眩しく深い街での出逢い

 僕は夜の街を歩いている。狭い道の両側にひしめくビルの隙間から見える狭い空には、更に背の高いビルの群れが見える。まるで際限なくそれが続いているかのように。目をくらませるほどのヘッドライトを携えた数多の車が、こっちへむかって通り過ぎていき、反対に真っ赤な灯りを引きずった車が僕の向かう方にゆったりと進んでいる。ビルから発せられる光と、車から発せられる光とが、協働して加速度的に夜の闇をその領域から追いやっている。車道の脇にある、これまた狭い歩道には、帰宅ラッシュを大分過ぎた時間のためか、あまり多くない人が歩いているが、それでもやはりひしめいているという印象をもたらす。車道と歩道を分断している部分には、申し訳程度の植栽があるが、可哀そうに、これでは休まる暇がない。まあ、それは人間も同じか。
そんな物思いに沈みながら、一定の歩調で僕は歩いている。やがて大きなターミナル駅に近づくにつれ、人の数はそれに比例して増えてきたが、これもまたいつもの光景だ。この街には人が存在しない部分はない。どこにいても人がいて、人が集まる部分にはさらに多くの人が集まって来る。特に何かある訳でもないのに。飽くまで一般論に過ぎないが、集まり過ぎたものにろくなことは起きない。いつか限界を迎えるんじゃなかろうか。
そんな光景を尻目に駅の手前の公園に入る。ここはこの街で唯一といっていいくらいの、闇が勝っている場所だ。その一帯のみ、吸い込まれるような闇に覆われている。遊歩道に沿って等間隔に置かれた街灯が、頼りない灯りを足元に届けているが、公園にはそれで十分だ。照らし過ぎることもろくなことじゃない。見たくもないものまで見えてしまう。芝生の広場を囲んだ形になっている遊歩道を進み、森のような外観をなしている一帯に向かう。この街から一歩出ればそれはちゃちな森、森のようなものに過ぎないが、この街では数少ない立派な森なのかもしれない。
そこに整備されたベンチに座り、噴水の向こうに見える、随一のビル群を見やる。それらは競い合うように空に向かって伸びており、自らの存在を周囲に知らしめるため、あるいはその内部でひしめき合っているものの正体を現すために発光している。ビルが一つだけ建っていたら街のシンボルになったのかもしれない。しかしこうも林立していると、どれがどれだか。どれも同じ向きを向き、似たような外観を呈し、似たような高さに伸びていて、これといった特徴が見受けられない。確かに、初めて見た際には、立派なものだなと感じたが、こうも常に視界の隅に入り込まれると、ただの圧迫する存在に成り下がってしまった。
しばらく座っていると周囲から音が消えていることを実感する。厳密にいえば、あのビル群の下にあるターミナル駅から、遠い海鳴りのような音が微かに響いているのだが、公園の外に比べると圧倒的に音は少ない。何か大きな装置で音が吸い込まれたかのようになっており、ある種凛とした雰囲気が漂っている。厳かとも言うべきか。
果たしてあそこに戻るべきなのだろうか。今更戻ることはできるのだろうか。戻ったとしてもうまくやっていくことはできるのだろうか。そうした考えが常に頭の中を駆け巡る。回路が擦り切れてしまったかのように。茫漠とした不安がふとした瞬間に押し寄せてくる。何とかしなければと、あがけばあがくほど、状況は複雑化していく。その中で自分はますますがんじがらめになっていく。身動きが取れなくなっていく。
始めに朝起きることが億劫になった。それが悪い兆候だとわかっていたが、自分ではどうすることもできなかった。早い時間に目覚しをかけても、解除する時間はどんどん繰り越されていき、やがて限界に達した。そのうち、日常において閉塞感を覚え始める。何をやっても楽しくない。同じことの繰り返し。日々がその彩色を失っていく。知覚機能がショートしてしまったようで、外部からの感度が鈍化していく。代わりに内部からの感度は鋭敏になっていき、ほんの些細なことで他者あるいは自分に攻撃を行う。したくもないのに、本来なら調和を求めているはずなのに。そう、本当の自分はこうではないのに。やがて最低限の活動しか受け入れなくなってしまう。やろうと思ったことができない、できなくてまた自分の情けなさを責める。こんなこともできないのか、他の人はできていることなのに。
こうなるともうあとは寝るしかない。身体からはそれ以上の活動をする気力が枯れ果ててしまう。大半の時間を寝ているのかそうじゃないのか蒙昧な時間に費やし、必要最低限の排泄と食事を行う。植物のようにぴくりとも動かない。そうして時間だけが過ぎて行く。ただ、その過程にはとてつもない罪悪感と苦痛が伴う。こうしなければならない、何とかしなければならない。でもそれができない。かつてはとても簡単なことに思えたのに、今では全身全霊を以てしても成すことができない、途方もない道のりのように感じてしまう。それを前にして、ただ絶望に打ちひしがれるしかできない。全てに対して、この世に存在するもの、あるいは自分自身に。そうしてまたベッドに戻っていく。

意識が目の前に戻って来た。しばらくの間、またいつもの回想に潜り込んでいたことに、ふと気が付く。こんなところに戻って来たところで、と心の中で唾棄する。そして僕はベンチから立ち上がり、前を向いて歩き始める、駅に向かって。目的はない、ただ何となくそちらへ向かった方がいいような気がしただけだ。セイレーンに吸い寄せられる船乗りのように。公園の遊歩道はやがて終わり、交差点に差し掛かりこちら側に戻って来る。その境界の膜を通り抜けた瞬間、街が発する凄まじい音が蘇る。車が訳もなく進んでいく音、密集した人々が思い思いに発する音。それらが四方八方から飛んできて、またそれを反射することで無秩序的に音が散乱している。それだけの音に囲まれていてよく発狂しないものだ、とほんのひと時だが隔絶された静寂にいた僕は改めて思う。
足取りは何故か軽い、かつてない程に。その理由は検討もつかないし、あえて探ろうとも思わなかった。同じ方向に進みながら、似たような色合いの服を被った人々の集団に交じり、それらを時々追い越しながら進む。やがて猛烈な光を頭上からよこしてくる地下歩道に入る。その光のおかげで、この場所には昼も夜もその概念が存在しない。脇に縮こまって寝ているホームレスの集団にチラっと目をやるが、何を思うでもなく足早に通り過ぎて行く。駅に近づくにつれ、心臓に向かう静脈のように、似たような地下道を何本か吸い込んでいき、それに比例して人の数も溢れて行く。いずれの地下道からも人の群れが湧きだしてくる。だが、不思議なことに溢れかえって氾濫することはない。ともすると、澱んでいる場所が目に見えない部分にはあるのかもしれないが、いまのところ概ね滞りなく流れている。やや不自由を感じる程度に過ぎない。それも歩みに支障をきたす程ではなく、そこはかとない圧迫感を感じる程度だ。
徐々に人の流れは巨大に緩慢になりつつ、一つの大きなベクトルを描き、巨大な駅の入り口に辿り着く。大量の人を吸い込むと同時に、同等あるいはそれ以上の人を吐き出して、この街の均衡を保っている機関だ。ひと時の休息を与えられることもなく、自動改札機は巨大機関の末端の構成員として、人の流れを創り出している。僕はその潮流に逆らうことなく、改札を通り過ぎる。改札の中は、それまで巨大な流れに沿って歩いていた人の群れが、突如としてその流れを失い、各々の実存のままに従って移動し始めることで、カオスの様相を呈すが、ある種の秩序も同時に保っている。そのため、混迷な巨大迷路が瞬時に形成され、その次の瞬間にはまた別の巨大迷路が形成されという作業が、永遠と繰り返されるが、その迷路の中では、経路の一つ一つが絡み合うことはあるものの、交わったり消滅したりすることはない。
そうして僕は、その迷路を通り抜け、駅のホームへと続く階段へと辿り着き、歩みを進める。その足取りは軽いままだ。これほど楽な気持ちになったのは、何時ぶりだろうか。その記憶すら薄れている。今なら何でもできそうな気がする。全盛期のナポレオン軍のような気分だ。道行くものを圧倒し続け、その背後には何も残さない。そんな舞い上がるような気分を引き連れて、ホームへの階段を昇る。二つの路線が混じり合うホームへと続く階段は、この街へ帰り着く者と、かりそめの訪問を終え去る者とで、綺麗に二分され、その境界が見て取れた。僕は去る者達の方へ加わり、その流れに押し出されるようにホームへと上がる。そこは電車を待ち受ける人々が大量に居座っており、冷戦下のソ連で配給を待つ人のように、みな暗い顔をして、それぞれが待つべきものを待っていた。人の隙間を人で埋めるようにして、広いとは言えないホームから、空の領域を奪っている。僕はそのうちに見出した僅かな隙間に入り込み、次の電車を待つ。隣のホームには、快速電車が猛烈な音と共に滑り込み、その中に充満していた人の一定数を吐き出し、しばらくしてそれ以上の人をかきこんで、またけたたましい音を発して、暗闇の中に吸い込まれていく。そのさらに向こうのホームでは特急電車が悠々と鎮座しており、まだしばらくある発車時間までの気休めを楽しんでいた。車内にはちらほらと人が点在して座っており、これまた悠然として束の間の睡眠をとっている人などもいた。
やがて、僕が待つホームに電車が来ることを周知させるアナウンスが鳴り響き、俄かに人の群れに動きが加わる。こんなにひっきりなしの間隔で電車が来るのだから、待つというほど待ってもいないはずなのに。余程この街から早く抜け出して、自らを待つはずの暖かい場所に帰り着きたいのだろう。程なくして、暗闇から目を眩ますほどの光と、地の底から響くような音を携えて、ホームに電車が滑り込んでくる。徐々にスピードを緩めて行き、やがて完全に停車する。中は、ラッシュ時間を少し過ぎた頃だからか多くはないが、それでもやはり座席を埋める程の人は乗り込んでいる。
ドアが開くとともに、その席を埋めていた人の半分ほどが降り、僅かな停滞の後に、ホームに並んだ人が車両に流れ込んでいく。列の末端のほうに居た僕は、ゆったりと前進していくが、車両の手前でホームに立ち止まる。僕の後ろに居た人は、迷惑そうに僕をよけて、車両に乗り込んでいき、僕がいる部分に流れの沈殿が生じるが、やがてその沈殿を生み出す、人の流れ自体が終わり、電車の出発を知らせるアナウンスが響き渡る。駆け込み防止を呼びかけるそのアナウンスを無視して、何人かが車両に飛び込んだ後、電車は口を宿命的に閉じる。そして再び轟音と共に駅から去っていく。
ホームに取り残された。電車が去ったばかりのそこに、もうすでに人の流れが生まれ始めている。どこからこの人たちは来るのだろう。途切れる事なく人を生み出す装置がどこかこの街には存在するのかもしれない。そこではブルーのユニフォームを着て、同じくブルーの帽子をかぶった何百人もの作業員たちが、黙々と要素を入れ込み人を産出し続けている。空を見上げると真っ黒な空が、そこに浮かんでいる。星も月も、あるいは何らかのしるしも持たずに。ただの真っ暗闇に、背の高いビル群が向かっている。まったくなんて狭い空だ。
僕の後ろにはもう人の列ができ始め、今日何度もこの場所で行われたであろう電車待ちが、また行われる。列の最前線からは、ホームの下に敷かれたレールがよく見える。前の駅とこの場所と、その次の駅を結ぶレールが見える。ただそれだけのものに過ぎないが、これがなければどうなるのだろう。おそらく筆舌に尽くし難い混乱が生じるが、それは最初のことだけで、徐々にその状況は受け入れられていくのだろう。水に生まれる渦のように、やがては元の状態に戻るのだろう。何もなかったことになって、それが当たり前のものと捉えられていく。いや、ひょっとすると最初の混乱すら生じず、全ては思い過ごしのうちに終わるのかもしれない。何かが確実に起こったはずなのに、それが認知されることはなく、世界は平然とその歩みを進めて行く。まあ、実際にレールが失われてみないとわからないんだけど。
レールをじっと見つめ、その純粋な金属に意識のほとんどが向かう。

 楽になるのかな?

 そんな思いが浮かぶ。初め、それは意識の一角に浮かんだものに過ぎなかったが、徐々に勢力を加速度的に広げていく。猛烈に飢えた動物の前に、肉を放り投げたような勢いで。その思いは、他のあらゆる考え(別に大したものはなかったが)を飲み込んで、やがて僕を支配する。僕は操舵権を奪われる。そして楽になるのかな?から楽にならないとに変換されるのに時間を要しなかった。

どうなるんだろう?

それがとても魅力的に思える、この上なく。吸い寄せられるようにレールを、その上に浮かぶ空間を見つめる。そこから目が離せない。考えが離れない。楽にしてくれるのでは?全てを断ち切ってくれるのでは?そうしなければいけないのでは?頭の中がそれで埋まり、混ぜられた塊がぐるぐる回転する。目が回りそうだ。視界が揺らぎを帯び、意識が白濁してくる。心臓が鐘を打ち、飛び出しそうな勢いで、胸のみならず全身を殴りつける。
そんな思考と身体の混乱に後押しされ、右足が一歩前に進み出る。ほんの僅かな一歩だったが、そのあとの運動を呼び起こす契機となるには十分だった。自然と左足が動き、ゆっくりと、しかし確実に持ち上がり、そして前に進められる。ホームに敷かれた黄色いブロックを越え、その先の領域に踏み出す。
「電車が来ますから、下がってください!」
 駅員がアナウンスを通じて伝えてくる。その声は叫びにも近いものを持っていた。当然だろう。彼らの使命は何らの支障もなく電車を運行させることだ。それをいま僕が阻害しようとしていて、駅員もそれを本能的に感じ取っている。やがて左側の頬が僅かに照らされ、電車が眩い光を伴いながら駅に入って来る予感がする。いや予感ではなく、確実に迫ってきているのだろう。だが僕はそれに対して、いずれの反応も示すこともできない。対抗も逃避も、あるいは拒絶も。そこには不純な希望以外なにも介在していなかった。
「下がってください!」
アナウンスは繰り返される。それは耳には届くが、意識には到達しない。その手前で見事に霧消してしまう。吸い込まれるように。そしてまた一歩進む。また一歩。あと少し。僅かに左頬を照らしていた灯火が、いまでは左側全体を照らしていた。ゆっくりとそちらを向く。大きな、目が眩むような塊が目前に迫っている。けたたましい警笛が辺りの空気を激しく震わせる。心臓が打つ鐘は、急速に速度と強度を増し、感覚がそれしか感じられなくなる。ゆっくりと目を閉じ、その他あらゆる感覚の一切を遮断し、そのときを待つ。それは永遠にも感じられる程だったが、実際はその刹那さえ体験させない程だったのかもしれない。時間がその軸の正当性を失い、捻じれこんがらがっている。何かがいまだと僕に伝える。僕はそれに応え、最後の一歩を踏み出す。

 電車が僕に迫り、僕が僕としての存在を失う、その一歩手前、何者かの力強い手によって僕は後ろに強烈に引っ張られる。電車が目の前を猛然と過ぎ去って、その長い編成の後続車両が徐々に速度を落としながら通っていき、やがて何事もなかったように停車する。何事もなかったことはないのに、何かあったとしてもそれに対する当事者感覚というものは決して持ち合わせていないのだろう。いや厳密に言えば、持ち合わせていないことはないのだろうが、極端に稀薄され、それが存在することを感じられていないのかもしれない。続々と人が降り、それが終わった後にホームに列を成していた人が続々と乗り込み、そしてまたドアが閉まる。何事もなかったかのように。電車はまた次の駅に向かって行く。
僕は決心がくじかれたのと、僕を引っ張ったその手の有無の言わせない強さに、呆然として立ち尽くす。僕の腕はまだその手に掴まれていた。そのあまりの強さに後々痕になりそうだった。ようやく痛いという感覚を取り戻し、その手の持ち主に伝えようとすると、それが伝わったかのように、フッと手が僕から離れる。
振り向くとそれはとても背が高い男だった。周りと比べ頭一つ分飛び抜けており、おそらく百九十センチメートルに届くくらいだろう。くっきりした折り目のダークグレーのスーツを着込み、糊がよく効いてそうなブラックのシャツ、曇り一つないピンを付けたネクタイ、それに、これまた光を反射させそうなほど磨かれたブラウンの革靴。どれも高価なもののようにも見えたが、そこに過度な派手さはなく、とても上品に見え、スタイルの良さも相まって、全身に調和が見て取れる。適切なものが適切なところに配置されている。そしてとても精悍な顔立ちをしていた。年は二十代後半、あるいは三十代の初めと言ったところか。若々しい印象を受けるが、早熟さは感じられない。だからといって憂いを帯びているわけでもない。

「まったく、そんな真似したって。いまから時間はありますか?」

 声は品の良いテノール、僅かに掠れているが、むしろそれがある種の特別さを持っていた。そして心地良く鼓膜を震わせる性質を持っていた。
 僕は答えようとしたが、上手く声が出ず、喉の奥で潰された変な音が出るだけだった。声を出す代わりに、肯定とも否定とも取られかねない曖昧な首の動きで男に答える。男はそれを肯定と受け取ったようで、「じゃあ、行きましょう」と言う。
 男は右を向き、ホーム中ほどにある、改札口に続く階段の方へ進み出す。スラっと伸びた脚から繰り出される一歩はとても大きく、人の波の間を泳ぐようにして進んだ。僕はそれについていくのに苦労した。何しろ男は走るような速度で歩く上、人の波は男を前にしていったんは開けるが、男が通過した直後にはまた元の海の状態に戻ってしまう。寄せては返す波のように。男についていく必然性、あるいは動機のようなものは見当たらなかったが、言い知れぬ予感がした。この男の後についていくべきだという予感が。
 男は後ろを見て、僕がついてきていることを確認することもせず、ぐいぐいと進む。やがて改札口に向かう階段に辿り着き、男とそれに続く僕は階段を下りる。階段で男は速度を緩めるかと思いきや、相変わらず人を追い越して縫うようにして進む。僕は男を見失わないかと思ったが、その背の高さからして遅れることはあっても、見失うことはないだろう。人混みの中に紛れると、男の背の高さは一際目立つ。前方を進むその灯台を目安にして、僕は一定の距離を保つように後を追う。
 改札口を抜け、東西を貫く地下道に出ると、男は東の方向に進む。全ての路線からの人が合流するそこは、複数ある通路の中でも特に混む通路だ。それにもかかわらず、男は速度を緩めることなく歩き、それに導かれるように僕はあとを追う。追いかけることに意識が向かうあまり、途中何度か反対から来る人と僕の肩がぶつかる。普段なら誤るなり会釈するなりしただろうが、いまはしなかった。何故かはわからないが、男から意識を一瞬でも離すといけないような気がしたし、何かがそこで損なわれてしまうような気がした。ある種の忘我の領域に陥る感覚があった。
 やがて地上に向かう階段の下に辿り着く。駅に流れこむ人と共に、雑踏と喧騒を帯びた外の空気が流れ来んでくる。地下であろうと地上であろうと、その閉塞感にあまり変わりはない。その息苦しさはどこにいても変わらないし、どこかで気休めを得られる性質のものでもない。別の場所に移らない限り。
男は一直線に階段を昇り、地上の街に出る。街の中心部であるそこは、すなわちビル群の中心部でもあり、そこから見える空は、狭く暗い。見上げてもけばけばしい広告が目に入るだけで、他に何も見えない。その広告から発せられる光は、地上を隈なく照らすと共に、人々の欲望を掻き立てている。いや、人々は手元の世界に夢中で、空など見上げていないのかもしれない。多くの人がそこで、各々の目的を待っていた。あるいは目的がない人もいるのだろう。一見しただけでは、それらの違いはわからない。巧妙に隠されている。
階段を昇り切った男は、初めて後ろを振り返り、僕が昇り切るのを待つ。その合間にも多くの人々が僕達の間を縦横に行きかう。
「こっちです」と男が言う。この喧騒の中でもよく通る声だ。いまはただ純粋に意思疎通のためだけに用いられているが、きっと他の用途においてもかなりの有用性を持つのだろう。
 男は交差点に向かって進む。この街では光と同じくして、道も隅々まで巡らされているが、僕たちが進む道もそのうちの一つだった。これだけ張り巡らされていれば、一つくらいどこか別の世界に繋がってそうな気もするが、実際はどうなのだろう。おそらく一つ一つ、その細部まで検討した人はいないだろうから、その真相は迷妄の中に紛れ込ませておこう。いずれにせよ、男は実存する道と、それと車道が交わる交差点に向かって行く。多くの人が、交差点の手前で止まり、信号が変わるのを待つ。その僅かな時間ですら惜しむかのように、人は自分が属する世界に熱中する。男がその中に混じる。正確に言うと、完全には混じっていないが、同化しつつあり、その境界線が徐々に曖昧になっていく。自己と他者との間の境界線が。そこでは隠微な相互的なやり取りが行われているのかもしれないが、その実体を把握することは困難だろう。もしそれが可視化することができたなら……いや、そんな妄想は止しておこう。
 信号を待つ間、人々の前を何ら面白味のない乗用車やタクシーが通り過ぎて行く。おそらくそれらを操舵している人達も、同じく面白味の無い顔をしているのだろう。いや、本来は面白味というか表情というものがあったのかもしれないが、次第にそれらが削ぎ取られ、必要最低限のものしか残っていないのだろう。それらはただ、この街を構成する要素の一つに成り下がってしまっているが、こうした要素が存在しなければその集合体も存在することはできない。その逆も然りで、ここに依存関係が成立する。ただ、少しでもその要素が面白いもの、例えばフォルクスワーゲン・ビートルだったら、この街は少しはましなものになっていたかもしれない。
 信号が変わり、車の動きが阻止されたしばらく後に、人々の動きが再開される。交差点からは道が四方に延び、各々が目的地に向かって進み、その経路は錯綜する。ある者は自宅へ、またある者は夜のこの街へ、あるいは道の先にある秘匿された世界へと。男はそんな者たちを歯牙にかけることもなく、依然として速度を保ったまま道を進む。駅の方から電車の轟が微かに聞こえる。道には街灯が等間隔に設置され、その脇にそびえるビルの広告の光と相まって、過度に足元を照らしている。行き過ぎた照明とその下の道、そこに情緒というものは感じられない。ただただ人工的な世界が広がっている。ビルの合間には僅かな隙間すら存在せず、ぎちぎちにひしめいて、余白や空白はその領域を奪われてしまったようだ。各々のビルの一階部分には、居酒屋や何かしらを売る商店が敷き詰められ、人々の営みが確認できるが、その上の部分では一体何を目的として、何が行われているのか、それを外部から図ることはできない。この時間のため、その他の店にあまり人は見受けられないが、居酒屋には多くの人が入っている。酒を飲むことで一日を忘れ、また新たな苦難に備えているのか。
 男はそうしたもの一切に視線を移すことはせず、ただ真っすぐに進んでいく。僕もただその後ろをついていく。やがて先ほどのものより少し太い車道に突き当たる。その交差点の向こうは、この街随一の繁華街だ。僕も何度かここを訪れたことがあるが、あまり心地いい場所ではない。なんというか、人々の欲望があまりに直接的に見えてしまう。セックスをしたい男と、それを掌の上で見定めている女。あるいはそうした予感をどこかに孕んでいる男女の群れ。そうした土俵に立つ事すらできず、とにかく金を払ってでもセックスをしたい男。まったく…水面下で穏やかに行うことはできないのか。性的なものばかりではなく、あらゆる欲が見本市のように展示されている。端から見ている分にはいいのかもしれないが、人間であるがゆえ、完全なる外部者となることは能わず、その欲の渦にどうしても巻き込まれてしまう。終わりがない混沌とした渦の中に。
 信号が赤で止まる。男と僕は、車道の手前に並んで立つ。対岸には繁華街の煌びやかなネオンが見える。毒々しいほどの明かりを放って、人々を蛾のように吸い寄せようとしている。その手前を多くの車が行き交う。各々の目的地を目指して。何てつまらない光景だろう。
そんなことをふと思った矢先、右手からアルファロメオが走って来る。夜の闇を越えて。丸目のヘッドライドがどこか懐かしい灯りをともしている。象徴的な盾型のグリルを携えて、ゆっくりと優美に目の前を通過していく。その黒光りしたボディには街から発せられるネオンが反射され、複雑な図形を描いている。美しい。過度な派手さはないが、流麗なボディラインと、精悍な意匠の車だ。実際には周りの車と同じ速度で航行していたはずだが、ひどくゆっくりと、その美しさを周囲に見せつけるように走っているように感じられた。僕はその姿を目で追う。やがて、また夜の街に吸い込まれていく。ひと時の幻想であったかのように。
 交差点の信号が青になる。待ちわびていたかのように、人々が駆け出す。一斉に。男が再び少し先に進んで、僕がその後についていき、交差点を渡る。先程のアルファロメオが進んでいった方向を見るが、そこに車はなく、両脇に背の高いビルと、車道と電車が立体に交差する高架が見えるだけだ。どこへ向かって行ったんだろう。反対側に目をやると、赤になったばかりなのに、既に信号待ちの車が列を成しており、交差点を行き交う人々を照らしている。もう少し猶予があってもいいような気がするが。
 交差点を渡り、男はそのまま繁華街の正面入り口に進むのではなく、右に折れて繁華街に沿って進む。ここまで来ると人の量もピークに達する。道の隅から隅まで人で埋め尽くされ、思った通りに進むのが困難になる。それにもかかわらず男は真っすぐに進む。そこに何かのしるしがあるかのように。実際に男にはそうしたしるしのようのものが見えているのかもしれない。ここをこういったら楽に進めるといったものが。いや、というよりはむしろ人々のほうが男を避けており、このままいったらこの男にぶつかるといった類の公告が、人々の間で瞬時に共有されていたのかもしれない。そんなことを思わせる歩き方をする。
 人の量に比例して、そこから発せられる音も増していく。常に耳が何らかの音を吸収し、鼓膜が震えている。不愉快な耳鳴りが断続的にしている感じだ。しかも音は一定ではなく、常に変調が加えられている。そのため一つの音域に慣れることができず、常に新たな刺激が加え続けられていく。時を刻む時計のように、ただしそんな生優しいものでもないが。
 男は一つの通りを前にして、左に向きを変えその通りに入っていく。そこは先ほどの通りよりは静寂が漂っており、一段階トーンが落ち着いたような感じがした。音も光もボリュームが抑えられている。何かの膜が被せられたように。道行く人もほとんどいない。一つ通りを折れるだけでこうも世界が変わるものとは。
 やがて地下に続く一つの階段の前に着く。赤茶けたレンガの外壁に、黒っぽい蔦が絡みつき、下に続くであろう階段が待ち受けている。ここは何だろう。他の店と違い看板の類は出ていない。周囲に自己の存在を喧伝することをせず、用途がある人だけがそこを通る、そんな階段だ。男が階段を下り、それに僕が続く。赤茶けたものをベースに、ところどころ濃い黒や茶のレンガが混じっている。その表面は襞のような凹凸があり、そこで音を吸収しているのかもしれない。通りよりさらにもう一段階、耳鳴りのような唸りが減った。階段はあまり長くなく、すぐに地下の踊り場に着く。静けさがそこに漂っている。やはりそこにも看板はなく、大きな黒い木の扉がそびえる。中の様子はわからない。男が扉に手をかけ、奥に押して開く。ゆっくりとそこに世界が広がっていく。

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