「海に向かっているのね」少女が尋ねる。
「うん、そうだ」僕が答える。やや淡泊に思えて、他に何か付け加えるべきだったのかもしれないと思うが、適切な言葉は生成されず、口を閉ざす。あるいは無理をして下手なことを口にするほうが、不適切だったのかもしれない。少女に対して気を遣うのは、どこか憚られる気がした。彼女が醸し出す雰囲気がそう思わせた。ここに余計なものは必要ないと。
車は大通りを走っていたが、やがて細く少し入り組んだ道に突き当たり、それに合わせて僕は速度を落とす。それと同じくして、今まで開けていた風景が、高い緑の壁に阻まれる。今まで横たわっていたそれが、隆起して僕達の視野を狭める。開放的だった空気が、凝縮され、通り過ぎる僕達を見送っている。果たしてこの道が海へと続いているのか、ここを通ったことは記憶の限りなかったが、不思議とここを進めばいいという確信があった。僕はいま導かれている。
横にそびえた視界の上半分を遮るその自然の壁は、道路のうねりに合わせて、左右に動く。車とその距離は常に変化することなく、一定の間隔を保ってついてくる。僕達より先に行くことも、遅れることもなく、ただ一心にその表象を見せつけてくる。一見すると目立った起伏や隆起は見受けられないが、実際は厳密な三角形のイデアが存在しないように、その表面は僅かに波打っているのだろう。たとえそれが人工的に形成されたものであったとしても。僕は時々横を眺めてみるが、さっき見た緑と、今見ている緑に現実的な差異を発見することはできない。何しろ運転中だったし、差異を発見することに重要性を見出していなかった。
隣に座る少女に視線を流す。飽くまで何気ない仕草を装いながら、それとなく。ときどき瞬きによって動いているが、基本的にその美しい表情に変化はない。瞳には奥深い光が灯っている。それをなんと表現したらいいのだろう。森の中に長い間眠っていた秘宝のように神秘的な光であった。空想上のものに見えるかもしれないが、確かに実存している。光は揺らぎを持ちながら、しかし一定以下の明かりにならないように保たれている。薪を絶やさぬように放り続けている番人によって。
突如として視界が開ける。そのときを予感していたかのように。果てしない海がそこに広がっている。どこまでも続いている。どこまでも。遮るものは見当たらない。先程まで僕達に並走してきていた自然の壁は、合図によって一斉に地下に潜って、今ではその面影すら残していない。視界の遥か先には水平線と地平線の両方が見え、海と大地がその両方の領分を維持しながら、互いに拮抗することはなく、静かに横たわっている。所によっては海が陸地に迫り、また別の場所ではその逆も起こっている。しかし、どちらか一方が完全になくなることはなく、果てしなく両者の併存が続いている。その境界を僕達が進む道路が走っている。こんな光景は見たことがなかった。だがどこか懐かしさを覚える。これを求めていたんだ。
海は透き通る程青く、ただ純粋な青ではなく、複雑にその配色を保っている。角度が、あるいは時間が変化すると、それに合わせて配色も変化するが、その美しさは変わらないだろう。たとえ夜になって、何も見えなくなったとしても、美しさは観念としてそこに残り続ける。そのあまりの透明度は、ある種の無垢性を思わせる。遠くの方に微かに白波のベールが見える。どうやら風もなく波も立っていないようだ。一つ一つの小さな波の揺らぎに陽光が当たり、あるものはそのまま水面下に、またあるものは反射され、周囲を穏やかに、しかし確実に照らしている。そしてその様相は刻一刻と変化しており、そこに回帰性というものは存在しない。今この瞬間にのみ存在する風景があり、そこからもたらされるものを、肌に感じながら僕達は進む。
道路が真っすぐになり、底知れぬ高揚感を覚え、車の速度をやや上げる。左側の窓の向こうには、一面の青が広がっている。開けた窓の隙間からは、潮の匂いを含んだささやかな風が流れ込み、車内を隈なく包む。さらに窓を下ろし、障壁がなくなると、左肘を窓の車体の淵に乗せ、そこに落ち着かせる。心地良い風を感じる。太陽は真上に昇り、その恵みを遮る雲は、今ここにはない。純粋な恩恵を直に被っている。
車のレコーダーからは、ハービー・ハンコックの処女航海が流れてくる。あるいはハービーは真昼の陽光の下で聞くにふさわしいものではないかもしれないが、この曲とそれが収録されているアルバムは別だ。穏やかなトランペットとピアノで始まるイントロは、海上におけるささやかな揺らぎを、中盤で入るサックスは波がときどき高くなる様子を思わせる。そしてトランペットのソロで高ぶりを見せ、やがてはまた落ち着いていく。静かなうちに若干のリビドーを忍ばせている。そんな曲を耳に流しながら、僕たちは車を飛ばす。
時々前方に車が現れ、速やかな進行を妨げるが、視界が開け対向車がいないときを見計らって、何事もないかのように追い越して進む。アルファロメオは僕の要求に適切に応え、必要な時に留保なく必要な速度を出してくれる。あまり無理に速度をあげることなく、前方の車を追い抜き、また元の車線に戻る。速やかに、そうされることが最善であるかのように。不安はない。
少女に目をやると、結構な速度を出しているはずだか、それに対する恐怖をおくびにも出さず、平然と整った顔を保っている。こうしたことに慣れているのだろうか。今日会った男と二人で車に乗り込み、その上遠慮もなくスピードを出されることに。いや、断っておくが、全くの遠慮がなかったわけではない。今まで女性を乗せた際には、安全に気を配り不快な思いをさせないよう、運転に気を遣っていた。それにより幾分窮屈な思いをしたこともあったが、結果としてそれを上回るものを得ることができていたと思う。だがそれにもかかわらず、運転手と同乗者の感覚には隔たりというものがあって、時には小言を言われるようなこともあったが、誰か女性を乗せているときは穏やかな航行を心掛けた。今も例に漏れず、少女に不安を感じさせないような運転をしていたが、それでも徐々に開放的な道路と風景が神経を刺激し始め、不随意的にアクセルを踏み込む量が増えてくる。いつもいる場所では味わうことのできない体験と、それに伴う感覚。気持ちが知らず知らずのうちに高ぶって、それを無理に押さえる意味も必要も存在しない。あるがままの感性を解き放っている。目の前に遮るものはない。
やがて、一つの看板がこの先に岬があることを伝える。僕はそこへ行くべきだと直感的に悟る。別にそこに求めているものがあるわけではないが、踏む必要がある経過段階の一つのような気がした。そこを経ることでやがてはどこか別の場所に行けるような、そこを通らない限り辿り着けないどこかへ。そんな予感を孕みながら、道を進む。道が緩やかに右に、続いて左へと揺れる。先程までの、うっとりするような直線から打って変わり、徐々に風景が見せるその表象が変化する。基本的な開放感は保ったままに。そして徐々に岬が近づいてくる。
左側に小道が見え、それがどうやら岬へと通じる道らしい。それは突如として口を開いて僕達の視界に入ってきた。気を張っていないと見過ごしてしまいそうな道だ。車体の速度を落とすため、やや鋭いブレーキを踏み、その道へと入っていく。舗装がされておらず、車一台がようやく通れるような砂利道だった。二つの轍がうっすらと見える。左右に背の高い植物が茂り、ただでさえ狭い道へさらに圧をかけてくる。その中で特に伸びた草の先端が、窓ガラスをコツコツと叩く。車が上へ下へ大きく揺れ、その歪な地面を這っていく。
微かな不安を覚えたその時、それを待っていたと言わんばかりに視界が開け、大地の終端が姿を見せる。まさに終わりの地だ。これより先に陸はなく、海だけが広がっている。後方以外全ての範囲が海で覆われている。見渡す限り、どこまでも続く別の世界が広がっている。人が容易に踏み入ることができる領域ではない。特殊な装備がなければその侵入は阻まれてしまう。
僕は車を入れる僅かな空間を見つけ、そこに車を停める。イグニッションキーを捻り、鍵を抜き取って、車内に静寂が訪れたのを確認する。エンジン音が消えた車内には、少女の微かな息遣いと、海から周期的に届けられる低い轟だけが残された。僕達はそれを感じる。吸っては吐いてを繰り返す営みと、寄せては返すを繰り返す営みが発する音を。そこにはある種の自然性が現前していた。そのような営みが継続されることによって、全体が維持されているという自然性が。それが滞ることはない。月の満ち欠けが滞ることがないように。
一息ついて、僕は車のドアの取っ手を引き、ドアを開く。ささやかに空気が循環される。左足を出し、低い車体から身体を引っ張り出すようにして外に出る。少女も反対側のドアから同じような動作をする。僕はそれを見届けて、鍵をロックし、先端に向かって歩き出す。直線的なモニュメントがそこに立ち、横に現在地を示す板看板が控えめに立つ。視覚的に捉えると、改めて僕たちは陸の先端に立っていることを知る。ここまでが立ち入りが許される領域だ。
「いい景色ね」と少女が口を開く。
「ああ、まったくだ」僕はそれに同意する。
一呼吸して少女が続ける。
「ここに来たことはあるの?」
「いや、おそらく初めてだと思う。」
「おそらく?」少女が僕の目を覗き、僅かに首を傾げながら尋ねる。
「確信がどうにも持てないけれど、おそらく初めて来る場所だ。でもどこか懐かしい感じがする。」
少女が頷く。髪がそれに合わせてなびく。「そうね、たしかにそんな感じがする」
僕達は並んで立ち、そこに吹いている風を、立ち込める空気を感じる。それらはどこかで生成され、僕たちを通り過ぎ、やがてまたどこか別の場所へ向かって行く。それが途切れることはない。
「どうしてここだと思ったの?」少女が聞いてくる。
「さあ、どうしてだろう。ただここのような気がしたんだ。ここに来るべきだって」
「ふうん」あまり興味がなさそうに答える。いや表情のせいでそう僕が思っただけかもしれない。その横顔は、綺麗に鼻筋が通っており、調和を持った端正さが漂っている。
「君は?どうして君は今僕とここにいるの?」僕は少女の顔を見ながら尋ねる。
ちらりと僕の顔を見て、また正面に視線を戻して言う。「あなたがそう望んだから」
「僕が?」意図して望んだ気もするし、そうでない気もする。
「ええ、あなたが望んだ。あるいは覚えていないかもしれないけれど。でもあなたが望まなければ、わたし達は巡り合わなかったし、わたしは今この景色を見ていなかった。それは揺るぎない事実よ」
少女はじっと正面を見ている。そこにたおやかな陽光が注がれ、周囲がきらめいて見える。象徴的な光景だ。
周囲を見回し、海の方を向いた長いあいだそこに置かれている雰囲気を持つ木のベンチを見つけ、そちらへ向かう。座面が濡れたり汚れたりしていないことを確認して座り、少女が隣に座る。親近も拒絶も感じられない程の間隔を空けて。海を眺めるのに絶好な位置に面したベンチからは、視界の大半が真っ青な海で占められ、他のものが介在する余地はなかった。心地良い風が吹いてくる。ここでしか味わえないある種独特な匂いを含めて。
「あなたのことを教えて」少女が言う。
「僕のこと?」
「そう、あなたのこと」僕の方をじっと向いて聞いてくる。
「一体何を話せばいいのかな」
「何でも構わないわ。別にそれが面白くなかろうが」
「ううん、そうだな」僕は少し思案する。十六くらいの、女性とはまだ言い難い年齢の少女と、話すのに適切な内容というものが思い浮かばなかった。まして自分のことを語るなど。だが少女はそんなこと気にしない様子でじっと待つ。
「今ここでじゃないとダメかな?」僕は迷った末にそう尋ねる。
「今じゃない、そう思うの?」質問に対して質問で少女が返す。
「うん、適切な言葉が浮かんでこない、どこからも」
「そう、ならいいわ、残念だけど」言葉とは裏腹に、興味の水準は少しも変化することがなかったように見える。元々興味を向けられていたのだろうか。それは少女にしかわからない。
少女が何らの予兆も見せずに、突然ベンチから立ち上がる。すらりとした脚がワンピースの裾から覗いてそこに見える。少女はそのままかけるように、海の方へ近づいていき、身を僅かに柵から乗り出す。柵に身体を預け、手を少し上下にぶらつかせる。そこで何かを図るように。「なんだか遠くまできたのね」彼女は海に向かって言う。「すごく遠くに」 僕はただその様子を眺めている。
少女が振り返って、こちらを見つめる。その黒い瞳の奥には、柔らかな光を持つ透明な何かが見える。それは少女の鼓動と共に動き、呼吸と共に息をする何かだ。「ねえ、これからどうしたい?」
僕はその質問の意図を図りかねて尋ねる。「それはどういう意図を持った質問かな?」
少女は首を振りながら答える。「あなたに任せるわ。どのように捉えようと」
しばらく思案して答える。「そうだな、まだ車を運転していたいな」
「わかったわ」少女は頷く。また髪がそれに合わせて動く。とても複合的に。
しばしの空白が訪れる。僕も少女もそこから動こうとはしなかった。二人の上を風が流れる。雲はない。一面の青が上にも目の前にも広がっている。どこまでも、どこまでも。僕は胸の中の空気を口から全て吐き出し、微かな中庸の後に、新鮮な空気を胸に満たす。隅々まで行き渡らせ、そのとめどなく続けられる循環を感じる。そしてまた吐き出す。僕はベンチから立ち上がり、少女の隣に向かう。
「なんだか叫びたい気分だ」ふと思ったことを口に出す。
「叫んでもいいのよ」僅かに微笑みながら少女が僕に向かって言う。
「うーん、やっぱやめとこう、何か損なわれる気がする」
「あはは、面白い人」少女が笑う。鈴を転がすように心地良い笑い方だ。
二人で並んで海を眺める。僕達の足元のすぐ手前まで海が広がっているが、しぶきは飛んでこない。とても穏やかな波がささやかに打ち付けているだけだ。いや打ち付ける程の勢いもない、撫でるように寄せてくる。そしてささやかな音を立てる。
「そろそろ行こうか」
「ええ」
柵から離れ、アルファロメオの方へ向かう。