プロローグのようなもの

ここにいても旅はできる

「ねえ、どこに向かっているの」少女が聞いた。

「わからない。でも、ありきたりな言葉かもしれないけれど、まだ見たことがないところへ行ってみたいんだ。」僕は答える。それと共に僅かばかり右足を強く踏み込む。それに応じてメーターは微かに震え、車は速度を上げる。道はどこまでも真っすぐ続いている。周りは見渡す限りの草原が広がっていて、そのなかを、今僕達が進む道は貫いていく。

 どこか遠くへ行ける。この道を進んでいけばどこかへ行くことができる。まだ見たことがない景色を求めて。何か日常を忘れることができるような景色、言うならば忘我をもたらしてくれる景色、そんなものを求めて僕たちは進む。

 扉が開くと、肌を刺すような空気が温もりを追い出そうとばかりに吹き込んできた。僕は思わず肩を上げ、コートの中に縮こまる。そんなこともお構いなしに風は通り続ける。空は晴れている。雲一つなく見事なまでに透き通って見える。空港の建物の隙間からわずかばかり見えたに過ぎないが、それでも否応なしに気持ちは高ぶる。太陽の恵みを全身に満遍なく享受しようと、たったいま縮こまらせた身体を、少し拡げ腕を伸ばす。何時ぶりだろう。記憶を辿ってみたがそれらしきものは、その面影すら残していなかった。同じ便で到着した人たちが続々と脇を通り抜け、隔絶された地へと流れ込んでいく。どこか空港特有の高揚感を滲ませた表情のままに。しばらくして寒さになれると僕は大きく息を吸い込み、そして吐いた。肺の中まで、その肺胞の一つ一つに新鮮な冷気を孕んだ空気を送り込む。

 この感じ。遠くまで来たって気がする。

 そのまま空港の到着ロビーから一歩出たところで辺りを見回す。これから行く人達を下ろし、新たに来た人を迎えるための三車線の一方通行の道路の向こうに、駐車場が広がっていた。そのさらに奥は空港の建物群がそびえているのだが、その脇に目をやると来訪者を歓迎せんと、陽の光を存分に浴びて鮮やかな緑を照らしている山がそびえている。上にはやはり雲の穢れ一つない空がどこまでも果てしなく続いている。そこにまるで空間の識別など存在しないかのように。僕は別に山が好きなわけではない。寧ろ山に向かうよりかは海に向かうことの方が多いのだが、それでもこのときばかりは山に慕情のようなものを抱いてしまう。

100mほど右手の柱の手前に黒のアルファロメオ159が停まっている。数世紀前からそこで僕を待ち続けていたかのように、そこにあるのが至極当然のような雰囲気を醸し出している。僕はそこへ向かって歩を進める。少し近づくと助手席に少女が座っているのが見えた。どうしてこの距離から、それが男性あるいは中年の女性ではなく少女だと確信を得たのかはわからない。ただ何となく彼女が少女であって然るべき気がしたのだ。まだ少女の顔ははっきりしない。やがて少女の顔つきがはっきりと判別できる距離に達すると、僕ははっと息をのんだ。率直に言うと端正だったのだ。いや、端正とだけでは足りないかもしれない。在るべきものが在るべき場所に在るべき程度に存在している。そこに不整合と言う概念は微塵も感じさせない。街で彼女を見かけたならば、人は不随意的に彼女を目で追ってしまうだろう。だからといって人に緊張感をもたらすタイプの整い方ではない。それはある種の懐かしさを抱かせるような整い方だったのだ。ここまで美しい少女はなかなかいないだろう。車に到着すると僕は歩道からドアを開けてそのアルファロメオに乗り込む。(そのアルファロメオは左ハンドルだった。)シートの色は茶色。正式には何かイタリア特有の名称があるのかもしれないが、生憎僕は詳しくない。装飾の類やドイツ車のような独特なにおいもない。ただ、ホイールは黒に塗色され、おそらく若干のインチアップも行われているのだろう。シンプルだが持主の拘りが随所に見受けられる。

「こんにちは」少女が僕の顔を見て言った。顔から浮かぶ印象とは対照的に少女の声は僅かにかすれていた。だが、決して不安を覚えるようなかすれかたではない。寧ろ聞き心地はこちらの方が良いのかもしれない。高さはややソプラノよりのアルト。

「こんにちは」僕が答える。

「よく来たわね。会いたかったわ。」

「ああ、僕もだ。」

フロントガラス越しにはよくわからなかったが、いま隣の席に座って初めてその少女の全貌が目に入った。彼女は見たところ16歳か17歳あたりで、ウエストの辺りにベルトが施された、白のロングのワンピースを着ていた。靴は隠れていてよく見えない。車と同じく装飾の類はつけていない。首がスラっと伸びていること、そして、座席の足元が少々窮屈そうなことから見ても、相当背が高いと窺える。隣で見て改めてその美貌に気が付く。初めてあったはずだが、以前どこかで出会っていたような感覚を覚える。それは少女が持つ雰囲気によってもたらされる感覚なのだろうか。どこか懐かしい感じがする。その場所にずっといたい、包まれていたいと思わせてくれるような。

「どこに行くか決められた?」彼女が言う。

「いや、まだ決めていない。でも、そのうちわかってくると思う。ある種の啓示みたいに。」

「そうね、宿命的なものだから。」彼女が一呼吸おいて続ける。「別に迷ってもいいわ。そういうふうに決められたことであって、私も個人的に嫌いではないから。」

僕は頷いてエンジンのイグニッションキーを回す。年式の古い車やキャブレター特有のキュルキュルした音も無しに。アクセルを少し踏み込み、ふかしてみる。足の動きに寸分も違わずタコメーターが軽やかに跳ね上がる。リアからは余力をもった咆哮が聞こえる。車のプレーヤーからはマッコイ・ターナーのボンボヤージュが流れ出す。悪くない。

「じゃあ、行くよ」僕はギアを一速に入れながら言う。少女が僅かに頷いたのを確認して、アクセルを踏み込む。

速やかに景色が、次の景色に取って代わられていく。そこに一切の惜しみは感じられない。早く新しい景色が見たいという気持ちが先走り、心地よくその変遷を楽しめている。景色もそうされることを望んでいるのかもしれない。何ら躊躇もなしに過ぎ去られることを。空にはやはり雲一つ存在しない。雲という概念はどうやらここには存在しないようだ。果てしなく広がる真っ青な空に、遮るものはない。ただ純粋な空がそこに存在するだけだ。

車は速度を一定に保ったまま、ただひたすらにその歩みを進めて行く。乗り心地は悪くない。時々路面の凹凸を直に伝えることがあるが、それがいいアクセントになっている。Ⅴ6エンジンは心地良くその音を車内に響かせ、自然吸気ならではの俊敏なレスポンスを感じさせる。日本車にはない、どっしりと構えている部分もありつつ、カーブではその面白味を遺憾なく発揮する特性を見せてくれる。

地平線まで道路が真っすぐに貫いており、道路によって大地が垂直に分断されている。前を行く車も対向車も見当たらない、道を行くのは僕たちだけだ。道路の右も左も草原がただひたすらにその領域を伸ばしており、申し訳程度にぽつりぽつりと建物が点在している。草原の彼方には、先ほどの山と新たな山々によって形成された山脈が見える。俯瞰的な目で捉えるといま僕たちがいる場所は、山脈に囲まれた形になっているのだが、何しろその前に広がる草原地帯が広大なため、圧迫感あるいは閉塞感といったものはつゆとも感じない。むしろ開放的な気分だ。ここでアレサ・フランクリンのシンクでも流したら、きっとどこまでも行ける気がするのだろう。その力強い声に押され、どんなことでもやれそうな感じ。かつてそういう類のものに、ある種の憧れのようなものを抱いていた時期もあった。そんなものはとうの昔に忘れていたと思っていたのに。

僕は車のウィンドウをほんの少しだけ下げる。その途端冷たい風が流れ込み、風音が現れる。髪が風にあおられてなびく。顔を撫で、肩を通り過ぎて、風は車内の空気を更新していく。そこに取り残されたものには、一切の気も留めずに。

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