして、そして離婚も経験した。だがそれも、空間的、時間的に俯瞰すると、服のシワのように些末なものに感じられてしまう。引っ張ったり、熱を当てたりしたら認識できなくなってしまうもの。振り子のように永遠にその場を行き来しているようなもの。僕は何を生み出してきたのだろう。あるいはこの先何かを生み出すことはあるのだろうか。
「最近、そんな思いにばかり駆られるようになって」僕はそのままに吐露する。
 加瀬が頷く。改めて見ると、端正な顔立ちをしている。高い鼻梁と大きな目。左右の均衡も保たれている。だが決して相手に緊張感を与えない整い方だ。笑顔と、それに伴い顕現する親和性の高いシワの効果だろうか。いや、それもあるのだろうが、どちらかというと、内面から滲み出てくる部分が大きいように感じられる。それが笑顔という形をもって現れている。本質はもっと隠された部分にあり、容易に認識することはできない。それは森の奥深くに眠っている。一人の人間という森の中に。そして静かに脈動し、血液を全身に送っている。
 グラスの中の氷が揺れる音が響く。とても静かに。その音は表面を震わせて、速やかに空間の中へ吸い込まれて、そして痕跡を残さずに消えた。いや、確かに痕跡は残っていないが、それは現実に限った話で、認識の中では別だ。未来と過去とを帯びた認識の中。
ソファに座った男が、手にした本をテーブルに置き、代わりにグラスを手に取る。何かの象徴であるかのようにグラスを見つめる。しかしそれは一瞬の動作に過ぎない。すぐに男は視線を別の場所に移し、グラスを口元に運ぶ。僅かにその内容物を流し入れ、またグラスをテーブルに戻す。そして再び本を手にする。僕は男の一連の動作をそれとなく視界に入れていた。この男は、どこでこの場所を知ったのだろう。街を歩いていて偶然出くわしたのか。あるいは僕のように人に誘われたのだろうか。偶然出くわしたとしても、路地を入り込んだところにある、看板も何も出していない店に入る状況があるのだろうか。それはかなり気まぐれの領域に含まれる状況だろう。蓋然性が限りなく低い領域とも言える。よほど知らない場所への冒険を望んでいた、そしてそれに自分が耐えうるか試してみたかった。大いなる賭けに臨んでみたかった。そんなところだろう。いずれにせよ、女性との初めてのデートで選ぶことはない。
アルコールが回った頭でそんなことを考える。止めどなく考えが巡る。些末なことから、とても重大に思えることまで。頭を巡るうちに、重大だと思わせていたその根拠の皮は、一枚一枚剥がれていき、やがて等しく些末なものになっていく。その逆はない。これぞアルコールの恩恵。
「ずいぶんと飲んだ気がするな」僕はそう言い、呂律が怪しくなっていることに気が付く。
「そうですね、正確に数えていたわけではないですが、かなり飲みましたね」加瀬が答える。その顔に特に変化は見られない。相変わらず好意的な笑みが浮かんでいる。
「強いですね、僕と変わらない量を飲んでいるのに」
「そういう体質なんです。どれだけ飲んでもあまり酔わないんです」
「意外だな」僕はそう言う。
「あはは、見かけに反してですか?よく言われます。僕の見かけはあまりあてにならないようです。僕の本質を上手く表現できていないというか。でもどっちが正しいんでしょう。本質と見かけが乖離しているのか、そう感じるだけで実は一致しているのか」
「自分が好きな方でいいんじゃないか。君自身の本質と見かけなんだから。他の誰のものでもない」
「なるほど。素晴らしい考え方ですね」
「あまり真剣に捉えないでくれ」気恥ずかしさを僅かに覚えて、僕は濁すように言う。
「どうしてですか?いいじゃありませんか」
「ただの酔っ払いの戯言だ」そう言って僕はグラスを手に持ち、傾ける。「酒を飲んだ上で口から発せられるものを信用してはいけない」
「そうですね。それこそ認識から乖離された言葉が、己の意志を持って飛び交っているだけです。でもたまには言葉に自由を与えてみてもいいんじゃありませんか?いつもそれだと困るけれど、たまになら。認識にずっと縛られていると窮屈なものになってしまいますよ。まあ、僕の場合アルコールの力を借りられないので、他の方法で行う必要があるんですけど」
「他の方法って?」僕は尋ねる。
「例えばですけど」そういって加瀬は両手を前に緩やかに掲げる。「運転とか」
「運転?」
「そうです。ドライブです。好きなんですよ、ドライブするのが。海岸線とか信号のない道をただひたすらに運転していると、ふと意識が開放されているというか、現存する自分の意識とは異なるものに包まれる感覚に陥るんです。都会の道じゃ味わえないような」
「なんとなくわかるよ」
「嬉しいです」加瀬はそういって微笑む。「休みの日なんかはよく出掛けるんですよ。ドライブするためのドライブに」
「純粋なドライブ」僕は呟く。
「いい表現ですね」
 サウンドシステムは次々と曲を変えていく。若干の曲調の変化はあるが、大元を成す雰囲気は変わらない。それが店の雰囲気の一部となっている。洗練された都会の夜。あるいは秘匿された、表象の裏にある世界で過ごす夜。どちらの表現が適切なのだろうかと考えるが、答えもまた秘匿されている。それは明確な一つの答えを求めていない問いだ。どちらに転がろうと誰も気に留めないし、影響の僅かな波すら生み出さない。ただ空間に投げかけられて、存在は認識されるが、やがてすぐに意識の無限なる海に消えていく。後に残すものは何もない。一切の残滓も消えていく。もしかするとそういうものを求めていたのかもしれない。明確な答えを常に求められ、答えたとしてもすぐに新たな問いが投げかけられる世界から、その世界の元で蠢く無数のものから、一時でもいいから隠れたいのかもしれない。ときどき耳に触れたことがあるフレーズが流れる。
 二つ席を離れてカウンターに座る男女の、男の方が立ち上がりスツールから離れる。残された女のほうを、それとなく僕は見つめる。あくまでそれとなく。大きな目をしている。その印象的な目でもって虚を見つめている。何が見えているんだろう。女が見つめているほうに視線を移すが、そこにはウイスキーのボトルが並んでいるだけだ。女はただ無心にそちらに視線を投げかけている。まるでなにかのやり取りが行われているように。連れの男との会話のように隠微なやり取りが。ただそこには言語的なものは存在しない。言語化される以前の、もっと根源的なものが相互に交わされている。いや女からの一方的なものかもしれないし、あるいはボトルからの一方的なものかもしれない。根源的な会話は、別に対人に限らずに行われる余地はある。むしろ人でない、言語を用いないものだからこそ、積極的に主体性を持って行われるかもしれない。そうした態度をもってしてやり取りが可能となる。
 女が視線を移し、僕の方を見る。大きな目で見つめてくる。そこには言語化されていない何か象徴的なものが宿っている。それは彼女の瞳の奥で揺らぎ、僅かな断片をその表面に表している。果たして何を象徴しているのか読み取ろうとするが、それは能わない。僕に何か求めているのか。それとも彼女から僕に何か訴えかけようとしているのか。原始的なやり取りにあまり慣れていない僕は彼女と疎通することができない。努力すればできるものだとしても、その努力の手段がわからない。適切な方向に努力の照準を合わせる必要がある。もしもそれが努力すれば体得できる類のものだとしたら。
やがて彼女は興味を失ったかのように視線を元の場所に戻す。どうやら僕は彼女の期待に沿うことはできなかったようだ。そしてウイスキーのボトルの方が、彼女が求めるものを提供できていたようだ。彼女が僕を見つめていた時間は、普段当たり前に使われている客観的な指標に則れば、僅かなものだったが、時間というものは可変的なものだ。時間は不可逆性を有しているが、不変性は唾棄している。
男が戻ってきて、元のスツールに座る。二人は僅かな会話を交わし、バーテンを呼んで会計を済ませる。そして立ち上がり、ドアの外へ抜けていく。その一連の動作に澱みはなく、ある種の儀式のように流麗に行われた。ささやかな会話を行う場所を提供した対価を渡す儀式。一時的に喧騒を逃れ、二人で羽を休め、そしてまた去っていく。その先は二人しかあずかり知らない。

「随分遅くなってしまいましたね」加瀬が言う。時計の短針は頂点を回ろうとしている。いつの間にか、かなりの時間が経過していた。
「…もうこんな時間か」
「まったくです。詰めれば詰めるほど、そして追えば追うほど時間は早く過ぎていきます。そこが魅力なのかもしれないですけれど」
「魅力ね。ある意味ではそうなのかもしれない」
「別の意味では?」
僕は少し考えて言う。「人々を脅かす存在」
「なるほど。確かに死に行く人なんかにはそう思えるかもしれないですね。でもこの世で唯一、我々に公正に与えられるものです。生得的特性や貴賤は考慮されずに」
「そうだな。平等に与えられ、平等に流れゆく。不可逆的なものだ」
「不可逆的。そこには絶対的なものが存在しています。もしかするとそれが魅力の要かもしれないですね」加瀬は自分が行った言葉の響きを、丹念に確かめるようにして言った。その言葉が持つ意味をじっくりと味わっているようだ。「とにかく、この店もそろそろ閉店です。行きましょうか」
「ああ」
僕はそう言って立ち上がった。その瞬間、視界が大きくぐらついた。頭が揺さぶられた。巨大なゆりかごが僕を乗せ、揺蕩っているような感覚に襲われた。それほど飲んだわけでもないのに、自分が思っていた以上にアルコールが体内を駆け巡り、感覚と神経を侵食していたようだ。幕が強制的に下ろされ、視界が光を失った。

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